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19.メイドの私が死んだ日

ヴァレリオ様と入れ替わるようにして、恰幅のいい初老の男性が入室してこられた。お医者様だ。

手には使い込まれた革鞄を提げていて、口元には白いお鬚と共に穏やかな微笑みを湛えている。


そんなお医者様の後ろには、メイド長様のお姿があった。

ご当主様への報告のため、お医者様の助手を担うために、ご同席くださるのだそうだ。


ペンネロはいつの間にか姿を消していた。

ただ、何となくだけど近くで見守ってくれているような気がする。


「待たせてすまないね。さあ、始めようか」

「フィオーラ、気をしっかり持つのですよ」


メイド長様はそう言って、私の手をぎゅっと握ってくださった。

お医者様の許可を得て、メイド長様の方に顔を向けた状態で診察を受けていく。


「息を吸って……吐いて……」

「……っ」


お医者様が私の呼吸に合わせて、左肩の付け根をゆっくりと持ち上げていく。


「……っ!! あ、あぁ……っ!」


背中を突き抜けるような激痛が走った。

メイド長様の呼びかけで、何とか意識を保つ。


「肩は反応あり。……よし、次は指だ。痛かったら、すぐに声を上げてくれ」

「……はぁ……はぁ……はい」


奥歯をギリッと噛み締めて身構える。

……けど、いつまで経っても痛みはやってこない。


「お医者様! そっ、そのようにされては、折れてしまいます!」

「?」


振り返ると、お医者様が前腕を震わせる勢いで私の親指を握り締めていた。

強い力を加えられたことで、私の指は蝋のように真っ白になっている。


なのに――まったく痛くない。


「お嬢さん、痛みは?」

「……何も……感じません」

「何ですって!?」

「ふむ……。そうか」


お医者様はベッドの下から枕を拾い上げると、その上にそっと私の手を置いてくださった。

やわらかくて、ひんやりと冷たいはずなのに……私の手では、何も感じ取れなくて。


「どういうことですの? フィオーラの身に一体何が……?」

「左腕の神経を斬られてしまったようだ。養生を重ねれば、幾分か動かせるようにはなるだろうが……もう元には戻らんじゃろうな」


――もう元には戻らない?


思わず笑ってしまった。

不思議と涙は出てこない。


たぶん、まだ頭が追い付いていない。

混乱しているんだろう。


「とっ、とは言っても、ある程度は動かせるようになるのでしょう?」

「『持つ』、『持ち上げる』、『結ぶ』、『押さえる』……。こういった動作は、総じて難しくなると思ってくれ」

「そんな!? そっ、それでは……」

「うむ。酷な話だが、メイドはもうやれんじゃろうな」


それは私にとっては死刑宣告に等しいものだった。

――メイドではないフィオーラには、何の価値もない。

これから一体どうしたら……。


「あんまりですわ! この子は幼い頃から、誰よりも熱心に研鑽を積んできたというのに……っ。これからなのですよ! これからなのに……っ」

「メイド長様……」


気高く美しい紫の瞳からボロボロと涙が溢れ出す。

そうだ。そうだわ。悲嘆している場合じゃない。


私は自分の勝手な都合で、メイド長様の期待を裏切ってしまったんだもの。

まずはきちんとお詫びしなくては。


「メイド長様。熱心にご指導いただいたのにもかかわらず、このような結果となってしまい申し訳ございません」

「何を言うの! 貴方が謝ることでは……っ!」


メイド長様は何かを言いかけて、目を見張った。

少々思案顔を浮かべられた後で、うんうんと頷かれる。


「そうね。そうだわ。貴方には、決死の思いで身に付けた教養があります。旦那様に事情を説明して、修道院に請願いただけないか掛け合ってみましょう」

「わっ、私のような者に!? 滅相もございません!」


私はこの体だ。おそらくは、『写字女』として受け入れてもらえるよう、請願なさるおつもりなのだろう。


聖書や古典を美しく書き写す写字女になるには、高い教養は勿論のこと、多額の持参金を必要とする。


当然、私のような一介の使用人に払える額ではなく、そのお金はサヴィオラ家にご負担いただくことになってしまう。

その額は一般の中級メイドに支払われる手切れ金の、およそ十倍~二十倍だ。


ご当主様にご相談申し上げるだけでも恐れ多いことだというのに、それをメイド長様に代行いただくなど、以ての外だ。

下手をすれば、メイド長様の信頼さえも揺るがしかねない。


「甘えておきなさい。そんな体では、まともな職にありつけない」

「ですが……」

「なーに。これはサヴィオラにとっても、必要なことなのじゃよ。『ルンガルディ家の陰謀』の被害者である君を路頭に迷わせたとあっては、家名に傷がついてしまうからの」


家名に傷がつく。

それは実利に直結する死活問題だ。


特に今は、ルンガルディから奪われた権力を取り戻すために、その正当性を誇示しなければならない大切な時期。

一分の隙も見せるわけにはいかない。


「……承知致しました」


私の不甲斐なさが招いた失態は、サヴィオラに大きな損害をもたらしてしまった。

以前であれば、日々の職務に邁進することでお返ししようと、頭を切り替えることも出来ただろう。

だけど、壊れてしまった今の私には、その選択肢すら残されていない。


やっぱり、フィオーラには何の価値もない。

今の私はただのお荷物だ。


.。o○○o。..。o○○o。.


「えっ!? もっ、もうお許しが!?」

「ああ。二か月後には入会出来るだろうとのことだ」


同日の夕方、見舞いに来てくださったモーリス様から、ご当主様が修道院への請願を受理されたとの報告を受けた。


タイミングからして、ほぼ即決くださったと見て間違いないだろう。

あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。


「信じられません。何でまた……」

「教皇庁はルンガルディを見限り、サヴィオラとの和解を画策している。あとは……君なら、皆まで言わなくとも分かるな」


私はぐんっと顎を持ち上げた。

興奮を抑えきれない。起き上がれないことが、もどかしくて仕方がない。


「光栄ですわ! こんな私でもまだ、サヴィオラのお役に立てるなんて……!」


執事様のモノクルの先にある静かな瞳が大きく見開かれる。

私ははっとして「申し訳ございません」と謝罪する。

今のはあまりにもはしたなかった。


「……惜しいな。本当に惜しい」

「はい?」

「私も君に、ベアトリーチェの後を継いでもらいたかった」

「そんな……勿体なきお言葉にございます」


執事様は小さな溜息と共に、沈痛なお面持ちで固く目を閉じた。

やり場のない怒りや、悔しさを必死に抑え込んでくださっている。

私にはそんなふうに見えた。


モーリス様もまたお優しい方だなと、改めて思う。


「長きにわたり、ご鞭撻をいただきありがとうございました」


執事様は私に礼をしてくださった。

これは、メイドである私への最大限の『敬意』であり『葬送』でもある。


メイドである私は、今この瞬間に天に召されたのだ。


私はうつ伏せのまま目礼で応える。

執事様への最大限の感謝と敬意をもって。




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