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お狐さまとえにしちゃん

 空には真っ白の雲が浮かんでいた。春の日差しは温かいけど、風はまだ冷たい。今日が風のない日でよかったと思う。お別れ日和、なんて言うつもりはないけど、少なくとも春の嵐の只中よりはいいから。

 賽銭箱に手紙をセッティングした私は、振り向いてお狐さまを呼んだ。いかにも待ちわびているというふうに。


「お狐さまー」

「呼んだかい?」


 瓦屋根の上から声と足音がして、目の前に狐が降りてきた。八つに割れた尾が揺れる。お狐さま、参上。


「こんにちは、今日は挨拶をしに来ました」


 三月中旬のよく晴れた日。お狐さまに会うのも、今日で最後。





 コートを脱いで折り目正しくお辞儀をすると、お狐さまも真似して人の姿になって頭を下げた。

 そうしていつもどおりに賽銭箱の前に並んで座る。私が左、お狐さまが右だ。


「制服かい? 珍しい」

「クラスで打ち上げだったから。最後の記念にって、皆で着たの。これで着納めだと思ったら脱ぎづらくって」


 うちの高校の制服は墨みたいに真っ黒でダサいって評判だったけど、三年も着てると愛着だって湧く。私はこれが結構好きだった。


「いいね、喪服のようだ」

「それ褒めてる?」

「もちろん。前から思っていたが、お前は制服が似合う」


 それ今さら言う? 今日でおさらばの服なのにさ。最初からそう言ってくれたら毎日着てきた。


「別に、他のが似合わないわけでなし」

「こういうのは気持ちの問題」


 私がしかめ面をすると、「すまん」と笑われた。



 ――さて、何から話そうかな。言いたいことが色々あったのに。ここに座ると何も出てこなかった。


(手紙、書いてきて正解ね)


 といっても、あれは読まれないんだっけ。読めないように賽銭箱の中に入れたんだもん、私が。


「来てもよかったのかい? 残りの時間くらいは家族と過ごしては」

「本気で言ってる?」

「まさか」

「だよね」


 しばらく二人とも何も言わなかった。ああ、お別れは苦手だ。お狐さまも言葉に迷っているんだろう。横顔を見ると、じっと考え込んでいた。


 でもまあ、黙っててもしょうがない。普段通りが一番だ。


「夢を見たの。友達の」

「そこは俺ではないのか」


 残念ながらお狐さまは出てこなかった。それを伝えると「薄情者」と苦笑された。


「中学の時の友達と、二人で水族館に行く夢。一緒に大水槽の前に立ってたら、サメが水槽から飛び出して空中を泳いで私達の目の前にくるの。でも二人ともはしゃいでずっと笑ってる。それからサンドイッチを一緒に食べて、ヒトデを触って、イルカに餌をやって、一日中遊ぶの。最後に水族館の出口でその子と別れて、夢はおしまい」

「幸せな夢だね」

「うん。しかもね、朝起きたらびっくり、その子から電話がかかってきてたの」


 急いで折り返すと、相手もなんとなく電話しただけで大した用事はなかったらしい。久々に話した彼女は昔と変わらず心配症でお節介だった。


 ただそれだけの話だったけど、お狐さまはゆるく口角を上げて相槌を打ってくれる。


「予知夢だったのかもね。それか、夢に見るくらい会いたいって思いが通じたのかも」

「ありえるな。古来より想いは夢で実るものだ。平安では道ならぬ恋の逢瀬は夢と相場が決まっている。愛があるなら夢に出るはず、会えぬのは愛がないからだとまで言われた。駿河なる、だったか」


 伊勢物語だ。私でも知ってる。


「無茶振りだよねえ。愛があっても縁がなきゃ。私ね、縁ってあると思うよ」


 出会いにはあらかじめ最初と最後が決められていて、決まった時期に出会い、決まった時期に分かれる。生命に寿命があるなら関係にも寿命があるべきだ。縁があれば自然とまた出会うし、どれだけ好きでも縁がなければもう会えない。彼女とは縁があって、別の人とはなかった。

 わかっていたことだ。

 お狐さまがいつかいなくなるなんてことは。

 私がいつか大人になるなんてことは。


「縁を作るために夢に見るんだろうよ」

「縁なんて作れるの?」

「さあな。だが、何もしないでいられないのさ。恋とはだってそういうものだ」


 珍しくお狐さまがロマンチックなことを言う。


「妖怪でも夢を見る?」

「夢を見るのは人間だけさ」

「だと思った」


 もとよりジェンダーフリーも道半ばな日本社会で、化生との共存が叶うはずもない。

 ただ少しだけ、お狐さまが夢を見ないことを、残念に思うだけで。




「そうだ、油揚げ持ってきたの」


 ふと思い出してコートのポケットを探ると……、あったあった。取り出したのは昔からお狐さまによく買ってきていた、近所のスーパーの特大油揚げ。


「懐かしいでしょ。あげる」

「これはこれは。ふふ、ありがとう」


 私が袋の口を開けて差し出すと、お狐さまは人の姿のままでそれを受け取った。「いただきます」と小さく手を合わせて、端から大口を開けてむしゃむしゃかじり始める。

 そんなにがっつかなくても、誰もとらないって。


 お狐さまが食べている間、私は手持ち無沙汰で靴の踵をこすったりしていた。


「ねえ、お狐さまは私とのお別れ、もう慣れた?」


 口をもぐもぐ動かしながらお狐さまが顔を上げる。そのまま喋ろうとしたものだから慌てて止めた。

 いいよ、飲み込んでから喋って。

 しばらく待つと、ごくんと喉仏が上下して、最後の一口がなくなった。

 据わった目がこっちを見る。


「お前」


 お狐さまの手が伸びてきて、私の頬をぎゅむっと挟み込む。初めて会ったときも同じことされたね、なんて気の抜けたことを考えた。何を言われるか、大方の予想はついていたから。


「俺が好きかい」

「言うならそっちが先でしょ」


 間髪入れずに答えた。

 それきりお互い黙った。言うつもりなんかなかった。


「まったくだ」


 手が離れるとすぐに顔をそらされる。普通それは私のリアクションでしょ。自分で聞いたくせに照れくさいのか。

 お狐さまが困ったようにうなじをこすった。


「ところで、大学には合格したのかい」


 話題を変えるようにそっと聞かれる。


「うん。もうあっちに部屋も見つけてるの。明後日には引っ越し」

「おめでとう」

「うん。……海が近いところでね、街中磯の匂いがするんだ。私の住む部屋からだと、きっと海に朝焼けが映ってきれい。あーでも、観光地が近くにあるから夜はあんまり出歩けないかも」

「それは大丈夫なのか。不審者が出るのでは」

「不審者なんて最近どこにでも出るよ。心配しすぎ。おじいちゃんじゃあるまいし」

「んん」


 手の甲を唇に押し当てて物言いたげなお狐さまを、「ジョーダン」と小突いた。


「いいところだよ。ここみたいに、草の匂いも土の匂いもしない」

「土の匂いは嫌いかい」

「ううん。大好き」


 大好きだから、あっちに持って行きたくないの。

 大切なものは全部置いていくのよ。


 うつむいていると、ローファーの踵がはげていることに気づいた。脱ぐときの癖で踵をこすり合わせるから、そのせいだろう。いつも左足から脱ぐせいで左ばかりが傷んでいる。

 これも今日で終わりなんだ。履いていると、遅刻しそうで急いで下駄箱を走ったことがまるで今朝のことみたいだった。


 こうして、少しづつ積み重なっていくのだ。物に、土地に、人に。


「――さっきの問いの答えをやろうか」


 お狐さまは私とのお別れ、もう慣れた?

 すっかり宙ぶらりんになっていたけど、そういえば私はまだ答えをもらっていないのだった。


「ぐえっ」


 お狐さまの大きな手が猫をつまむように私の首を持って、強引に顔をあげさせられる。乱暴な。

 アーモンド型の瞳が獣のように光る。お狐さまは、笑っているように見えた。


「慣れるものかよ」


 私もちょっぴり笑っていたと思う。


「ああ、よかった」


 お狐さまの首に手を回して、ゆるく抱きついた。お狐さまに顔を見られなくなったとたんに、笑顔がひきつりそうになる。鼻の奥がひどく痛い。昨日散々泣いたのに、まだ涙が出そうになるのか。


「当然だろう。今世のお前はこれが初めて。前例も後釜もない。お前だけさ、俺にとっては」


 くしゃくしゃの顔なんて見せたくないのに。まして未練がましい私なんて。

 たった一人がどうしてこんなに捨てきれないのか。


「やだ、やっぱ、寂しい」


 ふっとお狐さまの笑う気配がした。


「なら、ここにいるかい」


 それは一体何回目の問いなんだろう。人にそっくりな彼の言葉はとても優しい。


「お前の頼みならなんだって聞こう。お前の願いならなんだって叶えよう。なにせ俺は神でないからね。物の怪の世界には平等なんてない。お前だけを贔屓しよう。それこそ永遠に。現世を捨て幽世に行けばこんな社にはなんの拘束力もないさ。案ずることはない。――だけど」


 お狐さまが腕をだらりと下げて抱きしめ返す気配がないことに、私は気づいていた。


「そうじゃ、ないんだろう?」


 これは喝だ。最後まで甘ったれた私に、お狐さまがくれた後押し。ずっと前から渡されていた引導。

 お狐さま、今まで待っててくれたんだね。


 首に回した手をほどく。目をそらしたりしなかった。どちらからともなく指を絡めた。痛いくらいの力で、一瞬。


「うん。うん。行く。出て行く、私」


 お狐さまは最後に、悲しそうに笑った。


「いってらっしゃい」




 立ち上がって、ずんずんと歩く。

 鳥居まではあっという間だった。当然だ。ここは小さなオンボロ神社。今の私には狭すぎる。

 さぁっと風が吹き抜けた。境内の隅の桜の木が揺れる。膨らんだつぼみが四月を待っている。

 でも、それが咲くところを私は見ない。

 一度だけ、名残を惜しむように鳥居の下で振り向いた。


「――――――――!」


 陽の光にお狐さまの姿が眩む。白いシルエットの口が動いたのが、かろうじてわかった。

 唇を、すぼめて伸ばして大きく開いて。ウ・イ・ア。


(……ああ)


 私もだよ。お狐さま。私も。

 感情は溢れて止まらなかった。言葉が今にも落ちていきそうだった。

 ぐうっと涙がこみ上げてきて、滲んだ視界に金色の尻尾が鮮やかに映る。美しい光景だった。


 下腹部に力を入れ、大きく息を吸う。


「聞こえないよ!」


 今から失うのは私の恋。私の大切な――大切な古馴染みの友達。

 さようなら、ありがとう。願わくはあなたが私を忘れませんように。踏み出して、一歩。


「いってきます」



 ――別れも愛のひとつだとは、誰が言った言葉だったかしら。お狐さま、知ってる?

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