16.翼デートす
行方不明になっている日高建設の次期社長、日高孝男の仲間のふたり目が殺されるという事態になったが、翼は日高社長の秘書谷本と食事をともにするため、出かけていた。
谷本が予約していたフレンチ・レストランは、そのホテルの最上階にあたる37階にあった。
待ち合わせのホテルのロビーに、翼が黒ずくめのいつもと同じ恰好で来たので、谷本は苦笑した。
満席だった。翼は谷本とともにブラック・タイのウェイターに、窓際の予約席に案内された。一番いい席に思われた。港街の夜景が用意されたように眼下にひろがっている。色とりどりの高速道路の光の線の弧が、都会という生命体の血流のように縦横無尽に伸びていた。
「有名なレストランですよね、ここ。バーのほうも」
「ええ、いつも満員で予約も難しいらしいんですけどね。僕の力でなんとかしてみました。と言いたいところなんだけど、実は日高建設の席が確保されているんです。ま、宮仕えにはこういう特典もあるということです」
オードブルが運ばれてきた。
「ところで、上条さんは一人暮らしなんですか」
「いいえ、子供がひとりいます」
フォークとナイフを手にした男の手がしばし虚空で止まった。相手が「甥なんです」と言うまで青年の呪縛は解けなかった。
「最初から説明してください」
翼は説明した。谷本は終始興味深げに聞いていた。
メイン・ディッッシュになったときには、身の上話は谷本のそれのほうに移っていた。高校時代やっていたラグビーの思い出、大学でアメリカン・フットボールに転向した経緯、そして仕事上での無邪気な自慢話。青年の話は面白く、翼は何度か笑った。
食事が終わると、翼がこのホテルのバーに行ってみたいと言ったので、ふたりは、同じフロアーにある天井の高いバーに場所を変えた。こっちは、時間が早く、客が少なかった。
長いカウンターの向こうに世界の酒が光を放っていた。その前にバーテンダーの細身のシルエットが三つ切り取られている。カウンターの反対側には4人用テーブル席が平行して並び、その一番手前で、この暗いバーの中、サングラスをかけた厚いセーター姿の男がひとりで飲んでいた。奥のほうでは、スーツ姿の客が向かい合って話しこんでいる。ピアソラの曲がかかっていた。
カウンター席に背中を丸めながら谷本が訊いた。
「この前の情報は役に立ちましたか」
「マキなんとかさんという女性に会ったわ」
谷本は驚いた顔を探偵に向けた。翼は、女はある地方でバーを営んでいると言い、もう一人の女性はすでに死んだことを話した。
「そして本屋敷さんの殺された日は、私がちょうど、彼女のバーで彼女と会っていた日なんです」
「今、なんと言いました?」
「本屋敷さんが殺されたとき、彼女にはアリバイがあると言ったんです」
「本屋敷までが!」
探偵は、警察から聞いたと前置きしたあと、少ない語数で本屋敷の死を説明した。
谷本はしばし呆然としていたが、驚きに慣れるとこう訊いた。
「じゃ、やはりやつら三人組への復讐のようだけど、8年前の軍艦島のことは関係ないってことに」
「なりますね」
谷本は、軍艦島の事件も警察に話したのかと訊いたが、翼が首をふったので、安堵のため息をもらした。しかしすぐに眉根を寄せ、つぶやくように言った。
「じゃあ、いったい誰が……」
「他にいくらでもいるんじゃないですか。エリニュスになる女性は」
「エリニュスとは?」
「ギリシア神話の復讐の女神」
「それなら日高ももう殺されているんじゃ……」
「それはじきに分かりますよ」
「というと?」
「つまり、あなたのボスが、息子もすでに殺されているかもしれないと不安に思っているなら、本屋敷さんが死んだことを知って大騒ぎをし始めるはずです。必死になって息子さんの捜索を始めるでしょう。でも本屋敷さんが殺されたことを知っても、日高社長が息子さんを探す素振りを見せないとしたら、日高社長が、息子さんをかくまっていると考えられます」
「ありうるな……」
「どっちみち、明日になれば分かります。本屋敷さんは、あなたの会社の社員さんだったから、当然、近々、警察がまたお邪魔するはずです。そうしたら、社長さんも、いやでも本屋敷さんが殺されたことまで知ることになりますから。……何がおかしいの?」
「楽しいんですよ」谷本はロックグラスの中で氷を躍らせた。「君といると刺激される。君と話をしていると、こっちもレベルアップしたくなってくる。それが楽しい。では、こちらもひとつ、耳よりの情報を教えましょう。浜崎涼香さんは日高孝男との婚約を解消されたそうですよ」
翼は驚いた顔をした。
「君のお株を奪ったかな? 日高社長や復讐者以外で、日高を探す人っていったら浜崎さん一家ぐらいしかいない。その中であなたの友だちになりそうな人っていったら、浜崎さんのご令嬢しかいない。簡単な推理ですよ」
「そう……」
翼はカウンターの正面に顔を向けると、肩の荷が下りたようにため息をつき、次にはおだやかな笑みを浮かべていた。
「この前、あなたに私、しゃべりすぎたようね。でも、それでよかったわ。私は浜崎さんからボーナスをもらいそこねたけど」
翼はそういって、もちあげたカラフルなカクテルをじっと見てから、うまそうにあおった。
その姿を谷本は、やさしげな目で見つめていた。そして出し抜けに「分かりました」というと意を決したようにこう続けた。
「ライターの売買の件と、鬼塚君でしたか、彼を用心棒として雇うという件、僕が社長を説得してお目にかけましょう」
「本当ですか」翼は顔を輝かせた。
「もしかしたら君が言うように、社長は日高をかくまっているのかもしれない。が、どっちにせよ、君に例のライターを握られているのは、日高家としても、日高建設としても致命傷だ。また仮に、君がそれを切り札として警察に出すようなことになったとしても、殺人現場を乱したということで君もおとがめを受けることになる。どうなるにしても、僕としては遺憾な事態ばかりだ。しかし、その代わりに……」
「代わりに?」
「この商談を成立させることができたら、僕の恋人になってください」
ふたりはカウンター沿いに顔を向き合わせた。
翼は笑みを浮かべた。
「そのときは真剣に考えることお約束するわ」
「ぜひ前向きにご検討のほど、よろしくお願いします」
過日の自分の言葉を真似されて翼は苦笑した。谷本はグラスをあげ、飲み干した。
翼は、そろそろおいとますると言った。
「早く帰らないと君の小さな恋人が心配する?」
「そんなところです」
ふたりはストールを降りた。いつの間にか、ふたりがここに入ってきたとき、一番入り口の席にいたサングラスの男が、ふたりの真後ろの席に移動していた。しかし、谷本はそれを気に留めないまま、家までおくると翼に言った。
「結構、甥が、あなたを見て、ご機嫌斜めになるといけないから」
「それはうまくないな」
探偵と社長秘書はエレべータでフロントの階まで降り、駅まで一緒に歩いた。
大きなデパートとショッピング・モールを擁した夜の繁華街はあちこちに、クリスマスのイルミネーションを張り巡らしていた。幹線道路には、おびただしい数のヘッドライトやテールライトがひしめきあっている。
ふたりは私鉄の高架駅まで来ると、帰宅のサラリーマンを吸い込んで行く改札の手前で、「おやすみなさい」を言い合って別れた。
青年は、コンコースの人通りに逆らって立ちながら、改札越しに、人ごみの中へと消えてゆく女を見送っていた。青年の視界から消える前に、翼は一度だけ振り返り、手をあげて会釈した。青年も片手をあげて応えた。
そのとき、青年にうしろからぶつかった者がいた。紺のハーフコートを着た若い男だった。男は、改札へ向かう足を止めずに振り向きざま、「邪魔だよ」と言ったが、その声は白いマスクにこもって不明瞭だった。男はニューヨーク・ヤンキースの帽子をまぶかにかぶっていた。
谷本は、怪訝な顔をしただけで、その場を立ち去った。
マスクの男は、階段を走りあがってホームに飛び出ると、列車を待つ会社員の列からひとり離れている翼のうしろにそっと回った。
翼は、ホームの床面に絵をえがくようにぶらぶらとさせた長い脚の先を見つめながら言った。
「もう少し、うまくできないの」
うしろに位置どった男は両肩で、フードつきのハーフコートを持ち上げた。
「ばれてたか」
男はマスクをはずしてそう言った。
電車がやって来たので翼と鬼塚は同じドアから乗り込んだ。車内はスーツ姿のサラリーマンでほどほどに混んでいた。
翼はポケットに手を突っ込んだまま、背中を扉にあずけると、相手にだけ聞きとれる低い声で言った。
「あんなホテルのバーにウーロン茶らしきもの一杯で長居して、しかも、堂々と私たちのうしろの席に移動してくるんだから、ばれやしないかと気が気でなかったわよ」
「だって、俺、アルコール、ダメですもん。でも、今日の変装は悪くないでしょ。ほら、いつものスポーティーでアクションタイプの僕からは、とても想像できないようなダサい格好」
「明が教えたのね」
「それもありますが、以前、翼さん、あそこのホテルのバーのカクテルの話ししてたことあったでしょう。だからバーに来ると思ってたんです。どうです。僕も少しはやるでしょう?」
「明に、相手が男だって教えなかったでしょうね?」
「アキ坊のほうから先に訊いてきましたけど、アキ坊にそれを教える度胸はさすがの僕もありませんよ」
電車が一度、駅に止まり、車内がかなりすいた。扉がしまると、鬼塚は、遠回しの表現でふたり目の犠牲者が出たことの驚きを示したのち、話を転じた。
「しかし、婚約解消かあ。涼香さん、悲しんでるんでしょうか。喜んでるんでしょうかね?……」
「200万円損しなくて喜んでるんじゃない」
「また素直じゃない。しかし、さっきのあいつ、キザな奴ですねえ。『早く帰らないと、チミのちーちゃな恋人が心配しゅる?』だって、笑っちゃうよ」
「人を笑わせる才能は、あなたとどっこいどっこいね」
「まあ、そんなに悪そうな奴にも見えなかったですけどね。でも、本当に、あの秘書とつきあうつもりなんですか」
「あの場は、ああ言うしかなかったもの」
「でも、あいつ、なんか自信ありげだったじゃないですか」
「だからライターと用心棒の件も期待できるわけよ。でも、かくまわれていること、すでに知っているから自信あるのかもね」
「くそう、最初から勝算ありで、あんな話持ち出してきやがったんだ」
「ま、そんなことにはならないわよ」
目を窓の外に向けながら、翼は言った。
「私の本当の姿知ったら、すぐに嫌になるわよ」
鬼塚は黙って翼を見た。
闇の中を疾走していく街の灯に、翼の無表情な白い顔が重なっていた。
電車が駅に着いたので、翼だけ降りた。扉が閉まる前に鬼塚が言った。
「アキ坊を叱らないでくださいよ」
ホームに降りた翼は、振り向きかけただけで、何も言わなかった。
扉が閉まり、電車が動き出すと鬼塚は、ドアのガラス越しに頭をひょこっと下げた。翼はポケットから出した手を軽くあげて応えた。
駅を出て、翼は川沿いの陸橋を渡る。陸橋の上からは、まどいの明かりをあちこちに散らばらせた街が見渡せた。東の空にはオリオン座が掛かっている。
自宅のマンションについた翼はオートロックをあけると、中庭にある階段を、背中を丸めてあがって行き、「上条」のネームプレートが入っている201号室の扉に鍵を差し込んだ。
ドアをあけると同時に、どたばたとした音が中から聞こえて、それからしんとなった。
北側の部屋の扉が開いて、水色のパジャマ姿の明が目をこすりながら出てきた。
「おかえり」
「まだ起きてたの」
「寝てたよ」
少年は口に手を持っていき、わざとらしいあくびをした。
「のどがかわいちゃった」と言いながら明は居間までついてきた。翼はハイスタンドだけつけた。
少年は居間とカウンターで隔てられたキッチンに入ると、冷蔵庫からエヴィアンを出し、コップに入れて飲んだ。翼が、私にも、と言ったので 少年は自分の使ったコップにエヴィアンを足し、ソファーの翼に差し出した。
「ごはん食べた?」
「うん、目玉焼きとウインナーと……翼さんの食べてきたごはんは、おいしかった?」
「あんまり」
「また行くの?」
翼はコップをひざの上に乗せて、じっと前方を見た。
「多分、もう行かない」
そう言って、ミネラル・ウォーターを飲むと、壁にかかった時計に視線をはねあげ、
「あ、もう10時!」
と、さも大ごとのように叫んだ。
「おやすみ!」
明は、いきなり、きびすを返すと、逃げるように自分の部屋に駆け去っていった。
翼は、そのあと数分、ひとりでそこに座っていた。が、やがて水を飲み干すと、コップをキッチンカウンターの棚に置き、明かりを消して自分の寝室へ入っていった。
次回、急展開。日高孝男がついに見つかり、その父日高社長が思いがけない手を打ってくる。
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