教室
綾は身体を私に密着させてきた。
綾の体は肉付が良く柔らかい。それが、貧相な私に自慢してきているみたいでただただムカつく。それに、綾は代謝が良いため体温が高く暑苦しい。その上、その体温が拡散させた綾の香水の臭いが鼻を突く。大人ぶったラベンダーの香りで不愉快だ。
正直、綾から距離を取りたかった。でも、それを我慢する。
隠れるためには仕方ない。
今はセンセイと思われる足音から逃れることの方が重要なのだから……。
私が綾に不快感を抱いている間も、足音は止まることなく廊下から聞こえて来ていた。幸いまだ遠くから聞こえている。
でも、この教室を目指してまっすぐに迫ってきているのは分かる。
「唯ちゃん。あれがセンセイなのかな」
狭い空間の中で綾はそう囁きかけて来た。
「そっそうね」
私は平然とそう返す。
「でも、良かったね」
綾はそう言ってくる。意図が分からない。皮肉なのか?
「何が良かったのよ?」
私は不機嫌気味にそう聞いた。
「だって、足あるよ。唯ちゃんの苦手な幽霊じゃないよ。」
綾はわざわざ『唯ちゃんの苦手な』と言う部分を強調した。そして、私の頭に手を置いた。
「やめなさい」
私は頭を撫でようとする綾の手を払いのけた。そして、「幽霊じゃなくても追いかけて来るなら一緒よ」と返した。
「唯ちゃん。しーっ」
綾がそう言う。
また、綾に姉の様な態度を取らせてしまった。
気に食わない。
でも、隠れているのだから大きな声を出してはいけない。仕方ないので、私は黙る。
私たちが黙ったことで辺りは静かになる……いや、ならない。
足音はずっと聞こえている。しかもさっきよりかなり大きくなっていた。
もう、私達が隠れている教室の前まで来ている。
私も綾も見つからないように息を潜める。
ゴォロゴォロゴォロ
引き戸の開く音が教室内に悍ましく響いた。そして、足音が教室内へと侵入してくる。私の全身を緊張が伝う。
「さっき誰かが教室に入って行くのが見えた気がしたが……」
男性の独り言が聞こえる。そして、足音はまた動き出す。
足音は教室後方の掃除道具入れの前で止まる。
コンッ コンッ コンッ コンッ
掃除用具入れをノックする音が響く。
「隠れていますよね。怒らないから出て来なさい」
男性の優しい声が響く。
私は肩をすくめる。綾がさりげなく私に身を寄せて来る。
ゴンッ ゴンッ ゴンッ ゴンッ
「中にいますよね。分かっていますよ。」
男性の冷たい声が響く。
ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ
「開けますよ」
男性の低い声が響く。
掃除用具入れを開けようととってを引っ張る音がグァングァンと響く。掃除用具入れは古いためか開きにくい。しかし、成人男性の力をもってすれば簡単に開いてしまう。
中に入っていた自由箒が倒れ、床に当たる音がする。
「気のせいでしたか」
男性の独り言と掃除用具入れの扉を閉める音が聞こえる。
そして、男性は教室内に人がいる可能性を捨てたのか「そうですよね。みんなはもういないはずですから」と溢した。
足音は机の間を縫って、私たちの隠れている教卓へと近づいて来た。
そして、足音が止まる。
いる。
私たちの目の前にセンセイと呼ばれる人物が立っている。
目を瞑っていても圧を感じる。息がかかりそうなほどに近い。気配を出せば気づかれかねない。物音なんて立てれば一発アウトだ。
私は自分の口と鼻を押さえた。
極度の緊張に鼓動が速くなるのを感じた。息遣いも荒くなり苦しい。
でも、それ以上に息が漏れて気づかれないか不安になる。
それが更に鼓動を早くする。
息遣いを荒くする。
更にしっかりと口と鼻を押さえる。
ただただ耐える。
『落ち着け私、落ち着け私、落ち着け私』
心の中で何度も何度も何度も唱える。
でも、唱えても唱えても唱えても息遣いは荒くなるばかり。
良くなる気配なんて一向に現れない。
このまま、私のせいでセンセイにバレてしまうんだ。綾、ごめんなさい。
頭の中にそう言った考えが浮かぶ。
あーっ。
私は叫びたくなった。
落ち付けようとすればするほど、息が乱れていく。
眠れない夜の様にもどかしい。眠ろうとすればするほど目がさえる様に、落ち着けようとすればするほど鼓動は速くなる。誰もが寝静まった深夜に一人苦しむように、私は独り闇の中、自分の心臓に静まってくださいとお願いするしかない。
そんな私の世界を優しいラベンダーの香りが包み込んだ。温かくて柔らかい。なんだか安心する。
綾がそっと抱きしめてくれている。
綾は私の頭に手を置き、髪の流れに沿って何度も撫でてくれた。
まるでお母さんの様に……。
私は寝つきが悪い子だった。
お母さんはそんな私の髪をよくこんな風に撫でてくれた。すると不思議なことにすぐに眠ることが出来た。
その時の様に、私の心は落ち着いていく。
私の鼓動は髪を撫でる綾の手のリズムに合わせる様に静まっていく。私の世界にはセンセイは存在せず、優しい綾の手だけが存在する。その手が私を安心させてくれる。
私の鼓動と綾のリズムが完全に同期した頃、綾は「もう大丈夫だよ。先生はどこかに行ったみたいだよ」と言った。
教卓の下から綾が先に這い出て、私の手を掴み引っ張り出してくれた。
「怖かったね」
綾は子供をあやすような声を出しながら、私の頭に手を置いた。
私は危うく素直に「うん」と答えそうになった。
でも、危機をしのいだことで、一時的に希薄になっていた私の羞恥心が戻ってきてくれた。
いや、いっそのこと戻ってこない方が良かったかも……。綾に甘えていたと考えると体が焼けそうな程にすごく恥ずかしい。
綾はそんな私に「唯ちゃん。顔が赤いよ。熱とかない?大丈夫?」とわざとらしく聞いて来た。
私はいま出せる最も鋭く冷たい声を使って「怖くないし、熱もないわよ」と返し、綾の手を払いのけた。そして、綾から顔を背けた。
綾は「あらっ」と驚いた声を出した。
でもすぐに切り替えて、「教卓の下にいた時の唯ちゃん、梅干しみたいにギュッと目を瞑っていてとてもかわいかったよ。唯ちゃん、本当はすっごく怖かったんでしょ。強がらなくていいんだよ。もっと私に甘えてくれていいんだよ」と優しい声を出した。まるで姉気取りで気に障る。それに、生意気なラベンダーの臭いが鼻に突く。
私は棒読みで「ありがとう。でも、あの程度全然怖くなかったので、間に合っています」と返し、綾の左手を握った。
綾は「それは残念」と本当に残念そうに言った。その後で、「でも、それならここから先も大丈夫だね」と言ってきた。私は言質を取られてしまったことに気が付いた。
でも、動揺は見せない。
平然を装って「当たり前よ」と返した。




