新傾国の鉄宰 第四十七話 【見えない飢餓】 〜
(リム君を連れて行くのはいいとして…)
〈どう動くかだな。リム少年も警護対象とするのだろう?〉
『はい。もちろんです。彼一人を守れずに、この街の人を守れるなんて思えませんから』
〈今はそれでいいだろう。だが、多数を守るために少数を切り捨てる。そんな決断を迫られる日が必ず来る――その時はどうするのか、今のうちに考えておくことだ〉
『……』
(そんな日が来ないように、『政治家は理想を語り、官僚は現実を測る』そういう健全な統治機構を早く作ろうよ)
〈ふふ、青臭い理想論だな〉
(理想論、大いに結構。それを現実に落とし込むのが、今回の俺たちの仕事でしょ? 駄目かな、次郎さん)
〈……いや、大いに結構だ。その気概、忘れるなよ〉
ふっとケインが意識を現実に戻すと、目の前ではシモーヌが真剣な表情で辺りを警戒していた。オーケンやリュカ、エルも各々のポジションで魔力の警戒を続けている。
皆、真剣な表情のまま、沈黙していた主人が口を開くのを待っていた。
「皆、ごめんね。警護対象が増えることが皆の負担になるのは分かってはいるんだ。でも、リムを置いていくことは出来ない。全ての人を守るには僕の手が届く範囲は小さくて……」
そこまで言って、ケインは周囲の大人たちが「やはり無理をしているのではないか」と推し量る視線を自分に向けていることに気がつき、慌てて冗談を付け足した。
「――って、僕が子供だから手が短いって意味じゃないよ!?」
「フッ、わかっておりますとも」
子供扱いを嫌う少年の顔を覗かせたケインに、固くなっていたシモーヌの表情がふっと和らいだ。
「少し安心いたしました。先ほど一瞬ではございましたが、ひどく辛そうな表情をされておりましたので……。強烈な臭気をお吸い込みになられましたし、お疲れが出たのかと」
シモーヌやオーケンたちと言葉を交わしながらもケインは、今日半日で知り得た情報の検証を脳内で行っていた。
(人が死ぬ原因は老衰や事故、殺人だったりと色々あるけど、こういう所での一番の死因は病気と飢えのはずなんだよね。確かに建物は朽ち果てているけれど、排泄物や生ごみの匂いがほぼしないんだよねぇ)
〈閉鎖された空間ではありえないことだな。排泄物や病人、死人をまとめて処理する場所を設けているのか。それとも街の外に死人や排泄物を捨てに行っているのか。中町を通って街を出ることはまず不可能だろう。ならば下町やスラムに外への出入り口があるのは、まず間違いないだろうな。となれば、街の外から食料を供給することは可能ではある。食料不足も解決するはずだが……果たして、この街の惨状でそんなことが可能だろうか?〉
次郎の疑問はもっともだが、裕翔にはどうしても気になる点があった。
(食料の供給方法は分からないけど、さっきから道端に座り込む人や、寝そべってる人は多く見かけるけど、飢えに苦しんでいるようには見えないんだ。日本では実際には飢えた人を見たことがないから、テレビや雑誌の知識で申し訳ないけどね)
『裕翔さんの住む国は豊かなんですね』
頭に浮かぶ島国の映像を見て感心するケインに、歯切れ悪く裕翔が答える。
(確かに単純な飢餓に瀕した人は少ないかもね……でもだからこそ深刻で、『お腹が空いた!』とか『助けて!』って言いづらい社会になっちゃったんだよねぇ)
〈なんたる為体。焼け野原からの復興を遂げ、民主主義の理想を体現するのではなかったのか!〉
(……)
〈与えられた民主主義をそのまま、主体性を持たずに唯々諾々と受け入れた、これは全ての日本人の責任だ。国民一人ひとりが自立し、筋の通った原則を持って自らの行動と言動で勝ち取るものが民主主義だろうに〉
(残念ながら、日本の民主主義は形骸化して、資本主義国家としての存在価値のほうが強くなってしまったんだ。その資本主義もかなり歪で、貯金する人は多いけど、株式投資や人材投資、つまり未来への投資をする人は極わずか。格差や意識の差は開く一方でね。──十九世紀の資本主義──って揶揄されているよ)
〈十九世紀の……〉
余りのことに言葉を失う次郎。そのことを申し訳なく思いながらも、いい機会だと思い裕翔は話を続けた。
(さらに、偏ってしまった資本を無理やり平等に割り振るために、修正資本主義の体裁をとったせいで、相続の税率が異常に高騰してね。何も手を打たずにいると、孫の世代で資産はほぼ国庫に接収されてしまうんだ。そんな馬鹿げた税法のせいで、富裕層の海外移住や資本流出が止まらず、回り回って少子化の一因にも繋がっている。こっちは──ステルス社会主義──って揶揄されているんだ。民が主体性を持たずに国に依存し続けた末路さ)
〈ステルス社会主義……なんということだ〉
(ごめん、次郎さん。ちょっと前世の話が脱線しすぎちゃったね)
〈……〉
『裕翔さん、次郎さん、話を戻しましょう』
押し黙る次郎を思い遣りケインが間に入る。
(そうだね…そうしようか。飢餓の話だったね。日本には表面上飢餓は少ないとされているけど、世界的な飢饉が起これば四割の人間は飢餓に陥ると言われているんだ。でも今日、俺がサクヤの街を回って思い出したのは、日本で問題になりつつあるもう一つの問題――見えない飢餓――なんだよ)
『見えない飢餓、ですか?』
(そう。――新型栄養失調――と言ったほうが正しいのかな。カロリー……つまり人が生きるために必要な単純なエネルギーは足りているんだ。でも、ビタミンやミネラルといった、人が健康に生きるための栄養素が極端に不足している状態のことさ)
〈ふむ……腹は満たされているのに、体は飢えている、ということか?〉
(そう、それです次郎さん。日本では貧困化や一人親世帯の増加が原因で、安価な菓子パンやカップ麺ばかりを食べて、偏った食事による健康への悪影響が深刻化しているんです。さっき市場を見て回った時に確認しましたけど、この世界でも飢饉さえ起きなければ主食となる芋や小麦は比較的安く手に入るみたいです。これらは炭水化物と言って、お腹をいっぱいにしてくれるし、その日一日体を動かす分には十分な栄養なんです。だけど……)
『他の食べ物、肉や野菜類……特に野菜はどの店を回っても高くて量も少なかったですね』
(その通りだよ、ケイン君。肉や野菜からしか摂取できない栄養もいっぱいあるんだ。それが不足すると人は健康には生きられない。街を歩いている時に気づかなかったかな? 老人に肥満の人は少なかった。良い服装をしている人にも肥満の人は少なかった。でも――)
〈……街中を忙しく走り回る若者や、露店で働く中高年の人に、妙に小太りな者が多かったな。生活が大変そうな者たちの方が太っていて、違和感があったな〉
(そう。安くて手に入りやすい炭水化物ばかりでお腹を満たしているから、一見すると太っているように見えても、体の中は必要な栄養が足りずにボロボロなんだ。調べてみないとはっきりとは言えないけど、この街にも――見えない飢餓――が蔓延してるんじゃないかと俺は思うんだよ)
『支配層があえて民を完全に餓死させない程度に安価な主食だけを流通させ、健康な肉体や思考力まで奪って生殺しにしているとは考えられませんか?』
(さすがに、そこまでは深読みし過ぎかな。こちらの世界じゃ栄養学があるかも疑問だし……でもケイン君、俺たちが下町を掌握する時には、主食はもちろん子供たちに必要な肉や野菜、栄養素を提供できれば、彼らの胃袋と健康、そして心を完全に掴むことができるはずだ)
〈……餓死者が見当たらない下町と――見えない飢餓――が蔓延する繁華街や中町か。この街の歪さが、より一層鮮明になったな。万が一、食料を街の外から運び入れているとなれば、人も同様に出入りしていると考えるのが自然だ。確認しなければならないのは、排泄物や亡骸等を処理する場所の有無と、街外への出入り口の存在か…〉
これからやるべきこと、見るべきものは定まった。脳内での激しい議論は、現実世界ではほんの一瞬の出来事だ。
少し和らいだ表情を浮かべたシモーヌや、今も真剣に護衛してくれている皆にも負担を掛ける。無理をしないという、マイヤーとの約束を違えることにもなる。それでも、これはケインがやるべき事なのだ。
ケインは、自身の疲労を心配そうに見つめてくるシモーヌへと向き直った。
「ううん、大丈夫だよシモーヌ。それより――」
ケインは表情を引き締め、スラムのさらに暗い深部へと視線を向けた。
「この子を連れて、ひとまず奥へ、スラムへ進もうと思うんだ。ここで夜まで待って、下町から中町へ戻った方が安全だとも考えたんだけど……さっきの奴らや、その仲間がリムの出入りを見張っていたら、僕らまで注目されて厄介事が増えるからね」
「しかし、この奥は今以上に危険なはずです。ここまではオーケン様の圧やリュカ殿の牽制で周囲からの接触は凌げておりますが、ここから先、それが通用するかどうか……」
シモーヌは不安げに、陽の光の届かない路地の奥を注視した。こちらには気付いていないようだが、闇の中には人の気配が点在している。
「ごめんね、シモーヌ。でも、この街の歪みがどこから来ているのか、僕自身の目で確かめたいんだ。――ねえ、リュカ、オーケン。二人は気付いていない? これだけ殺伐とした雰囲気で、街並みも荒れ果てている。それなのに――このスラムには、不思議なほど死の気配が少ないんだ」
ケインの言葉に、辺りを警戒していたオーケンとリュカがわずかに眉を動かした。
「死の気配、ですか?」
リュカが鼻をひくつかせ、鋭い目を路地の奥へと向ける。
「……やはり、ケイン様も気付かれましたか。俺たちも妙だと思ってたんです。これだけ行き倒れが転がっててもおかしくねぇ過酷な環境だってぇのに、命が擦り切れていく独特の澱みや、死肉の臭いが奇妙なほどしねぇ。……誰かが、手際よく死体を片付けてるんでしょうか?」
「ええ。それに排泄物や生ごみの強烈な腐臭も、この規模のスラムにしては不自然なほど抑えられている」
オーケンがショートソードの柄に手をかけたまま、感嘆の息を漏らした。
この不自然な平穏にオーケンやリュカも違和感を覚えていた。だが子爵家の子息でまだ年若いケインが、その事に気付くとは二人は夢にも思っていなかった。
年齢とはかけ離れた深みのようなものをケインに感じる大人たちだった。
「中町を通って死体や生ゴミの処理しに行くことは不可能だよね。となれば、答えは……限られてくるかな」
「ケイン様には心当たりがあるのですか?」
シモーヌの問にケインは大きく頷く。
「うん。スラムの奥には、帝国政府どころか、この街の代官たちも把握していない、街の外に出入りできる『秘密の場所』があると思っているよ」
「なっ……!?」
シモーヌが驚愕に目を見張る。
ケインは、驚愕するシモーヌだけでなく、周囲のオーケンたちにも聞こえるよう、静かに持論を続けた。
「下町には、ゴミを処理したり、最低限の食糧を確保するコミュニティが存在する。さらにスラムの奥には、街の外に出入りできる場所があると考えている。僕はどうしてもそこを確認しておきたいんだ。いざという時の退路にもなる。防衛上、最終的には塞ぐことになるかも知れないけど……それは当分先かな……」
そんな場所がなぜあると断言できるのか。大人たちが驚きの目を見張る中、ケインの瞳に迷いはなかった。ただの理想主義ではない。現実を見据え、謎を暴き、生き残るための道を切り開こうとする意志がそこにはあった。
シモーヌは一瞬だけ躊躇うように視線を彷徨わせたが、すぐに深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ケイン様がそう決断されたのであれば、私たちはどこまでもお供いたします」
「困りましたね。マイヤー様とヴォルター様に怒られる時は、御一緒にお願いしますよ」
オーケンは情けない苦笑いを浮かべ、ショートソードの柄を握り直す。
リュカは無言で頷き、エルもまたケインの背を守るように距離を少し近付けた。
若き代官の掲げる理想と、確かな覚悟。
その実現のため、従者たちは静かに、スラムの深淵へと足を踏み出すのだった。




