17.契約成立
依頼人、浜崎涼香を怒らせて仕事を打ち切られ、もうけそこなった翼は、大胆にも日高建設社長に、その息子日高孝男のボディーガードとして後輩の鬼塚を推薦して仕事を得んとする。翼に好意を持つ社長秘書谷本は、自分が翼のその提案を社長に了承させることができたら、恋人になってくれと翼に頼む。そして……。
社長が翼の提案を了承したと、日高建設社長秘書の谷本が電話で告げてきたのは、翼と谷本がホテルのバーで約束を交わした翌日の午後2時だった。
「それで急で申し訳ないんですが、社長が、今日の夜、お会いしたいと言うのです。ある場所で契約をさっそく交わしたいと。車をそちらに向かわせます」
谷本がそういうのに、翼は礼を言って快諾した。
翼はすぐに鬼塚に電話をかけ、スーツを着てこっちに来るように言った。
午後4時、約束どおり、迎えの車が上条探偵事務所にやってきた。
現れたのは、ブラックスーツに無地のグレイのタイを合わした男だった。やや小太りで、スポーツタイプの黒い偏光サングラスをかけ、鼻の下には新品の歯ブラシのように長さをきれいにそろえた口ひげを展示していた。
男は、窓ガラスが振動するような低い声で言った。
「H様の使いで参りました。どうぞ、車のほうへ」
男が先に外に出ると、慣れぬダークスーツ姿の鬼塚が、「H様とはうまく言ったもんだ」と言ったので、翼は吹き出した。
黒のセンチュリーが、オフィスのビルの入り口をふさぐように停まっていた。
探偵ふたりはセンチュリーの後部座席にいざなわれた。運転席についた男は、ある山荘まで同行してもらうと言った。
発車したセンチュリーはしばらく、街中の幹線道路を進んでいたが、やがて北へ折れると、山地の長い勾配を登り始めた。
サングラスの男はよくしゃべった。
「上条さんは独身なんですか」
「はい」
「社長、あんたのこと感心してましたよ。女なのに度胸があるって。ずいぶん、危ない橋も渡ってきたんでしょう?」
「お互いに」
「まあ、安全な橋ばかり渡っていたんじゃ、もうけることなんてできないわなあ」
車は住宅地を抜け、山道に入っていた。道はいよいようねりを増していった。絶壁が迫ってきたかと思うと、眼下に渓流の走る谷が現われた。遠く冬の青空の下にミルク色にかすんだ港街の遠望が、峻険な山のあいまに、右に左に方角を変えて現れては消えた。
やがて、紅葉が点在する完全な山中になった。
出し抜けに、運転手が、「あれね」と言って、ハンドルから放した左手で前方を指さした。
ピンク色に染まりかけた雲を背景とした尾根の上に、オレンジ色の瓦を葺いた南欧風の建物が見えた。
回りくどいループを右に左に描いて、ようやくセンチュリーは目的地にすべりこんだ。
屋根つきの車寄せがついた大きな2階建てだった。日はもう山影に隠れようとしており、横殴りの光があちこちで緑の葉をきらめかせていた。
「社長さんの別荘?」
「そんなとこ」
男はそう答えて、先達となって中に入った。
通されたのは、広がった市街地を遠くに望む広い部屋である。中央にベッドのように幅の広いソファーがロの字型に配されていた。
「少しここで」
サングラスの男は、ぶっきらぼうに言うと、部屋を出ていった。
数分後、扉がひらかれ、スーツ姿の日高建設社長、日高義信とその秘書、谷本正則が現れた。谷本は茶色の革のブリーフケースを手にしている。探偵ふたりも立ち上がったが、誰も挨拶の言葉は発しなかった。
「さっそく、ビジネスの話と参りましょうか」
日高社長のその言葉が、場の第一声だった。
4人は、ソファーに腰をおろした。雇用するふたりと、雇用されるふたりが向き合った。
社長が、「ん」とあごで秘書に合図を送ると、秘書はひざの上に立てたブリーフケースの中から、紙包みを取りだし、テーブルの上においた。
「200万円です」
翼はそれを見ると、内ポケットから銀のライターを出し、相手の出した200万円の横へ将棋の駒を打つような音を鳴らして並べた。
社長はそれをつまみあげ、底を確認した。
翼はつかんだ200万円の束を、鬼塚の目の前に持って行った。鬼塚は一瞬どうしていいかとまどっていたが、あたふたと200万円をスーツの内ポケットに仕舞いこんだ。
「で、ボディーガードの件だが」
社長は、あらためて息子が殺人者でないこと、こういう地位に居る限り、恨みを買わずには済まないのだがと言い添えながら、息子は犯罪をおかしたのではなく、狙われているだけだということを強調したのち、契約金の話をした。一年契約で驚くべき高額の報酬が提示された。前金で半分、一年後に半分。
社長は、鬼塚のほうを見て訊いた。
「パスポートは持ってるかね」
「外国へ行くのですか?」
鬼塚は驚きと戸惑いの目を、隣りの先輩に向けた。
「ただで行けてよかったじゃない」翼は涼しい顔。
「行き先は?」
「タイだ。行ったことは?」
「いいえ」
「アジアの中では暮らしやすいところだ。治安だってそう悪くない。明日、有戸港から、香港経由でタイに向けて出る貨物船がある。それに乗ってもらう」
「明日?」
鬼塚は驚いた声を出した。
「船長が私の知り合いでね。待遇は悪くないよ。谷本。ちょっと説明してやってくれ」
谷本は、手帳を取り出して繰ると、こう言った。
「船の名前は、海王丸。5,000トン。所属は某海運会社。果物の輸入をしている船です。乗員は15名。今、有戸港の第7埠頭に係留されていて、出港は明日の午後3時ちょうど」
「息子さんとは、その船で初めて合流することになるんですか」
この鬼塚の問いに答えたのは翼だった。
「孝男さんなら、もう私たち会ってるわよ」
社長は、驚いた顔をしたが、うなずきながら苦笑すると、右手を高くあげ、誰かにこっちに来いというような合図をして見せた。
扉が開いて現れたのは、先ほどのサングラスの運転手だった。
運転手は谷本の横に座ると、サングラスをとって言った。
「日高孝男です」
ふてぶてしい小さな目が、翼と、そして鬼塚とに走り、それから、あらぬ方へそらされた。
「なるほど、上条さんは浜崎さんに、せがれを探すことを頼まれていたわけだから、せがれの顔写真ぐらいは見てるのだな」
父親が得心したように言うと、息子は丸い体をけだるそうに、ラウンジチェアーの上でもぞもぞと動かしながら、
「浜崎さんの話はもうやめてよ」
と言った。
「ま、あの結婚話は、向こうから持ちかけてきた話だ。こっちに有利なことはなかったのだから、これでいいのだ」
社長はなかばなだめるように跡継ぎに言ったが、息子はすねたように口をひん曲げた。
「そんなことないよ。あれほどの美人、そうざらにいないだろ。なあ谷本」
日高孝男は、まるで、そこに探偵たちがいないかのようなしゃべり方をした。話をふられた谷本は、「ええ、そうですね」と答え、ちらと翼の顔をうかがった。翼の顔はまったくの無表情だった。
「ああ、そうだ。俺のライターは?」
父親が息子にそれをかざした。互いの手が伸び、谷本の胸の前で、持ち主に戻された。
日高孝男は自分のイニシャルを確認すると、小さく安堵のため息をもらした。
「しかし、あんた、よく拾ってきてくれた。恩人だよ」
「依頼人の大事な人にとっての不利な物品でしたからね」
「やるね」
日高孝男がうれしそうにうなずいたところを、翼はすかさず質問した。
「ところで、これを落とされたのは、どんないきさつだったのですか」
父親が、息子が答えるのをさえぎろうとしたが遅かった。息子は機嫌よくしゃべり始めていた。2、3日、奥井の奴が、いくら電話しても出ないから妙に思って、奴の家に寄ってみると、あのざまで倒れていた。そのとき驚いて、飛びのいたときに落としたのだと。
「あとで気がついたんだけど、俺の物と分かったところで、俺が殺したわけでもないんだから、そのまま放っておいたと、こういうわけなんだよ」
「それだけですか」
「それだけって?」
「いえ、身を隠したほうがいいとお考えになったのは、もしかしたら、そこで奥井さんを殺した犯人の正体が分かるようなものでも、見つけられたんじゃないかと思いまして」
いたずらが親にばれた子供のような怯えの色が、日高孝男の顔にあらわれた。
父親は、それを見逃さなかった。社長は、赤くなったか、蒼くなったか分からない顔で立ち上がった。
「孝男! 特に心当たりはなかったんじゃないのか!」
「ないよ! 言っただろ。俺も、恨みや妬みなんか、いくらでも買ってる。お父さんだってそのことは、われわれのような立場にいる者の宿命だって、言ったばかりじゃないか」
息子の顔が泣き出さんばかりになった。しかし父親は息子の言うことをまるきり無視して怒鳴り続けた。
「それを最初に言っていたら、もっと早く、おまえを狙っている者の正体も分かったのかもしれないんだぞ! だったら、私も余計な労力を使わなくて済んだんだ!」
社長は、探偵ふたりを道具のように指さしながら、さらに声を大きくした。
「彼らだって雇う必要はないんだ!」
しかし、息子は、あくまで、犯人がどこの誰かまでは知らないと言い張った。
「本当か?」
息子は、口と目を落ち着きなくうごかしていたが、やがてべそをかいたような顔でこう言った。
「実は、そこに奥井の死体の上に、僕と本屋敷を殺すと書かれた紙が残されていたんだ。でもそれだけだよ。相手が誰かまでは……」
社長は呆れ顔になった。
「それだけで、おまえは相手の察しがついたんじゃないのか?」
「つかない。本当だよ。全然見当がつかない」
社長は、糸が切れたあやつり人形のようにどさりとソファーに巨躯を落とし、そして忘れた頃に「そうか」と言った。
そのとき、翼が立ち上がった。
「私どもは一度、引き上げます」
「夕食にお誘いしたかったが、また今度にさせていただいたほうが良さそうだな」
そう言って社長も腰をあげた。谷本も鬼塚も立ち上がった。窓の外はすっかり暗くなっていた。
社長は、谷本に探偵ふたりを送るように言った。秘書と探偵ふたりは、社長親子を残して部屋を出た。
外に出てみると、山の景色は闇に塗りつぶされ、地球のどこにいるのか分からないほどだった。
車に乗る前、翼は明に電話すると言って皆から少し離れた。そのあいだ、ふたりきりになった谷本と鬼塚は、互いにそっぽを向き合っていた。
次回、山荘からの帰りの車の中で、またひとつ谷本は謎めいた情報を翼に提供し、謎は深まっていく……。
ご評価ありがとうございます。
2月2日に新しく短編としてアップした上条翼シリーズの3番目の作品『夜明けの晩に』もあわせて御覧になっていただければうれしいです。




