第十七話【リンカ王国の隆盛と滅亡:雌伏】〜傾国の鉄宰〜
〜フラシリカ王国東部辺境領、領都オズイ・ミヤル〜
東にバルコニーを設えた執務室。大柄な男、フラシリカ東部辺境伯は黙々と書類を捌いていた。
一抱えもある議案書の処理を終え、未決裁の箱に目をやる。書類は堆く山を成し、箱から溢れ出しそうだ。
この書類の山を前に、愚痴一つこぼさず決裁を進めた父の姿が重なる。
国王に即位する前、父は気分転換に辺境まで馬を走らせる剛毅な人だった。
辺境領より更に北方、万年の雪を冠する山々から流れ出る大河と穏やかな内海に抱かれた王都、在りし日の故国に思いを馳せる。
大陸の東南端、有用な資源も目を見張るような特産品もない小国。大国からは取るに足らぬ田舎として歯牙にもかけられず。それでも辺境を切り開き、皆で必死に生きていた故国。父も兄弟達も誇りを持って役割を担ってきた。
未決済の山の標高が少し低くなったのを見て息を吐きだし羽筆を机に置く。
身体をほぐしながら立ち上がりバルコニーに出る。
遥か彼方に見える故国の山脈を眺めながら大柄な壮年の男、フラシリカ東部辺境伯は故国リンカを想う。
〜旧リンカ王国農政大臣は滅びゆくリンカ王国最後の王に殉ずる覚悟だった〜
リンカ王は、しがない下級官吏であった自分を大臣に据え、農政改革を断行した。
他にも多くの者達を召し抱えて、多岐にわたる改革を行った。
加えて困難な外交情勢の中、列国や周辺諸国とも対等以上に渡り合ってみせた。
ミスリル鉱山さえ見つからなければ、王はリンカ中興の祖として讃えられるべき偉大な人物だった。
終生の主と定めた偉大な王のもとを離れ、自分は何をしているのだろう。
辺境伯家の家宰として日々懸命に働く事に、どれ程の意味があるのだろうか。
答えの無い自問を続けるうちに目的の部屋の前に辿り着いた。
部屋の扉は質素な造りで、およそ上級貴族である辺境伯の執務室の扉としては不釣り合いだ。リンカ王国時代、この地は王家の直轄領であり代官が政務を行う庁舎が置かれていた。
国境が近かった為、迎賓館も置かれてはいたが政務には不向きとの理由で現在は一部が辺境伯公邸として使われている。
旧代官執務室のものを防犯のため鉄枠で補強した無骨な扉を三度ノックしたが返事はない。
「失礼致します」
やや大きな声を発し、暫くしてから部屋へ入る。扉と同じく簡素な設えの室内には辺境伯の姿は無い。
簡素で狭い部屋には不似合いな重厚感のある執務机が奥に置かれており、部屋をより窮屈に見せている。
机上には書類が二山うず高く重ねられている。【未決裁】と書かれた木の箱に入る山は煩雑に積重ねられ、もう片方の山は綺麗に揃えられて革張りの【決裁済】と書かれた箱に納められている。
革張りの箱に納められた書類の山は、煩雑に積重ねられた未決裁の山よりも高いようだ。
午前中に半分以上の案件に目を通したのだろう。リンカ王国時代は「武辺者」との評判であった辺境伯だが、為政者としての才覚も充分にある事が伺える。
防犯上必要な補強以外、ほぼ手付かずで使われている旧リンカ王国オズイ庁舎。
辺境伯の命で改修工事が行われた数少ない場所の一つが、執務室の東側に増設されたバルコニーだった。
バルコニーと部屋を隔てる窓に引かれたレースのカーテンに視線を向けると、大柄な影が過ぎる。
ガラス窓のフレームをノックしてからバルコニーに一歩を踏み込んだ瞬間、家宰は思わず立ちすくんだ。
初夏にしては乾燥したこの日、空気は凪いでいた。リンカ北方の山々が放つ、白と緑を基調とした色彩と圧倒的な存在感が、かつて王都マウリ・ピ・シュルで主と共に見た風景と錯覚させたのだ。
在りし日の幸せを呼び起こす白昼夢のような錯覚は一瞬で過ぎ去り、その喪失感はことのほか大きく、家宰は言葉に詰まった。
「……閣下、こちらにおいででしたか」
ようやく絞りだした言葉は何とも頼りないものだった。
幸い辺境伯の耳には届いたようで、山々を見つめながら穏やかな声が返ってきた。
「ちょうど一仕事終えたところでな。そなたも一杯どうだ?」
辺境伯はそう言いながら、丸い木製のテーブルに置かれたティーポットを手に取り、濃い紅色の液体を二つのカップに注いだ。湯気が立ち上り、微かに花と土の香りが家宰の鼻腔をくすぐる。
「お心遣い、痛み入ります」
家宰は深々と頭を下げる。
辺境伯は笑いながらカップを家宰に近いテーブルに差し出す。
「固いな。ここでは辺境伯と家宰ではなく故郷を思うリンカの民でよいではないか」
その言葉に胸が熱くなる。辺境伯も亡国リンカの人間だ。他者には比べ物にならないほど多く大きな喪失を経験している。
王都マウリ・ピ・シュルの風景とも見紛うこの景色を眺める心中はいかばかりか。
「……では、遠慮なく」
家宰はカップが差し出された位置にある椅子に座る。主より先に座るなど不敬な行為だが辺境伯は満足気に頷き自らも隣の椅子に座った。
横並びに座る二人はしばらくの間、黙って雄大な山脈を眺めていた。やがて辺境伯が口を開いた。
「この山々を見ると、北部辺境の営みを思い出す。雪を冠し、清冽な水を国に恵んでくれた、我らが母なる山脈だ」
「私は、この景色を目にする度に王都の記憶が鮮明に蘇ります」
「そうか……」
辺境伯は一口茶を飲み、遠い目をした。
「そなたの嘆きは察するに余りある。父上は王国の父として、民を愛し、家臣を愛しておられた。国を興さんとする偉大な王のもとで働くことは何ものにも代え難い。だが、それよりも王を最後まで支えることが叶わなかった自分自身が歯痒いのだろう」
辺境伯は家宰が旧リンカ王国農政大臣として身命を賭して改革を断行したかを知っている。そして彼が王にどれほど心酔していたかも。
「……閣下にはお見通しでしたか」
家宰の声は掠れていた。
「この辺境伯領の運営に、そなたの才覚は必要不可欠だ。リンカの民が飢えること無く今を迎える事が出来ているのはそなたのお陰だ」
辺境伯は身体を翻して家宰の目を真っ直ぐに見て言った。
「だが、そなたがただ己の義務のためだけに、魂を削って働いていることも、私にはわかる」
辺境伯はふう、と息を吐いた。
「そなたにとって国王がいかに偉大で、その不在が重いかは充分に分かるつもりだ。私とて譲位後の父と再び北部開拓を進める事を目標に領内の発展に努めてきた。私だけでは無い、家臣や多くの領民もだ。北部開拓の夢は叶うこと無く消えた。だが…」
一度言葉を区切り辺境伯は魂を込めて語りかける。
「ここで立ち止まっていては、我らは全てを失う。故国の名前を失い、辺境を必死に生きた者達の生き様が、後世には存在しなかったものとされてしまう。烈国にいいようにされてしまう」
家宰はハッとしたように辺境伯を見た。
「このリンカ王国西部は辺境領として一時はフラシリカ国の領土となるが、ここに住む者は、その多くが故国リンカの民だ。遥か彼方の未来に新たなリンカ王国の芽吹きの種を蒔く事が出来れば陛下の後世での評価は改められるのでは無いか?名も無き民達の生き様を繋ぐ事が出来るのではないか?そなたの故国への忠誠と王への報恩は、その為にこそ使うべきではないのか?」
辺境伯は家宰の手にそっと触れた。
「リンカ王国の農政大臣よ。リンカを滅亡させたのがミスリルなら隆盛せしめたのもミスリルだ。この領地にはミスリルはない。だが、そなたが築いた農政の礎がある。それは失われた故国が我々に託した最後の遺産だ。父王の最後の計略が成り、新たなリンカ王国が芽吹く、その時に礎となる為、この地を栄えさせてはくれまいか」
辺境伯の言葉は、家宰の心に深く響いた。王が故国を踏み躙った烈国へ策略を巡らしている事は知っていた。
それは西部辺境領を護る為のものだと思い込んでいた。
しかしそれは間違いだった。王は全ての民の為に老体に鞭打ち戦っておられる。
この後語られた内容は新たなリンカ王国の為であり、心酔する王の志を継ぐ新たな使命の提唱であった。
全てを聴き終えた家宰は涙が滲む目を隠すように、カップの縁を見つめた。
とめどなく王との思い出が溢れ出す。
政策で対立した時、一歩も引かぬ大臣をみて楽しげに笑う王の顔。
新年の宴席で宰相の諫言も聞き入れず皆に酌をしてまわり自分が盃を飲み干すのを嬉しそうに眺める王の顔。
そして母親の葬儀に身分を隠して参列してくれた王の顔。
「母君は早くに夫を亡くし、一人でそなたを立派に育てた。そなたも妻と子供らを守らなねばならん。くよくよするな前を見よ」
王の激励に身が引き締まる思いがした。
「まぁ、母というものは強く賢いものだからな。男親などは守っているつもりが守られているのやもしれんがな」
そう言って優しく微笑む王の顔が今もありありと思い浮かぶ。
辺境伯は王の微笑みによく似た表情で家宰を見つめていた。
「……それが、王の真の御心に沿う道だと、お思いでしょうか」
「間違いなく、そうであると信じている。この土地に、リンカの灯を絶やさないこと。それが父王への我らの殉ずる道なのだと…」
家宰は静かにカップを置き、改めて辺境伯に向き直った。彼の顔からは疲労の影が薄れ、かつて大臣として国を支えた男の、強い意志の光が宿り始めていた。
「……辺境伯閣下。その言葉、このリンカ王国農政大臣、しかと承りました」
彼はもう一度深く頭を下げた。
しかし、それはもはや、義務から来るものではなかった。新たな忠誠と決意を示す、力強い一礼であった。
辺境伯は安心したのか少しくだけた口調で話だした。
「父は北に戻ったら、そなたを呼び寄せるつもりであった。『あれは根を詰め過ぎる事が多いゆえ、北の大地で大らかに生きることを教えねばならん』と笑っておられた。」
「…」
余談の様に語られたこの言葉を聴いた家宰は、ようやく己が心底を理解した。
幼くして父を亡くした自分は父の如き愛情を示す国王に父親の影を追っていたのだ。
〜3ヶ月後〜
夏を過ぎ、実りの秋の気配が濃厚になった頃、フラシリカ王国宛てに周辺諸国と烈国から連名の親書が届いた。親書の内容は、王宮経由で異例の迅速さをもって、東部辺境領へもたらされた。
その日、領都オズイ・ミヤルの街路に家宰の姿があった。街は目には見えない活気に包まれていた。
家宰が断行した農政改革は堅調に食料を増やし、三年で飢えないための政策は結実した。今では外貨を稼ぐため、来たるべき未来を見据えた政策が農政に留まらずあらゆる方面で推進されていた。
家宰は住居を下町に構え、市井に根を張り徹底した市街調査を開始した。リンカの農政改革の礎となった知識と経験は、この東部辺境領の組織改革や市場開放にも役立っていた。
元々雄弁な人間ではなく、淡々と職務をこなす為人であり、最近の行動の変化に周りの者達は首を傾げた。
「この地、王都マウリ・ピ・シュルに負けぬ程に繁栄させる」
家宰の心根に再び灯った内なる情熱に気付く者はごく僅かだった。
リンカ王国時代、敵の多い農政大臣の守護をしていた騎士隊長はその僅かなうちの一人だった。
義務を淡々とこなす官吏になり果てた男が、再び情熱と誇りをうちに秘めた敬愛すべき大臣へと返り咲いた。
喜び勇んで守護騎士となり、当然の如く家宰の側に侍る隊長の元に、庁舎警護の騎士が駆け寄り、報告がなされる。
報告を聴いた守護騎士は家宰に声を掛ける。
「大臣。フラシリカ王宮から急使が来たそうです。庁舎に戻られますか」
二人でいる時は昔と変わらず大臣と呼ぶ騎士隊長。何度か注意したが直す気配はない。
「閣下の元に参りましょう」
急使が知らせる内容はおおよそ予想はついている。あとは参加国の数と規模の答え合わせだ。家宰は庁舎までの道を急いだ。
〜オズイ庁舎〜
バルコニーから眺める街並みは日に日に活気付き、僅か三年半で大きく様変りした。発展著しいオズイの街と、彼方に広がるリンカ北方の雄大な自然の対比が、今は一層際立っていた。
その景色に故国喪失を想起させるものは無く、リンカ王が最後に託した未来の可能性が仄かに輪郭を現しつつある気がする。
辺境伯は、黙々と進められる家宰の仕事ぶりに満足していた。日々進められる改革のせいで書類の山は未だ高いままだ。
書類の山の高さは、辺境領に暮らすリンカの民全てが、失われた故国から受け継いだ「生きる権利」を守り、発展させるための土台の様に思えた。自分が処理する決裁済の箱の標高を、辺境伯は誇らしくさえ思っていた。
「閣下」
夕暮れ時、執務室で書類を整理していた辺境伯の元を家宰が訪れた。
「フラシリカ国からの急使はなんと?」
フラシリカ王国に辺境領が併合されて丸三年以上経つというのに、未だに頭の中はリンカ王国の農政大臣なのだな。
大臣といい、騎士隊長といい、日々の執務ですり減った心が癒やされる気持ちになる。
「まぁ読んでみよ」
笑顔で王宮からもたらされた親書の写しを差し出す。その仕草が、辺境伯の家宰への信頼を如実に現している。速やかに黙読する家宰。
内容は、旧リンカ王国領土に各国合同で探査部隊の派遣を行うというものだ。吸血鉱の放置による魔力欠乏禍と、精霊が去った後の旧リンカ王国の状況を確認する為という公式の理由が記されていた。
「利権を探りながらの各国の牽制、飛竜の尾の掴み合いも落ち着いたか…。もう少し掛かるかと思ったが、父上の目算通りか…私もまだまだだな」
執務室の東側に設えたテラスから、遥か彼方に見える山脈を眺めながら、大柄な辺境伯が呟いた。
呟きは体格に比例して大きかったようで、同様にテラスの端から山脈を眺めていた中肉中背の家宰にも聞き取れた。
「閣下がまだまだであれば私など…陛下の描いた未来図の一部さえも理解が及びません。私は陛下のお役に立っているのでしょうか…」
「其方が居らねば、この辺境伯領は立ち行かぬよ。今の限られた領地で領民全ての食料が賄えるようになるなど…それこそ三年前には信じられなかったからな。農政大臣以上の働きで充分に先王の役に立っておる。私も感謝している」
不安混じりの家宰の言葉に、辺境伯が力強く言葉を掛ける。
「私の功績など微々たるもの。閣下の心労を慮れば、大海に泉を探すようなものです。それでも微塵の役にでも立っているならば嬉しい限りです」
生真面目な返答がされる。
リンカ王国に幕を引き、売国奴と揶揄される東部辺境伯。そんな自分に付き従い、侮蔑や嘲笑に晒されながらも、農政大臣は辺境伯家の家宰となり、義務を果たすどころか今では忠義を尽くしてくれている。
どれ程の辛酸を舐めた事だろう。それでも前へと進み、領地の根幹である食料の自給の目処を立て、新たな試みの先頭に立っている。
家宰の言葉を聴きながら、下級官吏に過ぎなかった男の能力を見出した宰相と、平民出身者を農政大臣に据えて滞りなく職務遂行できる環境を整えた父王を思う。
ミスリルさえ見つからなければ、今頃辺境領で、平凡で豊かな心穏やかな日々を送れていたものを…。
嘆きを飲み込んで、辺境伯が無理やり明るく声を上げる。
「散々に踊らされた我々だが、そろそろ烈国諸国の方々にも狂騒曲を踊って貰おうか。皆には何もしないことを徹底させよ」
「はっ」
家宰が執務室を出るのを、テラスから見遣る。父や兄弟達と開拓地で苦労しながらも笑い合った日々を思い浮かべ、辺境伯は呟く。
「平凡な暮らしに勝る物など無いことを、貴様らも思い知るがいい」
その声は、いつもの穏やかで朗らかな人柄とは掛け離れた底冷えのするものだった。
フラシリカ王国東部辺境領は、豊かな秋の日々を迎えつつある。
南風も止み、暫くすれば北方山脈から冷たい風が吹く事だろう。
風が凪いだ今、フラシリカ王国や周辺諸国の民は季節の移り変わりを信じて疑わない。
だが、リンカの民には不安が過ぎる。凪いだ風はまた吹くのだろうかと。
精霊の加護を失った故国のように、二度と風が吹かないのではないのかと。
雲一つない空を、大鷹が一羽、北へと飛んでいく。




