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U子  作者: 憂木冷
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懸命に走り出した

 いつの間にか、自分にとって大切な存在になっていた。

 U子を抱え、通りの歩道を走りながらそんなことを思った。

 自分の意識が遠くにあるような気がする。

 自分の心の中で生まれた言葉の対象が誰なのか、薄くモヤがかかったようにはっきりしていない。

 大切な存在になっていた。

 ――誰が?

 わからないけれど、胸が痛んだ。

 でもそれは、両親を亡くしてから感じていた苦しみとは質の違う痛みだった。

 空っぽになって、空虚な自分に苦しんでいるのではなくて、心の奥にあるものが締め付けられるような痛みだった。

 空っぽになったはずの心に、いつの間にか形あるモノを感じている。

 ――おはようジュキヤ。

 ――ジジジジ。

 いつかの朝の光景が目に浮かぶ。

 それが、僕の心を埋めてくれていた。

 それが痛くて仕方がなかった。

 ずっと気付いていた。誰よりも、セイラが僕を救おうとしてくれていた。傷ついて、逃げるように孤独の闇へと囚われて行く僕を誰よりも救ってくれていた。けれどセイラが帰って独りになると、消えてしまいたくなるほどの苦しみに襲われていた。

 動かなくなったU子を見つめる。U子が来てから、僕は独りの時間がなくなった。それが今の僕には、大切なことだったのかもしれない。誰かとの繋がりを感じている時間が、心の闇を引き寄せる孤独感を打ち消してくれた。

 僕の心の中にあるものは、きっと誰かと過ごした時間で、それが誰かを想う感情なんだ。

 だから、心の中にいるヒトのために何もできないことが、こんなにも痛いんだ。

 どうにかしたい。

 心が叫びを上げる。

 けれど、無情にも僕の脚は走ることを止めてしまった。

 止まりたいと思ったわけではない。怪我もしていないし、まだ走る体力もある。

 けれど脚は前に進まなくなった。

 国道の横断歩道の前で、青色の信号機が赤に変わっていく光景を立ち止まって、立ち竦んで見送った。

 ごく自然な川の流れのように、自動車やトラックが目の前を流れて通り過ぎてゆく。

 高校はもう、この信号を渡ったすぐ先に見えているのに。

 死んだ両親の、損壊した遺体が脳裏に浮上する。

 事故の現場を見たわけではなかった。確認したのは、集められた後の、静かに並べられた2人の遺体だけだ。

 けれど想像の中で、2人がどんな風に事故に遭ったのかを見てしまった。

 青信号の横断歩道を渡っている時にトラックに轢かれた姿が、目の前で再現された。

 アスファルトで顔の皮膚が削られた母と目が合った。

 タイヤに巻き込まれて、口から血液を溢れさせる父がこちらに手を伸ばしていた。

「ジュキヤ……」

 と2人が僕の名前を呼ぶ。

 助けることができなかった2人の姿が、呪いのように体を縛り付けた。

「あぁああ」

 膝から崩れ落ちる。

 呼吸が苦しい。

 この道を渡ることはできない。

 目を合わせることができない。こんな現実と向き合って生きて行くなんて、できるわけがない。

 まだ、高校生なのに。

 お金も稼げない。世の中のことも何も知らない。それなのに、こんなに辛い現実と向き合えるわけがない。

「無理だ」

 前を向くと、まだこちらを見つめる母親の姿が見えた。

 僕の名前を呼ぶ姿が怖かった。

 どうして助けてくれなかったんだと、責められている気がした。

 心が苦しい。

 俯いて、両手で心臓を押さえつけるように、胸に手を当てた。

 その時。

 ――バヂッ。

 強力な静電気が発生したように、胸の前で電流が弾けた。

 反射で手が離れ、尻もちを着いてしまう。

 手に握っていたものが、コンクリートの歩道の上へ硬い音を立てて投げ出された。

「……U子」

 驚きで思考が止まっていた。

 U子は何も反応しない。

 けれど今のはきっと、U子がやったんだ。

「まだちゃんと生きているのか」

 まだちゃんと。

 僕はお前を助けられるのか?

 自然とU子を手に取り、立ち上がった。立ち上がることができた。

 ――お前に助けられてばかりだな、僕は。

 母親と、父親の姿は消えなかった。

 僕は2人が死んだ道を。この現実を越えて行かないといけない。

 まだ脚が竦んでいる。道路に踏み出すことが怖かった。でも、行くしかない。U子を助けるために。

 信号が青に変わった。

 自分以外には誰も渡るヒトはいなかった。

 自動車が数台、信号待ちをしている。

 U子を握りしめ、竦む脚で前へ進む。「ジュキヤ……」と母が呟いている。

「ごめん母さん、父さん。何もできなくて。ごめん」

「ジュキヤ……」

 信号の中央に倒れる2人を越える。

「ごめん」

 ともう1度、言葉を残す。涙だけは流さないように、強く、白と黒の横断歩道を渡ってゆく。

 もう少しで、渡りきれる。そこまで来た時に、母の言葉が背中から聞こえてきた。

「ジュキヤ……がんばってねジュキヤ。きっと、がんばる方がいいんだから」

 それはいつも聞いていた、母の口癖だった。

 ずっとそれを伝えたかったんだ。こちらを懸命に見つめて、僕の名前を呼んでいたのは。

 僕は――何もできなかった僕は、2人から責められてなんかいなかった。

 横断歩道を渡りきった。けれど、涙を堪えきることはできなかった。

「母さん」

 振り返ると、もうそこに父と母の姿はなかった。

 空気だけを押しのけて、自動車が目の前を流れてゆく。

「がんばるよ」

 まだ震える脚で、懸命に走り出した。

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