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新しい部屋の鍵は、会社のデスクの引き出し、一番奥にある名刺入れの中に隠してある。
仕事中、ふとした瞬間にその銀色の冷たさを思い出すだけで、私の心臓はトクンと跳ねる。それは恋の鼓動ではなく、脱獄を企てる囚人の高揚感に近い。
引っ越し業者は、直也が長期出張で不在にする来月の木曜日に手配した。
荷物は最小限。彼に買ってもらった服も、アクセサリーも、彼と選んだ家具も、すべて置いていく。持っていくのは、自分で稼いだお金で買った最低限の着替えと、あの九十七万円が入った口座だけ。
私は、私を空っぽにして、あの真っ白な部屋へ逃げ込む。
ところが、予定日まであと三日という月曜日の夜。
帰宅した私を待っていたのは、暗いリビングでワイングラスを傾ける直也だった。
「おかえり、香織。今日は遅かったね」
その声のトーンが、いつもより半音低い。
私は靴を脱ぎながら、背筋に薄寒いものが走るのを感じた。
「……うん、ちょっとトラブルがあって。直也こそ、どうしたの? 珍しいね、平日にワインなんて」
直也は答えず、ゆっくりと立ち上がった。
彼は私に近づくと、私の首筋に鼻を寄せ、深く息を吸い込んだ。
「……何の匂い? これ」
「えっ?」
「香織の匂いじゃない。……埃っぽい、コンクリートみたいな、知らない場所の匂いがする」
心臓が凍りつく。
今日、私は昼休みに例のマンションの近くまで行き、周辺のスーパーやコンビニを確認してきた。その時の「外の空気」を、彼は嗅ぎ取ったというのか。怖い……。
「……気のせいだよ。ずっとオフィスにいたもん。エアコンのフィルター掃除でもしてたのかな、誰かが」
私は努めて明るく笑い、彼の腕をすり抜けてキッチンへ向かった。
けれど、直也の視線が背中に突き刺さっているのがわかる。
「香織。君、最近僕と目を合わせないよね」
直也の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
キッチンカウンターに手をつき、彼は私を追い詰めるように身を乗り出した。
「何か、隠してることない? ほら、前言ってた不動産屋のこととか。……本当は、僕に内緒で何か進めてるんじゃないの?」
彼の瞳は、獲物を狙う爬虫類のように凪いでいた。
ここで「何もない」と否定するのは逆効果だ。彼は、私が怯えるのを待っている。
私はあえて、彼の方をまっすぐに見つめ返した。
「……バレちゃった?」
私の言葉に、直也の眉がピクリと動く。
「実はね、直也の出張中に、サプライズを計画してたの。直也がずっと欲しがってた、あの高機能のコーヒーメーカー。内緒で予約してて……それを置くスペースを作るために、キッチンの模様替えのシミュレーションをしてただけ」
咄嗟についた嘘。
直也は一瞬、呆気に取られたような顔をした。
そして、ふっと表情を緩めた。
「……なんだ。サプライズ? 僕のために?」
「そうだよ。だから、あんまり疑われると悲しいな。……私のこと、信じてくれないの?」
今度は私の方が、捨てられた子犬のような目をして彼を見る。
彼が私にいつも使っている「武器」を、そのまま投げ返してやったのだ。
「……ごめん。ごめんね、香織。最近、君が遠くに行っちゃいそうな気がして、不安だったんだ。……愛してるよ。世界で一番、君を愛してる」
直也は私を強く抱きしめた。
その腕の力は、骨がきしむほどに強かった。
彼は安心したのだ。私が依然として「彼の喜びに奉仕する存在」であるという嘘を信じて。
「お詫びに、明日は僕が最高のご馳走を作るよ。香織の好きなものを全部。……ねえ、明日は早く帰ってこれるよね?」
私は彼の胸の中で、冷ややかに微笑んだ。
「もちろん。楽しみにしてるね」
――――
翌日。
食卓には、豪華な料理が並んでいた。
ローストビーフ、ウニのパスタ、トリュフが香るサラダ。
どれも私の好物だ。けれど、そのどれもが「直也が、私を支配するために用意した餌」に見えて、吐き気がした。
「美味しい? 香織」
「うん、最高だよ。やっぱり直也の料理は世界一だね」
私は機械的にフォークを動かす。
直也は満足そうにワインを飲み、饒舌に将来の夢を語り始めた。
また昇進が決まりそうだから、来年はもっと広い部屋に引っ越そう。結婚式の準備もしなきゃね。子供は二人がいいかな……。
その言葉の一つ一つが、私にとっては死刑宣告のようだった。
でも、私はそれを聞き流しながら、心の中でカウントダウンを続けていた。
(あと、二日)
食後、直也がシャワーを浴びている隙に、私は彼のスマートフォンを手に取った。
彼が私に隠れて、私のSNSを監視しているのは知っている。
私はあえて、彼に見えるように「下書き」のメモを残した。
『直也へのプレゼント、喜んでくれるかな。出張から帰ってきた時の顔が楽しみ』
これを見れば、彼は安心するだろう。
木曜日、彼が出張に発つその瞬間まで、私への疑いを完全に解いてくれるはずだ。
シャワーの音が止まる。
私は素早くスマートフォンを元の位置に戻し、ソファでリモコンを持って、サブスクのドラマを適当に漁って見せた。
「香織、お待たせ。……ねえ、今日は一緒の時間に寝よう? もうすぐ出張で会えなくなるし」
半分濡れた髪のまま近づいてくる彼。
その顔は、本当に「最高の彼氏」そのものだった。
優しくて、一途で、私を必要としてくれる、理想の男性。
でも、直也。
あなたは一つだけ間違えているわ。
あなたは私の「弱さ」を愛しているけれど、私はあなたの「傲慢さ」を愛して、それを肥料にして、こんなに大きな「別れる勇気」を育ててしまった。
あなたが私を甘やかせば甘やかすほど、私の決意は鉄のように硬くなる。
あなたが私を縛れば縛るほど、私は鋭いナイフを研ぎ澄ます。
「……いいよ。ゆっくり休もう」
私は彼の腕に抱かれながら、暗闇の中で静かに目を閉じた。
瞼の裏には、あの空っぽの、真っ白な部屋が浮かんでいる。
さようなら、直也。
あなたの最後のご馳走、とっても美味しかったわ。
おかげで私は、あなたを捨てるための十分な栄養を蓄えることができた。
決行まで、あと少し。
私は、史上最高の「幸せな彼女」として、あなたの最後の日々を彩ってあげる。




