7日目‐1
岩生の森林は広大な場所。
蛇穴と隣国細石との国境があると言っても、その場所は遠く、すぐに辿りつけるような距離ではないらしい。
大木と蔓と固まった泥で出来た洞の中にて、ネネは黙ったままこの場所についての知識を思い出そうとしていた。共に身を寄せ合うクチナは、半分眠りながらも外の様子を何度も窺って目を開ける。熟睡は出来ないまま、時は過ぎて行った。
手元にはクチナが手に入れてきた千鳥梨が一つだけ転がっている。一つは既に食べ終え、もう一つは暫くしてから手をつけようと置いておいたものだった。
此処から細石までまた遠い。
キツがうろつき、影鬼や鬼灯が追いかけている以上、腹が減るまで持っておくのも一つの手であるだろう。
「ネネ……」
不意に、クチナがネネに囁いた。
「眠れている?」
優しげなその問いに、ネネは抱きつきながら答えた。
「大丈夫よ、クチナ」
ふらりと眠り、はっと起きる。
ネネもまたその繰り返しだった。
クチナと同じく熟睡する事は困難のよう。深い眠りに落ちる前に、何者かの物音が聞こえ、雷にでも打たれたかのような衝撃となってネネを目覚めさせてしまう。
「クチナは……?」
問い返せば、クチナは目を閉じたまま微笑んだ。
「大丈夫。君の香りが癒してくれるから」
そんなやり取りを数回は繰り返した。
休みをとったらすぐにまた北方の細石を目指さなくてはならない。しかし、クチナが動かない限り、ネネもまたじっとその時を待つしかなかった。
――疲れている。当然よね。
いくら頑丈だとはいっても、心身の疲れは蓄積していく一方だろう。せめて自分の癒しが役立てばいいのだが、生憎、ネネにはその実感もわかない。ネネは常に不安だった。望むのは今やクチナの勝利だけ。
――大蛇様が御止になるまで、か。
そう言っていたのが、もはや遠い昔のようだった。
「……八花に行ったらさ」
ふとネネの身体にもたれかかりながらクチナが呟いた。
「七花地方と十六夜町、端から端まで旅してみるのもいいかもね。知ってる? あの国にも人柱がいるんだって。子羊と呼ばれる八人の巫で、皆それぞれの花の神様に仕えているんだって」
「人柱……生贄が、八花にも……?」
「うん、でも向こうの国は此方とは違う。殺されることなく生きながら花の神様に仕えて、一生穏やかに過ごすだけなんだって。多少は不自由かもしれないけれど、赤の少女よりもずっとましだ。それで八花の平穏も保たれているのだし」
「クチナは物知りね。わたし、他国の事なんて何も……」
「全部、兄さんや姉さんに聞いた話だよ。二人とも御勤めで遠くまで行かされるんだ。大蛇様と親交の深い神様の下で何か諍いがあったら、鬼灯の者が借りだされることがあって、細石や天翔なんかは、結構よく鬼灯の者が御勤めで足を踏み入れる。八花はその天翔の御隣。その時も、天翔絡みの用事で行かされたんだよ」
「その時も、クチナは御留守番?」
「うん。まだ小さかったしね。大きくても行くのは無理だっただろうけれど。留守番したわたしに兄さんも姉さんもお土産をくれた。その時に、八花の事も教えてくれたんだ」
クチナの話を聞いて、ネネは静かに想いを寄せた。
ネネが八花について学んだのは最低限の事だ。八花を支える花の神の名前くらいは教えられたものの、その神々に捧げられる人柱の話なんて掘り下げられるわけもなかった。どんな暮らしをしているのか、紙に書かれた薄い文章では何も分からない。
「大蛇様には出来ないのかな」
と、ネネの身体を抱きしめながらクチナは呟いた。
「花の神様みたいに、傍に置くだけでいいって事にはならないのかな。幾ら美味しそうでもさ、わざわざ食べてしまわなくても、こうするだけで君の力を受け取る事は出来るのに」
ひんやりとしたその抱擁を受け入れながら、ネネもまた憂えていた。
「クチナ……」
気を吸い取られていることを実感しながら、ネネは素直に言ったのだった。
「あなたが大蛇様だったらよかったのに」
その言葉にクチナはしばし黙りこんでしまった。
そうして気を吸い取り続け、ネネの意識が眠気の狭間へと落とされていく緩やかな時の合間に、クチナはようやく言葉を放った。
「そうだね」
淡々とした声。
「わたしが……もっと……」
そこまで言ったものの、クチナは結局首を横に振ったのだった。
「いいや、やめておこう。これ以上は無意味だ。とにかく、わたし達の気持ちを大蛇様が分かってくれるまで頑張ろう。君の事は誰にも渡さない。だって君は――」
「あなたのものだもの」
からかうようにネネは言った。
「いつの間にか、身体だけじゃなくて心まで、あなたの強い意志に攫われているみたい。今までの常識が変わってしまうほどに。おかしいよね。最初はあんなにあなたを軽蔑していたはずだったのに……」
「……ネネ」
「いいの。あなたのお陰でずっと封印してきた気持ちが返ってきた気がする。きっと、このわだかまりはずっとあったのね。気付かないふりをしていただけ。あなたの訪れがそれをすっきりさせてくれた」
ネネは正直に打ち明けた。抱えていた感情をそのまま言葉にして、飾らぬ姿でクチナと向き合い、告げたのだった。
「だから、ありがとう。外の世界を教えてくれて、ありがとう」
「ネネ」
素直なネネの言葉を受け止めるなり、クチナはその小さくて頼りないネネの体を抱きしめた。暖かなネネの体から、その美味しそうだという気には一切手を付けず、ただただその吐息と鼓動を感じて、静かに目を閉じ、誓うようにクチナは言った。
「絶対に君を大蛇様の好きにはさせない。この妖刀蛇斬に誓って、君を八花まで連れていくと約束する」
ネネは抱きしめられながら、クチナの真横に置かれたその妖刀へちらりと視線を送った。蛇斬という名前。その響きはネネの頭の中でこだました。クチナが未来を約束したその刀の名前が、いやに不吉なものに思えたのだ。
――蛇を斬る刀。
クチナもまた蛇神の血を引く存在。その刃が切り裂くのは運命なのか、はたまたネネを導くクチナ自身なのか。
「そろそろ……行こうか」
クチナが呟いた。
「日ももうじき暮れる。この場所もよからぬ者に見つかってしまうかもしれない。その前に、細石を目指そう」
「……うん」
促されるままにクチナに続いて外に出てみれば、すっかり辺りは日も暮れ、寂しげな虫の音がアヤカシの時刻の訪れを告げていた。
ネネは手を付けていない千鳥梨を片手に持ちつつ、クチナの真横に寄り添って辺りを窺った。
嫌に肌を刺す空気が漂っているような気がする。
これまでは危険であるのか、そうではないのか等、クチナに頼らなくては分からなかったのだが、今の空気はそんなネネでも怪しいと一瞬で理解できるほどにぴりぴりとしていた。だが、ネネにはその緊張の正体がわからない。アヤカシなのか、追手なのか、はたまた夜に動き回るケダモノなのか。
「ネネ」
さり気なく差し伸べられたその手を、ネネは握りしめた。
クチナはネネの手を引っ張ると、周囲を気にしつつもただ北へと走り出した。そんなクチナの行動に釣られたかのように、二人の周囲で怪しげな物音が生まれだす。夕闇に包まれていく世界の中で、影となって追ってくる者の気配。
ネネは不安に駆られてクチナと共に走った。
今はまだクチナにも余裕がある。その証拠に、ネネを抱えずにわざと歩みを合わせている。その速さで十分と判断してのことだろう。
――だから、大丈夫。大丈夫なはず。
不安はそう簡単には消えない。
日が沈んだ今、ついてきているのは影鬼ではないだろう。では、何者なのか。夜の訪れとともに、その姿は何故だか逆にはっきりと見えてくる。見えるのはなぜか。月の光のせいではない。追手の持つ灯りのせいだ。
「あの人たち……」
ついて来ている者の姿を見るなり、ネネははっとした。
見覚えのある者たちだったのだ。町に入る前に全身を衣で隠していた怪しげな旅人。およそ人間とは思えない目をした男とその仲間たち。キツを警戒していたと思われるそのアヤカシたちが、北を目指すネネたちと適度に距離をとりつつついて来ていたのだ。
クチナはそんなネネを横目にしつつ、怪しげに笑みを浮かべた。
「結局、こっちに来ちゃったんだね」
「どうして、あの人たちが……」
「所詮、あいつらは余所者。大蛇様への忠誠心なんてないのだろう。だから、キツ達にも目をつけられていたのかもしれない。なんにせよ、ついて来ているのなら、わたし達にとってよからぬ者には変わりないね」
「あの人たちも、他のアヤカシと一緒ってこと?」
「うん。たぶんそう言う事なのだろう。ネネ、わたしの背に乗って。この辺り、こいつらの気配だけじゃ済まないみたいだ」
言われるままに背中へと身を預ければ、クチナは飛ぶように進み始めた。
蛇神の血を引く鬼灯ならではの速さだが、アヤカシならばついて行くのにも苦労はしないのだろう。旅人たちもまた本気で追いかけ始めた。振り返りつつ、ネネは恐れを感じた。
会話もでき、人に紛れて旅をするようなアヤカシでさえ、他のアヤカシのようにネネを狙って追いかけてくる。それは会話もろくに出来ないような弱いアヤカシに追われるよりも恐ろしいことだった。
説得は通用しない。会話が出来たとしても、それは出来ないも同じこと。
それがネネは怖かったのだ。
クチナは一心不乱に走り続ける。戦うのではなく、旅人たちの猛追を振り払うことだけを考えているようだった。しかしそれは、勝てない、と判断してのことではなかった。
「今、誰かの血を流すのは危険なんだ」
クチナが言った。
「キツが近くにいる気配がする。あの余所者たちを、そしてわたし達を追っているのだろうね。キツは血の臭いに敏感だ。もしも不用意に流せば、すぐに居場所がばれてしまう」
「でも、クチナ……追いつかれてしまうよ!」
ネネが思わず叫んでしまったちょうどその時、いつの間にか旅人の数名がクチナの行く手を阻んでいた。真横にも、そして後ろにも、かのアヤカシ達はいた。ネネとクチナを取り囲み、行く手に立ちはだかって嫌らしく笑うのは、町の外で話しかけてきたあの男だった。
「逃げることはないじゃないか、御嬢ちゃん方」
「やっぱりあんたらか。月瞳……っていうのだったかな」
周囲を睨みつけながらクチナがそう言うと、男たちは驚いたような表情を浮かべてから、再び笑った。
「ほう、小娘の癖に物知りなことだな。いかにも、俺らは月瞳。風の赴くままに南へと訪れてみれば、思わぬ掘り出し物に出会えたものよ」
「掘り出し物、ねえ。じゃあ、わたし達が何なのか知ってるんだ」
クチナの言葉に月瞳たちはにやりと笑う。
灯りはその手に持っているのではない。彼らの目が灯りであった。月瞳と呼ばれる通り、月光のように彼らの瞳が光っている。それだけではない。ネネは怯えつつ取り囲むすべての者の顔を見つめた。
見る見るうちに顔が変わっていく。人間のようだったその顔は、今やケダモノのように変貌してしまった。
その瞳は昨日見たように縦に切り込まれた形ではなく、満月のように丸い。笑いながらむき出す牙は、昨日よりも鋭く尖っているように思えた。そして、額と頬より伸びる髭。尖った耳に小さな鼻。
――これは……。
ネネはその顔を見て、息を飲んだ。全員、猫の顔をしていたのだ。
かつてネネが過ごした牢にも猫はいた。人間に害をなす鼠を捕らえる仕事を気ままに引き受け、時折、柵をすり抜けネネの元にも訪れていたのだ。猫というものを知らないわけではない。そのため、猫の顔もよく見慣れたネネだが、月瞳たちの顔はそんなネネでも震えてしまうくらい獰猛な心を宿していた。
――化け猫……。
「もちろん、知っているさ」
猫の顔をした男が口を開けて嗤っている。
「蛇穴の要。朽ちた土地を治める女神の宝。キツ共が騒いでいたからね。まさかお目にかかるとは思いもしなかったが、こうして出会ったのも何かの縁。黒の少女。是非ともお手合わせを願いたい」
「目的はこの子か?」
クチナが吠えるように問うが、月瞳たちはそれすらも嘲笑う。少しもクチナを恐れてはいないらしい。そう気づくとネネは一層、不安を覚えた。
「この子は渡さない。これ以上、道を塞ぐというのなら、無理にでもその道切り開いてやる」
「あらあら、勇ましいこと」
背後で月瞳の女がくすりと笑った。
「大した自信だねえ。さすがは蛇神の末裔。だが、世間知らずのお嬢ちゃん、あんたは知らないのかい? あたしらの国――八花ではねえ、蛇の子は月瞳の食い物に過ぎないんだよ」
「八花?」
クチナが気を取られた瞬間、両脇にいた月瞳たちが急に襲い掛かってきた。
やや遅れはしたが、クチナはすぐに片手で妖刀蛇斬を抜いてそれを封じる。だが、休む間もなく他の月瞳たちも動き出し、一斉にクチナを狙いだした。
爪のような小刀を使って、クチナを捕らえようとする月瞳たち。その全てを妖刀で防ぎつつ、クチナは月瞳たちに言った。
「お前たち、八花から来たのか?」
「無駄口か。その余裕、いつまで持つかな」
月瞳の男に言われつつも、クチナはさらに問う。
「何故、蛇穴に来た。八花からこちらに来た理由は何だ」
「舐められたものだ。教えるほどの理由なんざねえよ。それとも何だ。お前たち、八花でも目指しているというのか?」
男の問いにクチナが黙ると、共に戦う月瞳の女の一人が笑いだした。
「おやまあ、そりゃあ大した逃亡劇だね。お前たち、そこまでたどり着ける気でいるのかい。土台無理な話だ。遅かれ早かれ、お前たちの道は誰かに閉ざされる定めだろうね」
「うるさい。お前たちには関係ない。いずれにせよ、閉ざすのはお前たちなんかじゃない!」
反論するクチナを月瞳たちは馬鹿にするように見つめている。
「ふん、何があったか知らないが、八花なんざ夢のまた夢。諦めちまいな。此処からどれだけ遠いと思っているんだ。そこに至るまでの異国――特に、細石は世間知らずのお姫様じゃ想像もつかないほど荒れているんだよ」
「そうさ。どうせたどり着けねえんだ。どうせならもっといい場所に案内してやろうか。俺たちの胃袋の中にさ!」
嘲笑いながら月瞳たちは襲い掛かってきた。
八花から来たアヤカシ。自分たちを襲おうとしている存在とはいえ、目指す場所から来た余所者の姿はネネの気を惹くものだった。
――細石が荒れている? どういうことかしら。
おそらくはクチナもそうだろう。だが、話し合いなど期待できるはずもない。
ネネを背負いながら、クチナは蛇斬を振るった。
アヤカシ同士の戦いはネネの目には捉えられない。
だが、クチナと一体となっているような感覚の中で、確かな手ごたえをネネも感じた。
直後、月瞳の一人が悲鳴を上げた。男だ。大将格ではなく、彼に付き従っていただけの者。その男に気を取られた女も一人、クチナの刃の餌食となる。相次いで二人を切り捨てられ、月瞳たちの顔色が変わった。
地面に伏せ、苦しむ仲間を見つめると、男は毛を逆立てた。
「蛇娘の癖に生意気な。連れの苦しみ、倍にして返してやろうぞ」
男に同調するように、他三人の月瞳たちも怒りで毛を逆立てる。牙をむいてクチナとネネを取り囲み、その目と爪のような小刀を光らせていた。
男が二人、女が二人。
クチナは注意深くその動きを見つめ、蛇斬を構える。月瞳の四人は一斉にクチナに飛び掛かろうとしている。誰が真っ先に来るか。誰の動きがどのくらい早いか。それらをほぼ感覚のみで見切り、動いていた。
これまで切り捨てた弱きアヤカシよりもずっと、相手の動きはすばしっこい。それでも、クチナには自信があるようだ。相手の力を見抜き、妖力の流れを見抜き、応じて動くことができる自負があったのだろう。
しかし、月瞳の一人――大将格の男の動きと妖力が不可解な動きを見せた途端、その自信は脆くも崩れ去った。
思っていた通りに迫ってくる月瞳たちと、思ってもみない動きで迫ってくるその男。両方に気を取られたクチナは、迫っていた一人の女を斬ると同時に態勢を崩して転びかけた。その一瞬の隙を見逃さず、残った月瞳の内一人の男が迫り来た。迎え撃つ形でそれすらも斬ると、さらに追撃にと迫っていた女の刃をどうにか避けつつ、その女すらも刃の餌食とした。
それを見て、大将の男が感心したように眉を上げた。
「ほう、さすがは鬼灯の秘宝。若くとも妖刀を託されるだけあるのだな。てっきり、浮世と隔離されたままの姫子に過ぎぬと思っていた。単なる剣士ごっこではないようだな」
残されたのはその男だけ。仲間たちは刃の傷に動けないまま伏せている。命までは奪われていない。だが、恨めしそうに光るその瞳は、クチナの背に負われるしかないネネの心をさらに凍り付かせるものだった。
「さあ、あとはお前だけだ。来るなら来い」
「言われずとも、友を苦しめたその痛み、倍にして返してくれよう!」
怒りに唸る男のその目は今までに増して、荒々しく光っていた。




