竜宮城
縦書き表示推奨です。
北海道から遠く離れた九州では、折しも口蹄疫という家畜の伝染病が蔓延していた。何キロメートル離れていようと、海を二つも隔てた場所に位置していようと、札幌は宮崎と同じ日本に属しているようだ。「羊が丘展望台」とは名ばかりで、過保護な親を持つ箱入り娘のように、羊たちはどこか別の場所へ避難させられていた。
「これじゃ、ただの展望台だな」
稲倉が入口でもらったパンフレットと目の前の景色を見比べて言った。パンフレットに印刷された草原にたむろする薄茶色の羊たちの姿は、どこにも見当たらなかった。俺にも見えなかったから、馬鹿には見えない、という類のものでもないらしい。
羊がいないなら閉鎖すればいいのに。受付の女性はちょっと可愛いのをいいことに、俺たちから入場料を六百円も巻きあげていた。札幌を眺めるただの「展望台」に、一人三百円払ったことになった。
実際のところ、展望台といえるかも微妙だ。空には邪悪な色をした雲が低く垂れこめていて、すぐ近くにある札幌ドームの輪郭がギリギリ分かる程度の視界しかなかった。それでも展望台であると信じ込まないと、右手をあげて遥か彼方の永遠の真理を指しているんだか、一番近くのコンビニを聞かれて道を教えているところだかわからないクラーク博士の立像に、缶ジュース5本分の金を払ったことになってしまう。
俺は「すごいなあ。北海道って感じ。いい眺めだなあ」と無理にはしゃいでみせたが、稲倉が「そうか?」と一蹴するので落胆を誤魔化せなかった。
悔しいので無料サービスらしい記念写真を撮ってもらった。男二人で撮ってもなにも嬉しくないのだが、なんとか入場料分の元は取らなくては、と完全に主婦思考になっていた。できあがった写真は無料にふさわしく映りが悪くて、俺と稲倉はカツあげの真っ最中にカメラを向けられて咄嗟に体裁を取り繕った人たちのようだった。稲倉はポケットに手を突っ込んでカメラ目線で睨んでいるし、俺のピースは所在なさげに浮いていたし、クラーク博士の頭にはタイミング悪くカラスがとまっていた。
俺と稲倉は五時半の飛行機に二人分のキャンセルが出たおかげで、予定より(今日決まったことを予定というかは知らないが)早く北海道についていた。とりあえず札幌を観光しようと、地下鉄とバスを使って豊平区の「羊不在展望台」までやってきたのだが、ただ無駄に金をかけてしまったような気がする。果たして早い便に乗れたのが幸か不幸か、少なくとも最初に選んだ観光地は完全にスベっていた。
展望台を出て、札幌ドームを本当にチラッと盗み見たあと、時間も時間なので今日はあと一か所観光したら宿を探そう、ということになった。そこで旅行雑誌には必ず乗っている、かの有名な札幌時計台に、俺たちはこれまでのガッカリ感を払拭する逆転ホームランを期待した。
「え、これ?」
木造の簡素な建築物を見て、俺は間の抜けた声をあげた。札幌駅から少し南下した場所にあった時計台は、高いビルに囲まれて居場所がなくなったように、小さくなってたたずんでいた。特に大きいわけでもなければ、古めかしさも感じさせず、理科室の庭にある百葉箱を少し豪華にした感じだった。稲倉などは時計台の真横に差し掛かっても、立ち退きを迫られながらも抵抗をみせている民家だと勘違いしたのか、全く気づかずに通り過ぎようとしたくらいだ。
「きれいだね、ライトアップされててさ」
俺が無理やり頬を持ちあげながら言った。
「そうか?」
稲倉が一蹴入魂と言わんばかりに俺の努力を蹴散らした。
夕飯にと入ったカレー屋で北海道名物スープカレーを食べた。駅の近くにあった黄色い看板のその店は、俺たちが知らないだけで正体は有名なチェーン店だったらしく、大量生産したルーをレンジで温めたカレーの味がした。
信じられないことだが、こんな旅行でも俺は楽しんでいた。バスの補助席で左右前後の悪魔から注目を浴びないようにジッとしていたり、夜の宿舎でいち早く布団をかぶって朝まで寝たふりを続けることに比べればマシ、いや、ここ数年間で一番と言っていいほど俺の気分は高揚していた。たしかに俺と稲倉は馬鹿みたいに期待外れな場所ばっかり巡っているが、きっと一生の思い出になるだろうな、という確信があった。
よしよし、それならこれはどうじゃ。と不幸の神様がムキになったのか知らないが、俺たちがカレー屋を出るとバケツをひっくり返したような雨になっていた。
「奥山、傘は?」
「あるけど」俺がもごもごと言った。「駅のロッカーの中に」
札幌に到着してすぐに、俺たちは三泊四日分の荷物が入ったスポーツバッグをコインロッカーに預けていた。コンパクトだが広げると十分にでかい俺の折り畳み傘は、開発者の意図に反して持ち運ばれていなかった。「稲倉こそ、傘は?」と聞こうとしてやめた。こいつがそんなに用意周到なわけがない。一瞬歩いただけで着衣水泳の後のようになりそうな落水っぷりを見て、これはさすがに最悪だな、と俺は神様に白旗を振った。
雨は一向に止まなかった。俺たちは香辛料の匂いが漂うカレー屋の店先で、途方にくれて暗くなった空を見上げていた。店内でスープカレーを食べていたときも他の客はいなかったが、これからレトルトのような味のカレーを食べようと考えていた客もいなかったらしく、突っ立った俺たちの脇を通り抜けていく人は一人もいなかった。
ふと、ガラス越しに店内を振りかえると、エプロンをつけたバイトの女性が不愉快そうに俺たちを見ていた。極道みたいな顔をした男が店先に立っているから客が来ないのだとでも言いたげだった。十中八九、客が来ないのは悪天候とカレーの味のせいだ。今回ばかりは稲倉をかばいたかったが、営業妨害で訴えられたくはない。
「そろそろ、どっか行かないとまずいかも」
俺が切りだすと、稲倉も頷いた。
「駅まで走るか。すぐそこだ」
距離にしたら五十メートルほどしかなかったが、俺たちが札幌駅へと駆け込んだときには全身がしぼれるほど濡れていた。まだ関東では残暑が厳しいくらいなのに、北海道の夜は予想以上に冷えて、入り口から風が吹き抜ける度に体が震えた。どう考えても、半袖のシャツ一枚で来たのは間違いだった。エクアドルにダウンジャケットを着て行く馬鹿はいまい。
「寒いか?」
髪の先から水をしたたらせながら稲倉が言った。こいつは俺より馬鹿だ。半袖どころか下は短パンにサンダルである。それなのに顔色ひとつ変えていないのは、触覚が鈍いか存在していないからだろう。メンソールを塗ろうがカプサイシンを塗ろうが、冷たいとも熱いとも思わなそうだ。
「逆に、なんで寒くないわけ?」
「これぐらい平気だろ」
このくらい鈍感、よくいって鷹揚なら、さぞ生きることが楽だろう。稲倉と違い繊細で感受性豊かで頭の回転の速い俺は、足踏みをしながら粟立った肌をさすった。
「とりあえず預けた荷物をとってこよう」俺が歯の根を鳴らしながら言った。「タオルも入ってるし」
「俺は持ってきてねえ」
「いらないだろ」
スポーツバッグからタオルを出したものの人の目が気になって、俺はわざわざ便所に行って体を拭いた。本当は服ごと着替えてしまいたかったのだが、替えの服は最低限しか持ってきていない。べったりと体にまとわりつくシャツは気持ち悪かったが、我慢して着続けることにした。
「ホテル、どうしようか」
「探すか? この雨ん中」
「うーん……」
正直、気力も体力も残っていなかった。そもそも中学生の男二人を、飛び込みで泊めてくれるようなホテルはあるだろうか。
「電話で探してみよう」
俺は駅のあちこちにあるパンフレットを集め、電話番号の載っているホテルに空室の確認をし始めた。その間、稲倉は暇そうにジャガイモを揚げたスナック菓子を貪っていた。俺が買った俺の夜食だ。
「だめだ」俺が絶望的な声をだした。「満室、満室、それから中学生の宿泊お断り」
「散々だな」
そうだよ、散々だよ。誰かさんがホテルを予約済みみたいな思わせぶりな言動をしたせいで。やっぱり中学生の宿泊には親の許可が必要で、事前の予約は必須条件らしい。ユースホステルみたいな所なら望みはありそうだけど、どこにあるのか、そもそもこの辺にあるのかもわからない。
このままホテルが見つからなければ、残る選択肢は一つだ。
「しょうがねえな」稲倉が言った。
「いやだぞ、俺は」
「しょうがねえだろ」
「無理、絶対やだ」
「今日は野宿だ」
ああ、神様。負けを認めますから、どうかご慈悲を。天蓋付きベッドとはいいません、二畳あれば十分ですから眠る場所を用意してください。
途方にくれたまま駅構内のベンチに座っていると、あんなに大勢いた人たちがみるみると数を減らしていった。最終列車が発車する時間になると、酔っ払った大学生が南口から北口へと通り抜けていく以外、ぱったりと人通りはなくなった。札幌駅は不夜城ではないようだった。
照明がほとんど落とされた札幌駅は、さっきまでと同じ空間とはとても思えなかった。ドラキュラ伯爵かフランケンシュタインでも出てきそうだが、俺たちが一番おそれているのは制服を着た警備員だ。少し前に、一歩間違えたらヤクザに入っていたであろう警備員が、懐中電灯を片手に見まわりをしていたのだ。
野宿といってもこの悪天候の中、道端にテントを張って寝るわけにはいかない。だいたい、テントも設営場所もない。結局俺たちは朝が来るまで札幌駅内で休ませてもらうことにしたのだ。が、無人駅ならまだしも北海道の中心である巨大な駅に、アポ無しで宿泊することは当然ながら許可されていないようだ。
息を殺しながら誰にも見つからなそうな場所を探して歩き回っていると、スパイキッズにでもなった気分だった。後ろめたさからくる緊張感と、非日常が演出する興奮で、疲れや眠気がどこかへ飛んでいってしまった。稲倉がさっきから「やべえ、おもしれえ」と何度も報告してくるので、静かにさせるのに必死だったということもある。
「ここならいいだろ」
稲倉がドサッとプラスチック製のベンチに腰を下ろした。ダンジョンのような構内を彷徨っているうちに、駅から伸びる地下歩道に入っていたようだ。
「良くはないだろうけど、まあ、ここしかないか」
椅子に座ると腰にズシッとした重みが感じられて、ああ、やっぱり疲れていたんだな、と思わされた。
地下歩道は公共の道路なんだから、俺たちが一休みする権利だってあるはずだ。そう思えば、たとえ屁理屈でも気休めにはなった。
激しい雨だからこそ、地下歩道を利用する人はいそうなものだが、こんな深夜にわざわざ外へ出てくる人自体がいないみたいだ。さっきから人っ子一人通らない。まあ誰かがやってきたところで、稲倉がいれば危険な目には合わないだろう。毒をもって毒を制す。不良は不良よけになるのだ。
「なあ」ベンチに横になった稲倉が言った。「タオル一枚くれよ」
まったく、タオルの一枚も持ってこないで、逆に何なら持ってきているんだろうか。
俺がバスタオルを一枚放り投げると、稲倉はかけるのではなく折り畳んで頭の下に敷いた。枕が変わると寝られないタイプなのだろうか。そんな意外性はいらない。
俺はもう二枚タオルを出すと、一枚をベンチに敷き一枚を体にかけた。誰が座ったかもわからないベンチにタオルを敷くのは抵抗があったが、考えてみれば直接横になるほうが気色悪い。俺は繊細で思慮深くて、まあ、とにかくデリケートなのである。
少しウトウトしていたようだ。
俺は寒気を感じて目を覚ました。いつの間にか掛けたタオルが地面に落ちていた。タオルを拾いながら稲倉のほうを見ると、俺とは反対側を向いて静かに横になっていた。寝ているのか起きているのか、まさか死んでるということはないだろうが、見ただけでは分からなかった。俺はタオルを手で払ってから再び自分の体にかけ、もう一度眠ろうとした。
目を閉じて耳をすますと、冷たい雨が地上を打つ音が聞こえた。それは巨大な川が流れる音のようにも聞こえて、自分が川底に棲む魚にでもなったように感じた。ここには俺を閉じ込めようとする、くすんだ灰色の校舎は無い。毎晩のように俺を苦しめるイメージが、今日は浮かんでこなかった。
教室や廊下、体育館からトイレまで、嫌な思い出が染みついた学校のあらゆる場所が、どこまでも追いかけてくる。そいつらは夜になると俺の頭の中に現れて、気持ちを掻き乱す。朝が来るのが怖くなって、それでも朝は来て、俺は布団の中で震えているのだ。
どんなに遠い場所にいても、奴らはやってきた。次の登校日がどんなに先でも、奴らはやってきた。でも、なぜだろう、今日は穏やかだ。こんなに落ちついた夜は何年ぶりだろう。
「おい」
稲倉の声が聞こえて目を開けた。目を開けたら水の中にいるような気がしたが、無機質なコンクリートの天井が広がっていただけだった。
「おい、寝たか?」
「ん、起きてるよ」
「なんか話せよ」稲倉が呻いた。「寝れねえ」
やはり枕が変わったせいなのだろうか。稲倉なら交差点の真ん中でもいびきを掻いていそうなもんだが。まあ「話そう」じゃなくて「話せよ」なのは稲倉らしい。
「急に言われてもなあ」
雨が降る夜、札幌の暗い地下歩道で話すのにふさわしいロマンティックな話は咄嗟には思いつかなかった。一年かけてもたぶん思いつかない。
「なんでもいいぞ」
「じゃ、眠れるようにおとぎ話でも聞かせてやるか?」
「死ね」
なんでもいいんじゃなかったのか。以前の俺なら魔王様から「死ね」と言われたものなら殺される前に「仰せのままに、腹を切りをば」と自害を決意してもおかしくなかった。でも今は稲倉の理不尽にも慣れたし、冗談で言っているのが分かる。
「なあ、それなら、聞きたいことがあるんだけど」
「おう、なんだ?」
俺は少し躊躇った。でもこのチャンスを逃したら、一生聞くことができない気がする。ええい、修学旅行に暴露大会はつきものなんだろ。
「あのさ、おまえ、なんで勉強始めたんだ?」
ずっと不思議に思っていたことだった。稲倉と勉強という水と油みたいな物が、どうして結びつこうとしているのか。
稲倉は黙りこんた。プライベートな部分に踏み込みすぎただろうか。本気で怒らせたら、命の心配をしないといけない。
ひょっとして眠ってしまったのかと俺が思い始めたころ、稲倉が口を開いた。
「親父みたいになりたくないから」
「親父?」
「ああ、死んだんだ、去年」
稲倉が空模様について喋るかのようにサラッと言ったので、俺は「あ、そうなの」と間抜けな相槌を打ってしまった。実際、あまり驚かなかった。ほこりを被ったベンツ、男ものの革靴。父親がいない家が持つ、もろくて物悲しい独特の空気。俺の家で感じる空気と同じものが稲倉の家にも漂っていることに、何度か通っているうちに気づいていたからだ。
「親父な、本物のヤクザだったんだ」
一度口を開いてからは、稲倉は流れるように喋った。
「背中にさ、でっけえ鯉の刺青が掘ってあって、なんか親父の顔より、その鯉の顔のほうが忘れられねえんだよな」
妙に納得した。大学病院の院長とかも、一周回ってそれはそれであり得えそうだけど、ヤクザ以上に稲倉の親父にふさわしい職業はない。
「くそ親父だったけど、まあ、嫌いじゃなかった」
いつの間にか、稲倉は起き上がってベンチに座っていた。
「けど、あっさり死んじまったよ。なにをどうトラブったのか、詳しいことはわかんねえけど、股間を二発も撃たれたんだと」
「痛そうだ」自分の玉がひゅんと縮む。
「笑えるだろ」稲倉は笑みを浮かべた。「でもさ、死体見たとき、おれ、吐いちまったんだ。もちろん死体っつっても綺麗にした後の体なんだけど、顔の形が誤魔化せないぐらい変わっててさ、ありゃ骨格変わるぐらいまで殴られたんだな。あ、ビビって吐いたわけじゃねえからな。それを見たとき、なんつーか、うまく言えないけど、ああ俺もこいつみたいに人生を終わるのか、って思ったんだ」
稲倉は話しながら頭を掻きむしっていた。心の中が言葉にするとうまく伝わらないことに腹を立てているようだった。もどかしげにつっかえながら話す稲倉が、俺には子供に見えて、そしていつもよりでかく見えた。
「で、勉強してやろうと思ったわけ」
考えがまとまらなくて、説明するのが面倒くさくなったらしい。稲倉は強引に締めて長広舌を終えると、全力疾走のあとパタンと倒れこむように、今度はいっさい喋らなくなった。
それでも、そこまで聞けば十分、俺には稲倉の気持ちが理解できた。数時間前の、ビニールシートを被せられていた愛原ナギサの姿が浮かんだ。そして俺の部屋に積み重なった潰された空き缶を思い出した。
稲倉も俺と同じなのだ。自分を囲う壁をよじ登って、幸せが広がる外の世界へ。
「結局、稲倉にばっか話させちゃったな」
でも稲倉の「話せよ」が「話そう」なのを、俺はちゃんと分かっている。
「じゃあ、次はおれが話す番だな。三日前、風呂入ったときに気づいたんだけど、おれ、乳首のところに……」
低く唸るようないびきが俺の話をさえぎった。いつの間にやら稲倉は再び横になっていた。やれやれ、と俺もタオルを掛けて横になった。
でも俺は、稲倉が饒舌になった照れ隠しで狸寝入りをしていることも、ちゃんと分かっているのだ。
次回、舞台が学校に戻ります。たぶん。
あと少しで完結しそうです。