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土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む光は、暴力的なほどに白かった。
キッチンから聞こえてくる、軽快な包丁の音。トントントン、と規則正しく刻まれるリズムが、私のこめかみを静かに叩く。
「香織、起きた? 今日はオムレツを作ってみたよ。君の好きな、グリンピース抜きで、中がトロトロのやつ」
エプロン姿の直也が、眩しい笑顔で振り返る。
彼は料理が得意だ。私なんかよりずっと。そして、それを私に振る舞う彼が、なにより大好きだった……。
「ありがとう、美味しそう」
私は寝ぼけ眼を装いながら、食卓につく。黄金色のオムレツは完璧な仕上がりで、添えられたパセリの一片さえ計算し尽くされているように見えた。
「今日、サッカーの試合だよね? 何時だっけ」
「キックオフは昼からだけど、十時には出ないといけない。そのあと、みんなで飲み会があるだろうから、帰りは夜かな。寂しい?」
直也が私の頬を、フォークを持つ手とは反対の手でそっと撫でる。
「……うん、ちょっとね」
嘘をつくたび、心の中に冷たい石が積み上がっていく。その石の重みが、私をこの場所から引き剥がすための重りになる。
「いい子で待っててね。あ、そうだ。帰りに駅前のケーキ屋で、香織の好きなモンブラン買ってくるよ」
「あ、ありがとう。楽しみにしてるね」
彼が家を出るまでの時間は、永遠のように長く感じられた。
お気に入りのバッグを肩にかけ、鏡の前で入念に髪をチェックし、玄関で「行ってきます」のキスを求めてくる。そのすべてを、私は丁寧に、完璧な『愛される彼女』としてこなした。
ガチャリ、と鍵の閉まる音が響く。
その瞬間、私の背筋に走っていた緊張が、一気に弾けた。
……よし。
私はすぐに着替えた。
彼が好む「清楚で守りたくなるような」淡い色のワンピースではなく、自分が一番自分らしくいられる、ネイビーのパンツスーツを選んだ。鏡に映る私は、少しだけ顔色が戻っているように見えた。
昔の自分のように。
――――
不動産屋の担当者、加藤さんは、私の事情を察しているのかいないのか、淡々と物件を案内してくれた。
「こちらが、お問い合わせいただいた物件です。築浅で、防犯カメラも完備されています」
重厚なドアが開く。
一歩踏み出した先には、まだ誰の生活臭も染みついていない、真っ白な空間が広がっていた。
六畳一間のワンルーム。今の直也との部屋に比べれば、とても狭い。キッチンも狭く、クローゼットも一人分だ。
けれど、そこには「彼」がいない。
彼が選んだカーテンも、彼が「君にはこれが似合うよ」と言って勝手に買った北欧風のランプもない。
ただの、空っぽの、自由な空間。
私はゆっくりと部屋の真ん中に立ち、深呼吸をした。
直也の部屋の空気には、常に彼特有の、甘ったるい柔軟剤と微かな香水の匂いが混じっていた。それは私を安心させると同時に、思考を鈍らせる霧のようなものだった。
ここには、何もない。ただ、冷たい空気と、窓から差し込む無機質な光があるだけだ。
ここでなら、私は私として、息ができる。
「……いかがですか?」
加藤さんの問いに、私は迷わず答えた。
「ここに決めます。手続きを、今すぐ進めてください」
管理会社への審査書類に、自分の名前と、今の会社の住所を書き込む。
『君は僕がいないと何もできない』
直也の声が脳内で再生される。
私はその声を、ボールペンで塗りつぶすように強く、自分の名前を刻んだ。
その時だった。
バッグの中で、スマートフォンが激しく震えた。
画面には、【直也】の二文字。
嫌な予感が、背中を這い上がる。
「……もしもし?」
『あ、香織? ごめん、サッカーの試合中止になっちゃってさ。雷が凄い事になってて……』
心臓が、喉まで跳ね上がった。雨が降るとは知っていたけれど、いつものように、お天気キャスターが『急な強い雨や雷に注意』なんて聞き慣れたセリフしか言ってなかったから、まったく頭に入っていなかった。
『今、丁度、駅。すぐ帰るから、駅前で待ち合わせでもしてランチ行かない? 香織、まだ家にいるでしょ?』
背筋に冷たい汗が流れる。
今、私は駅から電車で四十分も離れた場所にいる。
今すぐ「家にいない」ことを、どう説明すればいい?
「あ……ごめん、直也。実は、ちょっと買い物に出てて……」
『買い物? どこに?』
彼の声から、楽しげな色が消える。探るような、粘り気のあるトーン。
『……もしかして、また不動産屋?』
心臓の音が、耳元でうるさく鳴り響く。
ここで怯んではいけない。ここでボロを出せば、せっかく手に入れかけた「鍵」を取り上げられてしまう。
「違うよ。駅前の……ドラッグストア。ストックが切れそうなものがあったから。……でも、すぐ戻るね。駅の改札前で待っててくれる?」
『……わかった。じゃあ、十五分後ね』
電話が切れる。
十五分。絶対に間に合わない。
「加藤さん、すみません! 急用ができて……書類、残りはメールか郵送でいいですか?」
「あ、はい、大丈夫ですが……どうかされましたか?」
私は返事もそこそこに、不動産屋を飛び出した。
タクシーを拾い、駅へと急がせる。
車窓を流れる景色が歪んで見える。
(怖い。でも、この恐怖こそが、私が彼を捨てようとしている証拠だ)
タクシーの中で、私は震える手でスマホのメモ帳を開いた。
そこには、これまで直也に言われて傷ついた言葉、されて嫌だったこと、奪われた自由の記録が、箇条書きで並んでいる。
・『君のセンスは独特すぎて、僕が選んであげないと恥をかくよ』
・『その友達、香織を利用してるだけじゃない? 会わないほうがいいよ』
・『お金の管理は僕がやるから、香織はお小遣い制にしようか』
一つ一つの言葉が、鋭い刃となって私の心を切り裂く。
でも、その痛みが今の私には心地よかった。
痛ければ痛いほど、彼を切り捨てる刃は鋭くなる。
彼を嫌いになるための、この「絶望の貯金」こそが、私にとっての最大の武器だ。
駅に着くと、改札の前に直也が立っていた。
彼は私の姿を見つけると、ふっと目を細めた。その目は、当然笑っていない。
「……香織、息が上がってるよ。ドラッグストア、そんなに遠かった?」
彼は私の手を取り、その「何も持っていない」手元をじっと見つめた。
「買い物した袋は? 忘れちゃったの?」
私は、心臓が止まりそうなほどの緊張の中で、最高の笑顔を作ってみせた。
「あ、そうなの。欲しいやつが売り切れてて。……ねえ、それよりお腹空いちゃった。あそこのパスタ屋さん行かない?」
直也は数秒間、私を無言で見つめていた。
その数秒間が、まるで一時間にも感じられた。
やがて、彼は満足げに口角を上げた。
「……そうだね。香織はうっかりさんだなあ。僕がついてないと、本当にダメだね」
彼の大きな手が、私の肩を抱く。
その重みに、私は心の中で静かに、けれど激しく叫んだ。
そうよ、直也。私はダメな女よ。だから、あなたは安心して私を支配し続けて。その傲慢さが、私をこの場所から永遠に連れ出してくれる、最高の翼になるんだから。
私は彼の腕の中で、次の計画を練り始めた。
契約書類は、会社に郵送してもらおう。
逃走の日は、もうすぐそこまで来ている。




