6日目‐2
町を行き交う人々を見つめ、ネネは始終クチナにくっついていた。
こんなに人間が行き交う場所は初めてだ。
牢の中で想像していたよりもずっと町は忙しないものだった。
日が沈めば人々は眠る。そういう町や村も多いと聞くが、クチナと共に訪れたこの狐尾町という場所は、クチナが先に話してくれた通り、昼と夜の二つの顔を持つ町であった。
日が暮れて暫くまでは活気あふれた通りも、いつの間にか灯籠のみとなり、アヤカシが潜んでいそうな暗闇が包みこんでいる。
代わりに、日が沈む前まではひっそりとしていたらしき通りでは、昼間には出歩いていなかったような風貌の者たちがあらゆる声を出して賑わわせていたのだった。
猫なで声の女、豪快に笑う男、何故か泣いている男、ひそひそ話をする女。
様々な姿で様々な時を過ごしている人間たちを見つめ、ネネは思ったのだった。
――まるでアヤカシみたいだわ。
そこに居る人間たちは、雌鶏様は勿論、牢で世話をしてくれた女や牢を守っていた男に似たような者はいない。また、時折、窺えた集落に住まう民のようなものもいなかった。
――何故だろう。何が違うのだろう。
小奇麗にしていながら、あまりに鮮やか過ぎて目が回りそうな姿。派手な彼らの空気に包まれながら、ネネはクチナに従って、明りの灯る通りを恐る恐る歩きながら密かにそう思っていた。
時折、歩む二人を目にした人間が声をかけてくる。出店をしている主人らしい。ネネが牢の中では見なかったような、そして、学ばなかったような玩具と紙で出来た面を幾つか見せては、誘うのだ。
「お安くしとくよ、どれか如何かね?」
「えっと……」
言い淀むネネの手を引っ張り、代わりにクチナが答える。
「悪いけど、お金を持ってきてないんだ。また今度ね」
適当にあしらいながら、足早に去っていく。ネネもまた引っ張られるままにクチナの後を追ったのだった。
出店のない場所まで行くと、クチナは立ち止まって振り返った。
「風車に独楽、御弾きに面子に人形に御面。他にも色々あったね」
「さっきの玩具の事?」
「うん。ネネは遊んだ事ある?」
「ない……かも。初めて見るものばっかり」
「そっか。誰もくれなかったんだね」
「クチナはあるの?」
「あるよ。珍しい玩具があると、兄さんが御勤めがてらこっそり買ってきてくれたりしてさ。姉さんも何度か人形とか御弾きとか買って来てくれたことがあった」
「そっか……いいなあ」
なんとなく、ネネはそう呟いた。
単純に遊んだことがあるのが羨ましかったのか、家族のやり取りが羨ましかったのか、ネネは自分でも分からなかった。特に羨んでいる自覚もなく言ったのだ。
だが、そんなネネをじっとクチナは見つめ、しばし黙りこんだのだった。
「クチナ?」
呼びかけても、クチナはすぐには答えなかった。代わりに、首を傾げるネネの頭にぽんと手を置くと、突然撫で始めたのだった。
「……八花に行ったらさ、お金を稼いで君が欲しいもの何でも買ってあげる。八花はここよりもっと栄えているってきくから、もっともっと面白いもの一杯あると思う」
突然の宣言に、ネネは驚きつつも嬉しくなった。
だが、すぐに思いなおし、言ったのだった。
「買いたいものは自分で買えるようになりたい。八花に行ったら、わたしもお金を稼ぐ方法を探してみたいな」
「そっか。それもそうだね。じゃあさ」
と、クチナは少しだけしゃがんでネネと目を合わせてから言った。
「お金を稼いだら、お互いの欲しい物を買って贈り合うってのは、どうかな?」
「いいね、楽しそう。ぜひ、そうしましょう」
ネネとクチナは夜の灯りに囲まれながらこっそり笑い合った。
存分に八花への憧れを深める中、ネネはふと少し前までの自分の葛藤を思い出した。そんなに昔の事ではない。たった一日か二日前の事のはずだ。だが、あの感覚を忘れてしまっていた。どんなに思い出そうとしても、戻って来る気配はない。
罪悪感が全くないわけではない。優しい母のような雌鶏様のことを思い出せば、まだ胸が少しだけ痛む気がした。それでも、クチナと過ごせば過ごすほど、ネネの関心は取り返しがつかないほど外へと向いてしまっていたのだ。
――八花に行きたい。
ネネは強くそう思った。
――赤の少女であった事なんて忘れて。
許されないと分かっていながらも、一度抱いた願望はなかなか消えそうになかった。
「さてと、このまま町の雰囲気を楽しむのもいいのだけれど」
ふとクチナは周囲を見渡しつつ小声で囁いた。
「生憎、わたし達は追われている身。蛇神様の御威光の強いこの町にあんまり足跡を残すのは危険だろうね。どうせお金もないし」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「町を眺めつつ、緩やかに北門を目指そう。閉まっているかもしれないけれど、その時は朝まで周辺で適当に暇を潰して、開門と同時に出よう」
「そっか。うん、分かった」
町に存在している店は、金銭無き者には無縁の場所。
そうは聞いていたけれど、一夜くらいならばそれでも雰囲気を楽しめそうだ。ネネはそう思いつつ、改めて周囲を見渡した。
クチナの目指す八花は、ここよりもずっと栄えている。
どんな場所なのだろうと思うと想像が膨らむばかりだ。
ネネが学んだのは蛇穴の事ばかりだった。蛇穴の礎となるのだから当然なのだろう。いかに蛇穴が大蛇様によって守られてきたのか、その歴史や人間たちの生活と共に学び、その尊さを教えられてきた。
――だから、赤の少女は必要不可欠な御方なのです。
雌鶏様の言葉が頭を過ぎる。
きっと赤の少女がこんな場所に居ると分かれば町の者たちは混乱するだろう。そんな光景を想像すると、申し訳ないやら、悪戯心がくすぐられるやらで、複雑な気分になった。
「どうしたの、ニヤニヤしてさ」
クチナに問われ、ネネは慌てて目を逸らした。
「べ、別に。何でもない」
「何でもいいけれど、そろそろ行こう。町って意外と広いからさ」
そう言ってネネの手を握って再びクチナが歩きだした時、周囲の人間たちの囁き合う声が二人の耳に届いた。
「あれが、キツかい?」
「しっ、神様の御使いだよ。キツ様と呼びなさい」
「何で、彼らが? 何かよからぬ事でもあったのだろうか」
「術者の噂によれば、蛇穴を踏み荒らすアヤカシを追ってきたのだとか言ってたねえ」
「何にせよ、気味悪い。神様の御使いなら、さっさと仕留めて欲しいところだよ」
「失礼だぞ、キツ様に向かって。富が逃げて行ったらどうする」
行き交う人々の囁き合うその声。
それを聞いて、クチナの足がぴたりと止まる。ネネもまたその様子に緊張した。しばし何かを考えた後、クチナはネネの手を引っ張り、通行人の視線の間をすり抜け、目立つことなく裏通りへと身を潜め、大通りを睨みつけた。
「キツ……」
緊張気味に呟くクチナの傍に身を潜め、ネネもまた裏通りを見つめた。
通行人達が興味深げに眺めているのは、先程までクチナが目指していた方角。そう時間も置かずに、その奇妙な一行は見えてきた。
赤く染められた衣服に白狐の面。姿は人間の大人のように見えるものの、伸ばした髪は白く、その間に生える白い毛の耳はどう見ても人間の耳をしていない。そして何よりも白くふさふさとした尾がふらふらと揺れている。
帯刀している数名。男なのか女なのかは大まかにしか予想できない。ただ、誰もがただの人間の守人などよりも――イヌなどよりも力があるのだろうと想像出来る風貌だった。
――あの人たちが、キツ……。
彼らが現れると、囁き合っていた声がぴたりと止まった。
刀に下げる鈴の音が辺りに響き渡っている。そして、地面を踏みしめる度に、地の邪を鎮めるかのような下駄の音が鳴り響く。人間ならば歩きにくそうな下駄だが、アヤカシならば問題ないのであろう。
――大蛇様と親しい狐神様の子孫たち。
いうなれば、鬼灯の者たちと同じようなものだ。
違いと言えば衣服。昨日、クチナを追い詰めたオニ達の服は皆、黒かった。それに対して、彼らの衣服は赤。
――赤は約束の色。
ネネはふと自分の着ているすっかり薄汚れた赤い衣を見つめた。
キツが約束するのは、始祖神である狐神様への忠誠と、蛇穴に住まう人間たちへの友好。そして、蛇穴を守る大蛇様への尊敬であるのだろう。
狐神様もまた同じように、赤色を身に付け、大蛇様への友好を示しているらしい。
――じゃあ、黒は何の色なのかしら。
その色の意味をネネは知らない。
赤の少女が知らなくていいことなのだろう。
清涼な鈴と下駄の音が辺りに響き渡る中、キツの一行はネネ達の目の前を通り過ぎて行こうとしていた。一言も喋らず、呼吸も忘れそうなくらい緊張しながら、ネネはその光景を見守っていた。
だが、彼らは通り過ぎてはくれなかった。
キツの一行のちょうど真ん中。一際、白い青年らしき者が通り過ぎようとしたところで、ぴたりと立ち止まってしまったのだ。それに合わせ、周囲のキツ達も立ち止まる。彼を窺うように見つめはじめた。
その様子にクチナが緊張を高める。
「……香り」
キツの青年が呟くように言った。
「金木犀の香りだろうか。だが、酸漿にも似ている不思議な香りだ。ああ、それに、それだけではないようだ」
「司様?」
仲間に問われ、司と呼ばれたその青年はゆらりと視界を動かした。
「そういえば蛇穴ではもっともっと大きな問題が起こっていたのだったね」
そう言いながら彼は風の匂いを嗅ぐ。
そして、ゆっくりと、彼はネネとクチナの居る場所を確かに捉えた。表情の変わらぬ面に見つめられ、クチナの身体に力が籠る。手を握られながらそれを感じながら、ネネはいつでも走れるように身構えていた。
「あれだ」
司が指をさして示すと同時に、クチナはネネの名を呼んだ。
「ネネ」
「うん」
「行くよ」
「うん!」
手を引っ張られても転ばぬように、いつでも走る準備は出来ていた。だが、クチナは端からネネの歩みに頼らず、その身体を抱えて闇へと紛れこむように逃げだした。
その理由はネネにもすぐに分かった。背後より音もなくそよ風のように迫りくるのは、司と共にいたキツたち。指示を受けてすぐに二人を追ってやってきたのだ。
「面倒な奴ら。余所者のアヤカシを追えばいいのに」
悪態を吐いて間もなく、クチナの行く手にキツの姿は現れた。
「御待ちなさい、蛇姫様」
その呼びかけを無視する形で、クチナはネネを抱きしめてキツを飛び越える。そのまま夜空を駆けるように飛翔し、あっという間にどこぞの屋敷の屋根へと着地した。
「ええい、待てと言っておるのに」
嘆くキツの言葉に、クチナは苦笑する。
「待てと言われて待てるかっての」
一方、ネネは屋根より見渡す町の風景に驚愕していた。高所より下方を見渡す恐怖はあまり経験した事はない。クチナに連れ出されて以来、少しは感じる機会もあったが、ここまで不安定な場に連れられたのは初めてだった。
戸惑うネネに気付いて、クチナは言った。
「高いところは怖い? 当り前か。御免ね。こうなったら一気に北を目指して町を出よう。どうせ人間たちにも見られちゃったしね。屋根伝いに壁を超えちゃおう」
「う……うん」
クチナに導かれ、ネネは縋りつくようにその背にしがみ付いた。
戦うなんてことはしないのだろう。両手でしっかりとネネの身体を支えると、追いついてきたキツたちを一気に振り切って走り出す。
「御待ちなさい、黒の少女! あなたのような御方がこれ以上、罪を重ねてはなりません!」
キツの女が背後では叫んでいる。
ネネは振り返り、屋根より町を見下ろし、この光景を茫然と見守っている町人たちの顔も見つめた。ネネと目が合うと、彼らは総じてびくりと震えた。
何が起こっているのか、何故、追われているか、分かる者もいるのだろう。ネネの姿を見るなり、何者かに祈りを捧げる者もいた。
「彼らをあんまり見ない方がいいよ、ネネ」
走りながらクチナは言った。
「所詮あいつらも大蛇様を盲信している人間たちだ。ひょっとしたら君の心が痛むようなことを考えているかもしれない」
「……そう、かもね」
見つめながらネネは同意した。
人間たちの中には騒動にうろたえる者もいれば、すっかりキツたちの為に動きだすものもいた。追手のキツを振り切ったかと思えば、何処からともなく人間たちのキツを呼ぶ声が聞こえてくる。時折聞こえるのは、鬼灯という言葉。皆、クチナの正体を知らないわけではないらしい。それならば、当然、ネネの正体も知っているのであろう。
「蛇姫様、どうか怒りをお鎮め下さい。赤の少女は我らの宝。哀れな我々の為にも、どうか御返しください」
そんな人間の嘆きが聞こえ、ネネは心を痛めた。
彼らにとって百年に一度生まれてくる赤の少女は希望の証。次の百年も大蛇様の庇護を受け、平穏な時代を続けていく誓いとなる代物なのだ。
――でも、わたしは……わたしは……。
かつてならば、その責任を受けとめ、その身を捧げることに何の疑問も抱かなかっただろうけれど、今のネネはもう違う。クチナに身を寄せ願うのは、ただ未来への憧れというどうしようもない夢物語だったのだ。
――わたしは、どうしたらいいの?
クチナと語り合った未来が欲しい。
その願望は、これほどまでに罪深いことなのだろうか。
「ネネ」
北の方角を目指し続け、クチナは震えるネネに囁いた。
「泣かないで、ネネ。君が泣くと、わたしも悲しい。赤の少女が好きに生きたとしても、蛇穴は滅んだりしない。そのくらいで大蛇様は駄目になったりしないはず。邪を引き受ける力は弱まるかもしれないけれど、神に守られぬ他国に少し近づくだけで恵まれているのは変わらないんだ。だから、だから、君が思い悩む事はないんだ!」
屋根を飛び渡りながら、クチナは言った。
その慰めに、ネネは縋りつく。それは、ネネは今、一番求めている言葉であった。生贄など辞めたいと思い始めてしまった自分への最大の慰め。地上で嘆く人間の言葉とクチナの言葉、どちらを信じるのが幸せなのか等、考えるまでもなかった。
「クチナ……」
縋りつきながら、ネネは囁く。
「わたしを八花まで攫って行って」
その言葉は逃げるクチナに力を与えた。




