羨望不要(Aパート)
闇の中を駆け抜けるには、それなりの力がいる。特別な──魔法の力とまではいかないが、適正の問題だ。例えば、夜目が利くことや、できるだけ音を抑えて走ること、人目の少ない道を選びとること……逆に言えば、そういった事が確実にできるのであれば『客待ち』というのは実にやりやすい仕事だ。
タマはそうした適正とでも呼ぶものが、よく身についている少女であった。今年で十六歳、それ以外生きる道のない彼女にとって、客待ちの仕事は天職であった。少女の住む帝都イヴァンでは、性風俗産業はほぼ北西部歓楽街・通称色街の中で完結している。しかし中には、そう言った場所におおっぴらに行けない者、そもそも色街で遊べるほどの金を持たないもの、はたまた、いわゆる玄人を抱くのを嫌がり、どこか素人っぽさを喜ぶ者などいろいろいる。健康的、とはあまり言い難いが、そのような要望に答えるのが、客待ちだ。タマのように身寄りや手に職を持たない者にとっては、最後の受け皿とでも呼ぶべき職業だった。
客待ちには基本的に元締めはいない。大抵それぞれ独り立ちしている。客との交渉中トラブルになる事もあれば、憲兵官吏など治安機構側の人間に追い掛け回されることもある。特に憲兵団は、客待ちの摘発にやっきになっているようで、最近などタマは何度も捕まりかけているのだった。
「しつこいなあ……いい加減諦めてくれりゃいいのに」
素っ気のない、毒々しささえ感じるくらい赤く丈の短いドレスと、あまり手入れの行き届いていない長く茶色いロングヘアが夜風に揺れる。とにかく今夜もまければそれでいい。どうせ客待ちを全員捕まえることなど、できるわけがないのだから。走り慣れているせいか、立ち止まってすぐ息は整った。ようやくほくそ笑むくらいの余裕が出たその時、目の前を何かが通り過ぎた。
剣の鞘。それがタマの目と鼻の先を通りぬけ、細い路地を塞いでいる。建物の影には、その剣の持ち主が立っていた。
「や、お努めご苦労さまです」
慇懃にそう述べる声に、タマは大きくため息をつく。知り合いだ。それも、考えうる中で最悪の。
「……ドモンの旦那、見逃してよ。わたし、拘置所行きだけは勘弁だよ」
ドモンはようやく建物の影から姿を乗り出し、眠そうな目をこすりながら剣の鞘で肩を叩いた。憲兵官吏の白いジャケットが、夜風にさらされふわふわ揺れた。
「といってもねえ。僕もこの通り、仕事なんですよ。ま、こんな真夜中に客待ち狩りだなんて、バカらしくてやってられませんけどね。でも困ったことに……まだ僕だけ一人も捕まえてないって有り様なんですよねえ」
タマは再び大きくため息をついた。ドレスの懐に手を差し入れると、財布を取り出し、そこから銀貨を一枚つかみ出し、手のひらに載せ差し出した。ドモンはその手のひらの銀貨には目もくれず、財布をひったくり、彼女の目の前で揺らした。
「ま、こっちなら文句無いでしょう。ああ、別にその銀貨でもいいですよ? その代わりと言ってはなんですけど、そのへんでチョチョっと僕にサービス……」
タマは既にドモンの前からは消えていた。彼が振り向くと、タマは既にかなり先まで走り抜けていた。
「あんたみたいなぼんくら役人の相手なんて、死んでもゴメンだよ! もっと金持って出直しな、この頭上触手男が!」
呆然とその場に立ち尽くすドモンは、ようやく財布の中身がすっからかんだということに気づいた。しかし文句を言うべき対象のタマは既にその場からは消えてしまっていた。ドモンはやれやれといった表情で再び鞘で肩を叩くと、貧乏臭くその財布を懐にしまうのだった。
帝都イヴァン北東地区、ファム・ファタール・ストリート。帝国首都となったイヴァンでも急速に発展した、高級住宅街である。その中でも五本の指に入るであろう屋敷が、帝国貴族辺境伯ペンドラム家の別荘である。
現当主、リヒター・ペンドラムは西の帝国国境付近を領地に持つ大貴族であり、帝国貴族二十家の一人にも数えられている。今は亡き皇帝、アケガワ・ケイの『勇者の使命を全うするための』旅を自ら積極的に支援した事、何より国境付近という国政維持に欠かせぬ領地を何代にも渡り守り続けている事を見込まれ、帝国成立前と変わらぬ広大な領地を、貴族たちの中では唯一所領安堵されたという逸話を持つ。
本人もその有能ぶりに違わぬ豪傑であったが、一つだけ問題があった。どの世界のどの人間にも当てはまることであるが、スケールの大きい事をやってのける人間は、自身の器の大きさも大きいものである。ペンドラム卿もそれに違わぬ男であり、器の大きさを抱える妻の多さに発揮してしまったのだ。正妻に加え、妾はなんと四名。子供は既に十五名に達する。
そして、このファム・ファタール・ストリートのペンドラム家の屋敷には、その十五名の子息たちの一番末っ子にして、四番目の妾の子が住んでいる。おかしなことに、近所に住むものは、そこまでしか知らない。この家の住人を、誰も見たことが無い。当然、そんな調子だと有る事無い事噂が立つ。何せ、辺境伯たる現当主さえ、イヴァンに来るのは年に一度だけだ。余程の事情があるに違いない、とまあそういった調子になるのである。
大きな屋敷の裏側、小さな扉に腰をかがめ、老人が入っていくのを知るものは少ない。彼はこの屋敷唯一の従者である。もともとこの屋敷は、当主ペンドラム卿の短期滞在用の住居であり、彼はそのハウスキーパーを任されていたのだ。
しかし、三年前に事情が変わった。十五番目の子、その実四番目の妾の娘だったのだが──四番目の妾が正妻と他の妾と折り合いを悪くしたのだ。一夫多妻とは不思議なもので、母の威光が子の立場に直結する。十五番目の娘は、その妾の唯一の子であったこともあり、父親の元から遠く離されることになったのだった。
「お嬢様、お早うございます」
巨大な居室への扉をノックすると、気だるげな声ともつかぬ声で返事が返ってくる。
「入ってもよろしゅうございますか」
やはり気だるげな返事。老人はゆっくりと扉を開ける。身体に似合わぬほど大きなベッドの上に、その少女は居た。透き通るような白い肌。油でも引いたように美しく滑らかな輝きを放つダークブラウンのロングヘア。眠いのか半目のままの瞳は、黄金色だ。従者がカーテンを開けると、少女の黄金色は瞼の奥へと隠れてしまう。隠れるように、そのまま布団の奥へ。
「お嬢様。もう朝でございます。私めが朝食を作ります故、ご準備の程……」
「……分かっています……分かっていますから、もう少し……」
老いた従者は、自分の小さな主人の寝起きの事を、よく分かっているつもりだった。そんな主人の姿を見るのも、後何年可能なことやらわからぬ。
「支度をして参ります。二十分もすれば準備できますので……今朝はタマコ様のお好きな、スコーンをお作りします。飲み物は紅茶とハーブティー、どちらになさいますか?」
「紅茶……砂糖をスプーンに大盛り四杯……ミルクは少しで……」
食事のことだけは、しっかりしている。今日も体調は良いのだろうということを確認し、老いた従者は老骨にムチを打ち、ゆっくりとキッチンへと降りていった。何せ主人のタマコときたら、甘い菓子以外はほとんど口にしないのだ。ここ数年で、すっかり菓子職人顔負けの技術が身についてしまった。
「お嬢様にも、もう少し好き嫌いなく食事をとってほしいものだが」
二十分経っても、タマコは降りてこないだろう。従者は経験からそう当たりをつけ、まず食堂の掃除から仕事を始めた。