第1話:55歳、デスマーチの夜に辞表を叩きつける
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午前二時。キーボードを叩く乾いた音だけが、深夜のオフィスに響いていた。
「島崎さーん! ダンジョン対策システムの仕様変更、まだ上がってこないんですか!? これだから昭和頭のオジサンは手が遅くて困るんですよねぇ!」
静寂を破ったのは、自分の息子ほど歳が離れた若手プロジェクトマネージャー、高橋のトゲのある声だった。
三年前、突如として世界中に『ダンジョン』が出現した。
魔物、魔法、未知の資源――世界が激変する中で、我が社も『ダンジョン探索者支援システム』の案件に飛びつき、過酷な突貫工事を続けている。
島崎成己、55歳。
この道三十年のベテランシステムエンジニアだ。
深夜残業は当たり前。無理難題な仕様変更を丸投げされ、若い上司からは無能扱いされる日々。
(……ふう。もう、いいか)
島崎はゆっくりとメガネを外し、目頭を揉んだ。
身体はとっくに悲鳴を上げている。なにより、こんな理不尽に命を削るために三十年間コードを叩き続けてきたわけではない。
「おい島崎さん! 無視ですか!? 言っときますけどね、55歳にもなってうちの会社を追い出されたら、再就職なんて絶対無理ですからね!?」
高橋がニヤニヤしながらデスクの横に立ち、書類で島崎の肩を小突いてくる。
島崎は静かに立ち上がると、胸ポケットから『それ』を取り出した。
白い封筒。表には達筆な字で、しっかりとこう書かれている。
――『退職届』。
「……は?」
高橋の顔からニヤニヤ笑いが消える。
「本日をもって、退職させていただきます。引き継ぎ資料はすべてサーバーの共有フォルダに格納済みです」
「は、はあ!? 何言っちゃってんの!? この土壇場で抜ける気かよ! 社会人としての責任感ってものが――」
「法的には二週間前の申し出で成立しますが、有給の消化も放棄します。今夜ここで、契約終了とさせてください」
島崎は淡々と、しかし一切の隙を与えない静かな口調で言い放った。
長年、幾多のデスマーチを生き抜いてきた修羅場経験者の威圧感に、高橋は引きつった顔で後退りする。
「お、後悔しますよ!? ダンジョン時代に無職の55歳なんて、飢え死にするだけなんだからな!!」
捨て台詞を背に受けながら、島崎は一言も返さず、自身の荷物をまとめた鞄を持ってオフィスを後にした。
ビルを出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
久しぶりに仰ぎ見る夜空は、驚くほど澄んでいた。
「……自由だ」
ぽつりと呟く。退職金とこれまでの蓄えがあれば、しばらくは一人で気ままに暮らしていける。
重荷を下ろした解放感に浸りながら、島崎は夜道を進み、ポケットから愛用の安物コンビネーションレンチ(DIY用の工具)を取り出した。明日からは自宅のガレージで、趣味のDIYでもして過ごそう。
そう思って工具を眺めた、その瞬間だった。
(……ん?)
視界が、ふっと切り替わった。
手に持ったスチール製のレンチの周りに、青く光る半透明の文字列――まるで『プログラミングのソースコード』のようなものが、びっしりと浮き出て見えたのだ。
Plaintext
Class: Steel_Wrench {
Material: Iron(85%), Carbon(15%);
Durability: 100/100;
Attribute: None;
Function: Tighten_Bolt();
}
「なんだ……これは……?」
疲れによる幻覚かと思った。
だが、長年コードを書き続けてきた島崎の脳は、直感的にそれを「理解」してしまった。
これは、物質の『構造データ』だ。
そして、自分の意思次第で――このコード(現実)は、書き換えられる(リファクタリングできる)。
「……バグ(欠陥)を消して、パラメータを書き換える……?」
島崎が試しに、脳内で「耐久値の向上」と「構造の最適化」をイメージしてコードを操作してみる。
シュン、と小さな光が走り、安物のレンチの質感が一瞬で変わった。
黒く重厚な光沢を放ち、手にしっくりと馴染む。
試しに近くにあった頑丈な鉄パイプに軽く触れさせてみると――まるで豆腐でも切るように、ズバッと切断できてしまった。
「…………マジか」
55歳、定年目前のベテランSE。
社畜を辞めたその夜、彼は世界で唯一の『システム錬金術』に覚醒したのだった。




