秒針の遅れ
1つ目 秒針の音
その異変に気がついたのは、蒸し暑い夏の夜のことだった。
会社員の高橋和也は、ベッドに横たわりながら、寝室の壁に掛けられたアナログ時計の音を聞いていた。
カチ、カチ、カチ。
規則正しく、機械的に時を刻むその音は、彼にとって入眠のための心地よいBGMであるはずだった。
しかしその夜、和也の脳裏に奇妙な違和感が芽生えた。
(……間隔が、妙に長くないか?) 和也はスマートフォンを手に取り、画面に表示されるデジタル時計の秒表示と、壁時計の音を同期させてみることにした。スマートフォンの画面が「01、02、03」と進む。
それに合わせて壁時計も「カチ、カチ、カチ」と鳴る。
最初は完全に一致していた。
しかし、数十秒が経過した頃、明らかなズレが生じ始めた。
スマートフォンの数字が「45」に変わったとき、壁時計の「カチ」という音は鳴らなかった。
「46」に変わる直前になって、ようやく一拍遅れた鈍い音が響いた。
時計の電池が切れかかっているのだろう。
和也はそう結論づけ、明日新しい電池を買ってこようと思いながら眠りについた。
翌日、新品の乾電池に交換した。
しかし、事態は改善するどころか悪化した。
その夜、ベッドに入った和也の耳に届く音は、昨日よりも明らかに遅くなっていた。
「カチ」
……そして、次の「カチ」が鳴るまでに、まるまる三秒ほどの空白がある。
まるで、時計の内部の歯車が、目に見えない強固な何かに押し留められているかのような、重苦しい遅れ方だった。
静まり返った部屋の中で、その不規則な音は奇妙に神経を逆撫でした。
和也は時計を壁から外し、電池を抜いてクローゼットの奥へと押し込んだ。
これで静かになるはずだった。
だが、ベッドに戻り、枕に頭を沈めた瞬間、再び音が聞こえてきた。
「……カチ……」
音は小さかったが、確かに聞こえた。
クローゼットの中からではない。
まるで、自分の頭の真後ろ、壁の隙間から染み出してくるかのような、こもった音だった。和也は身を起こし、部屋を見渡した。どこにも時計はない。
スマートフォンはサイレントモードだ。
「……カチ……」
やはり鳴っている。
今度は、先ほどよりも音の間隔がさらに伸びている。
次の音が鳴るまでに十秒、いや、二十秒はかかっているのではないか。
静寂が部屋を支配する時間が長くなればなるほど、和也の心臓は激しく高鳴った。
闇の中で、次の「カチ」を待つこと自体が、耐えがたい拷問のように思えてくる。
息を潜めて待つ。
三十秒が経過した。まだ鳴らない。一分が経過した。部屋の中は完全に無音だった。
自分の呼吸音さえも恐ろしくなり、和也は息を止めた。
世界からすべての音が消え去ったかのような、完全な静寂。
そのときだった。
「……カチ……」
それは時計の音ではなかった。湿った、硬いものがぶつかり合う音。
和也は凍りついた。音の発生源は、壁でもクローゼットでもなかった。
自分の耳元、わずか数センチの暗闇から聞こえたのだ。
「……カチ、カチ……」
それは、人間の歯と歯が、激しく噛み合う音だった。
あまりの恐怖に悲鳴を上げようとした和也の口を、冷たく湿った指のようなものが、暗闇の中からそっと覆い隠した。




