お狐さまと尺玉ちゃん
七月初め、近くの浜辺でフェスタが行われるというニュースが、私の町を駆け巡った。
時は進んで一か月後の八月初旬。フェスタ当日。海沿いの会場は私のいる山中の境内からでもわかるほど、そこだけ異様な熱気がただよっていた。
フェスタの内容は詳しくは知らないけど、どうやらある小説がドラマ化されたのを記念して、物語の舞台になったこの土地でファンが祝杯を挙げるらしい。
ファンの中からインディーズのバンドが有志で複数参加することにもなっていて、普段の何もない様子からは想像もできないくらい派手なステージと夜店が並んでいると、大はしゃぎで友達が教えてくれた。
フェスタには、町おこしの機会とあって地元からもたくさんの屋台が出店するらしい。ライブの最後には締めの打ち上げ花火も用意されているとか。
お盆以外に花火が見られるなんて稀だから、みんな浮き足立っている。
私の友達も大半が参加していて、どのカップルが一緒に行くだの、誰が誰に告白する予定だの、一週間以上前からその話題で持ちきりだった。
私も数人からお声がかかったけど、どうしても外せない用事があるといって断った。せめて花火だけでも、と粘ってくる子もいたけど、花火見たさに断ってるんだから承諾できるわけもない。
なんたってこれがラストチャンス。お盆以外に花火大会なんてないこの街で、お盆と彼岸は外出禁止の私が、お狐さまと花火を見る一回こっきりの好機だ。
蒸し暑い夜、着慣れない浴衣で、境内に立つ。
「お狐さま!」
声をかけると、社の奥から黒い影が走ってきて、私の前で止まった。懐中電灯で照らすと、らんらんと光る目にぶつかる。金の毛並みと、胴からのびる九本の尻尾。お狐さまだ。
「こんばんは、お待たせしました」
「こんばんは、よく来たね。……その手のそれは?」
お狐さまが鼻をスンスンと動かして私の手元を見る。
「屋台の料理だよ。からあげとか、やきそばとか、他にもいろいろ」
あんまり馴染みのない味だろうけど、すっごくおいしいから。そう言って手に下げたビニール袋をかざす。焼きそばのパックが中でパリパリと音をたてた。
「うん、美味そうな匂いだ」
胸いっぱいにソースのにおいを吸い込んで、お狐さまがうなずく。
袋を握る指先にきゅっと力が入った。お狐さまとこれを食べるなんて、絶対無理だと思っていたから。
挨拶もそこそこに、お狐さまがくるりと宙返りして人の姿に化ける。
鶯色の浴衣姿が様になっている、手提げ提灯を持った男の人だ。
「花娘には相応の格好でなければね」
お狐さまがにっこりと笑うのがちょうちんの柔らかい光に浮かび上がる。お祭り気分と相まって、この世とは思えないほど幻想的だ。
「あそこから見よう」
お狐さまの袖を引いて石段の降り口に連れていく。少し速足で進んでいると、お狐さまに後ろから腕をとられた。
「ほら、もっと静かに歩かなければ。せっかくの浴衣が崩れてしまうだろう」
「これくらい平気だって」
「花火まではまだだろう」
「始まってからじゃ遅いよ。おかず、冷めちゃう」
こっちからお狐さまの手をつかみなおして、ずんずんと引っ張って歩いていく。
石段に座り込むとお尻がひんやり冷たかった。
「花火まであと三十分くらいかな。全然余裕ないね」
割り箸をお狐さまに差し出しながら時間をチェック。本当は一時間くらい前には到着して、食べ終わって一息つく予定だったんだけど。屋台が思った以上に混んでいたから時間を取られてしまった。
「夜店が盆踊りのときみたいにいっぱい出ててさ、どれにしようか迷っちゃった」
言いながら、買ってきた食べ物を石段に並べる。
からあげ、焼きそば、たこ焼き、フライドポテトなんかのおかず系に、たいやきにベビーカステラといったおやつ系。飲み物はラムネとウーロン茶を用意した。
晩ご飯の代わりだと言ってお母さんにもらった食費を使い切って、自分の財布からも少し出すことになったけど……最初で最後なんだし、これくらいは計算のうちだ。
「好きなの適当に食べていいから。そうだお狐さま、ラムネ飲む?」
炭酸は前に平気だと言っていたから、ウーロン茶よりもこっちのほうが好きかもしれない。
「一口だけ」
ラムネの蓋を玉押しで開けて、瓶の中に転がったビー玉がからんと透明な音を立てるのを聴く。清涼感のある響きがいかにも夏って感じで好きだった。
瓶に口を付けたお狐さまは、一瞬きゅっと眉を寄せた後、口に含んだラムネをごくりと飲み干した。
「美味いな。懐かしい、お前が前にくれたのと同じ味だ」
濡れた唇を浴衣の袖でためらいなく拭いて、無邪気に笑う。
顔に似合わずワイルドな仕草を微笑ましく思いながら、私はウーロン茶のキャップを開ける。
「じゃあそっち飲んでいいよ」
「いいのかい?」
「うん。私どっちも好きだから」
お狐さまがお気に召さなかった場合に備えて、ウーロン茶には口をつけていなかった。
ペットボトルを傾けてからからの喉に潤いを与える。ごきゅごきゅとボトルの四分の一くらいを一気飲みして、「ぷはぁーっ」と大きく息を吐いた。
「酔っ払いか」
「一気飲みの様式美でしょ」
お狐さまに突っ込まれつつ、今度は持参したからあげを一つつまむ。これが一番、冷めると味が落ちるからね。お狐さまもほら、食べて食べて。
私が買ったのは、一つ一つが大きいせいで一パックに四つしか入ってない超ジャンボからあげだ。当然肉汁もたっぷりで、噛んだところからじゅわっと熱い汁があふれてくる。調味料と肉のシンプルな味わい。
毎年祭りに行けない私のためにいとこが食べ物を買ってきてくれたけど、からあげはその中でも一番の大好物だった。
「あっつつっ」
「ちょっ、大丈夫?」
手に肉汁がこぼれたお狐さまに、慌ててティッシュを押し付ける。
「はう、はふ、ふ、はふ……んぐっ、ん、ふう……」
冷ましながらから揚げをほおばったお狐さまが、炭酸と一緒にそれを嚥下した後で、気恥ずかしそうにはにかむ。私もつられて笑った。
しばらく二人で飲んだり食べたりして、気づけば花火の開始時刻になっていた。
いきなりばあんと花火が上がって、二人してぴたりと口をつぐむ。網戸越しじゃない花火を見たのは初めてで、月とも電球とも違うぎらついた光が本物だってことが感動的だった。
「ほんとにこんなに大きいんだね」
「ん?」
聞き取れなかったのか、きき返すお狐さまに「あ、ううん、なんでもない」のジェスチャー。それは伝わったみたいで、少しの間、二人で黙って花火を見ていた。
十分くらいすると、前半が終わって、休憩をはさむみたいだと友達から連絡があった。
爆発音を聞き続けたせいで静けさが耳に響いた。それがなんとなく居心地が悪くて、話しかけようと隣を伺う。
お狐さまと、目が合った。
ちょうちんの光は邪魔だと思って消したらしい。細い月だけが光源の薄暗がりに、青白い美丈夫が浮かび上がっている。
ゆるく弧を描く口元。私よりずっと上にある肩。見下ろしてくる目が光ったように見えたのは気のせいだろうか。祖母に似た香のにおいが鼻をかすめていく――。
それはほとんど衝撃だった。心臓が揺れたと思った。
この瞬間の彼をなんと表現したらいいだろう。色男、端正、美形、好青年……、どれもぴったりだけど十分じゃない。そんなんじゃ足りない、もっと別の何かに、私の胸は衝かれた。
(ああ、これは、これが、)
――魔性、という言葉が頭をよぎった。
ひゅうっと喉が変な音を出した。私が息を呑んだんだと遅れて気づく。ぱっと視線を下げて、お狐さまの首あたりに彷徨わせる。
「ん?」
とっさに上手い言葉が出てこない。うつむいて頬をかくと、体をひねってこっちを見ているお狐さまの腕が目に入った。大きい掌。火に油。
「え、っと」
その時。
ばんばばばばんばばばん!
ちょうど花火が再開したのが聞こえて、一瞬意識が持っていかれた。おかげで金縛りから解放されたみたいに体が軽くなる。全身を巡る血液の音が近い。
「……っ」
考えなしに開いた口を閉じて、ペットボトルのウーロン茶をのどに流し込む。わけもなく喉が渇いていた。液体がのどを伝うこぷりという音が、耳の奥でクリアに響く。
お狐さまはまだこっちを見ていた。
唇をなめて湿らせて、声を出す。
「浴衣……似合ってる」
お狐さまはぱちりとアーモンド形の目を瞬かせた後に、何だそんなことか、と破顔した。
「それはよかった。てっきりもっと大層なことかと」
それだけか? と安心したように聞かれて、私は一つこくりと頷く。
うん。それだけ。
たったそれだけよ。
浴衣でめかしこんで、二人っきりの、こんなお祭りの夜。
花火の音で声も聞こえない、ムード満点の今なのに。
浴衣が似合っているだなんて、口から出るのはそんなありふれた言葉だけだった。
(――だって、何も言えない)
こんな日が来るなんて思わなくて。
お狐さまを前にして、言葉なんて何も出なくて。
何も言えなくて。
何も言えないくらい、幸せで。
静かに息を吐いて、花火がうち上がり続けている夜空を見あげる。
ひときわ大きな花火が打ち上げられて、破裂音がどおんと心臓に響いた。これがクライマックスの合図かもしれない。
次々にシャワーのような細かい花火が舞って、一瞬昼のようにあたりが明るくなった。
お狐さまの横顔が鮮やかに浮かび上がって、背中の影がくっきり見える。狐の形の、それ。
フェスタはもうじき終わるだろうか。そしたらみんな家に帰って、楽しかった、次の祭りはお盆だね、なんて言うんだろうか。
誰もこの花火を、十年待ったりしなかった。
私以外。
私とお狐さま以外。
「――、――――――!」
お狐さまが何か言って、楽しそうに空を指さす。
「――――!」
負けじと私も言い返して、それでもさっぱり聞き取れなくて。
同時に吹き出して、空っぽになるまで笑った。
――ねえ、お狐さま。最後の花火が終わったら、一緒に下まで歩こうよ。
できればそれが誰かに見られて。あっという間に噂になって。少しくらい冷やかされてもいいから。
欲しいのは、狐に化かされたみたいな今夜が夢じゃないって、ほんの少しの確信だけ。
下まつ毛を湿らせる水滴を払うように瞬きして、私は。
打ちあがり続ける花火を、瞼の裏に、一生刻み付けようと思った。