モルトとグレーン
夜も更けてきたが、お客は相変わらず俺一人だ。一杯目のマティーニを飲み終え、マスターは二杯目をつくりだす気配だ。もう一杯マティーニを飲んで、その後から何か違うものでもオーダーしてみようか。たまにはスコッチでも飲ってみよう。
そんなことを考えていると、ようやく二組目の客が入ってきた。と見ると、先日来たメガネ君とシロウト氏のコンビだった。早速勉強に励んでいるらしい。結構、結構。
「こんばんわぁ、勉強しに来ました」
シロウト氏はやる気満々な感じである。当然マスターの機嫌も良くなる。今夜もなにやら楽しい談義に加われそうだ。
「マスター、コイツねぇ、ここでの飲み代を“交際費”から“教育費”に改めてくれってカミサンに頼んだんだよ」
「そいつは勉強熱心だね。受講料は格安だからしっかり勉強してくれ」
マスターはメガネ君の冗談に楽しそうに乗っかっている。
「何にする?」
オシボリとメニューを渡しながらマスターが訊く。普段はゆっくりとオーダーを待つマスターだが、きっと何やらお目当てがあるものと見込んでだ。
「スコッチをオン・ザ・ロックで。銘柄はマスターにお任せします」
「ダブルでイイね」
マスターは彼らの来店時から何やら考えていたようで、迷うことなくシングル・モルトの棚からグレンフィディックのクラッシックを取り出し、二人のオン・ザ・ロックをつくる。二人の前にグラスが並ぶと、早速メガネ君が口を開く。
「この前ね、コイツが『スコッチの原料って何?』って訊くもんだから『麦に決まってるだろ』って言ってやったんですよ、そしたら」
メガネ君はそこで言葉を切って、グレンフィディックを一口含む。
「うわっ、こりゃウマイや。で、えーと、コイツがね。『ボトルには“モルト”と“グレーン”って書いてある』って言いやがるんですよ。見ると確かにそう書いてある。それで何か自信がなくなっちゃって……。ねぇマスター、スコッチの原料は麦でイイんですよね」
どうやらスコッチの原料を教えてもらいたいようだ。基礎の基礎だけど、きっとマスターなりの解り易い説明が聴けるに違いない。ちょっと楽しみだ。
「ちょっと待ってな。今むこうの常連さんのマティーニをつくるから」
「マスター、俺もグレンフィディック貰うよ」
マスターは当然のように俺の分もダブルでつくる。腰を据えて講釈を垂れたいのだろう。俺の前にグラスを置くと、今度はCDを取り出して入れ替える。フィドルの音が控え目に流れる。ケルト民謡だ。たまにはこういうのもイイな。
「よく聞く“モルト”な、これは大麦の麦芽だ。大麦は発芽すると酵素が活性化されてでんぷんを糖化する。早い話が、芽が出ると甘くなる。これを酵母に食わせて醗酵させ、それを蒸留するとモルトの原酒が出来る。ザッと簡単に説明するとそんな感じ」
「グレーンってのは?」
「とうもろこしに大麦麦芽を加えて醗酵させ、こいつを蒸留したのが“グレーン”。とうもろこし以外にも小麦やライ麦を使うこともある」
「じゃあモルトとグレーンの違いは麦芽ととうもろこしの違いだけなんだ」
シロウト氏はやっと納得がいったというように満足気に肯いた。
「蒸留の仕方も違うよ。これも重要なんだ。モルトは“ポット・スチル”っていう単式蒸留機で蒸留されるんだ。見たことあるんじゃないかなぁ」
二人ともきょとんとしている。名前ぐらいは聞いたことありそうだが……。
「一方、グレーンは“カフェ・スチル”っていう連続式蒸留機を使う。もっとも、カフェ・スチルよりも効率の良い蒸留機もあるけど、原料の風味をよりよく残すのはこのカフェ・スチル。これで造られたグレーンを“カフェ・グレーン”なんて呼んだりする」
二人は目の前の酒に手を付けるのも忘れて、熱心にマスターの話を聴いている。マスターもその熱心さに応えて、何とか解り易く簡単に説明しようとしているようだ。
「誤解を懼れずに比較的わかり易い例で言うと、まずモルトは焼酎で言う“乙類”だ。分かるかい、焼酎乙類」
二人は首を横に振る。
「芋とか米とか麦とか、原料名が付いてる焼酎のことだよ。原料の味を活かした焼酎が“乙類”。それに対してグレーンは“焼酎甲類”、あのペットボトルとかで安く売ってる焼酎があるだろ? あれはほとんど味がしなくて、レモンとか梅とかで味付けて飲んだりするだろ」
今度の話は理解出来たようだ。二人とも肯く。
「焼酎甲類ってのは清酒をアル添するのにも使うヤツだよ。だからってモルトにグレーンをブレンドするのが嵩増しとかってことじゃない。ちょっとそういう側面もあるけど…。個性の強いモルトを万人向けにするために、モルトの個性を際立たせつつ、飲み易くするのが目的。つまりウイスキーの原材料に“モルト・グレーン”ってあったら、それらをブレンドしたウイスキーってことだ。ちなみにお前さん達が今飲んでるスコッチ」
そう言ってマスターはグレンフィディックのボトルを二人の前に出して、ボトルの裏を指差して見せた。
「ほら、ここには“原材料名 モルト”ってあるだろ。これはグレーンを混ぜてない、モルトだけのスコッチ・ウイスキーってことだよ」
「そうかぁ、モルトだけのウイスキーってのもあるんだな」
シロウト氏が感心して一口飲む。氷も適度に融けて、二人には飲み易い濃さに薄まったようだ。
マスターの説明はかなり大雑把だったけど、この二人には丁度いいくらいの内容だったかも知れない。モルトとグレーンを焼酎に例えるのはちょっと乱暴だったかも知れないけど、蒸留法の違いを明確にして憶えるには解り易かったかもね。
俺は残りの酒を一気に呷った。マスターの話に合わせてゆっくり飲んでたら、俺が飲むにはちょっと薄くなり過ぎていたようだ。
次回に続く