八十五頁目
Dが探し当てたとき、ローレンツは乳母から赤ん坊を手渡されているところだった。ぎこちない手つきで小さな小さな赤ん坊を抱き、揺すってあやしている背中には哀愁が漂っている。
ローレンツは赤ん坊のパッチリした紫色の瞳を覗き込んで、息子の名を呟いた。
「ユーリ……」
ユリウスがほんの小さいときにだけ、ローレンツは息子のことをそう呼んでいた。大きくなった彼が、どういうつもりで周囲にその愛称で呼ばせていたのかは、ローレンツにはわからないことだったが。
腕の中の小さな命がまるで返事をしたかのように身動ぎしたのを見て、ローレンツは微笑んだ。
「悪いケド、その子はユーリの生まれ変わりじゃないですよ。身代わりになんかしないでちょうだいな、ローレンツ」
「……D」
凍てつくような冷ややかな声に、ローレンツは緩んでいた頬を引き締めて振り返った。
白髪の少女は、いつものようなふざけた態度ではなかった。サファイア・ブルーの瞳を怒りにきらめかせて、Dはローレンツをじっと見つめている。
「ユーリの育て方を失敗したと後悔していることでしょうね。でも、その赤ちゃんは貴方がやり直しをするための道具じゃない」
「そんなつもりはない!」
「でも、実際貴方は重ねてる。ユーリとその赤ちゃんを同じに見てる! 麗筆は貴方に赤ちゃんを託したけど、私は反対。そんな気持ちで育ててほしくない!」
「ならばどうしろと……私に、どうしろと言うんだ……」
ローレンツは呻いた。
思わず否定したが、Dの指摘は的を射ていた。
ユリウスを失ってからというもの、ローレンツの心には後悔の波が押し寄せていたのだ。それが、あの赤ん坊を抱いてからさらに顕著になった。思い出されるのはユリウスの幼い頃のことばかり。身代わりにするつもりなどないと思いながらも、どうしても重ねてしまっていた……。
「今度こそ、幸せにしてやりたいと願ってはいけないのか!」
「愚かな……」
「なにっ!?」
怒りの声を上げたローレンツはしかし、ぶわっと膨れ上がった冷気に気圧された。咄嗟に腕を上げて赤ん坊を庇い、よろよろと後退る。
「D……!」
「やはりあのとき、引きずってでもあの場に連れて行けばよかった……。自分の目の前で起きたことしか頭に入らないんでしょう? ユーリが死んだ、そのことしか! よく思い出しなさいな、その赤ん坊の母親が誰なのかを! 二年間も……貴方の助けが来ると信じて、待ち続けたのは誰!?」
「……!」
今度こそ、ローレンツは何も言い返せなかった。
そんな彼の表情を見てか、言うだけ言って満足したのか、Dは怒りを収めた。
「一番に考えなきゃいけないひとのこと、忘れちゃダメだよ。あのときのユリアさんの苦しみは、本物なんだから……」
「……D」
「なぁに?」
「すまない。ありがとう……」
Dは無言のまま淑女らしく一礼すると、ローレンツに背を向けて歩き出した。
◇◆◇
ユーリの最期を、思い返していた。
ユーリが杯を掲げて”力ある言葉”を唱えたとき、Dもまた彼に囁いていたのだ。彼の、魂に。
こうなったらもう、距離も何も関係ない。
何度もDと接触し、徴をつけられていたユーリの魂はいとも簡単に絡め取られてしまったのだった。
真っ暗な何もない空間にユーリの戸惑った声が響く。
「なんだここは……どうなってる!? おい、誰か! 誰かいないのか!」
叫んでも返ってくるのは自分のこだまだけ。
ユーリは端正な顔を歪めた。
「くそ……」
そんなユーリを、檻に入れた愛玩動物を愛でるようにして眺め、Dはクスリと嗤った。
「レイヒ? レイヒ、いるのか?」
『……ここにいますよ、ユーリ』
言い当てられたDは苦笑しながらもユーリの前に姿を現した。ユーリはようやくホッとしたような表情を見せ、いつもの自信に満ちた笑顔に戻った。
「やぁ、レイヒ。これは君の仕業かな?」
『そうだと言ったら……満足します?』
「ははは、そうだな。俺に構ってほしくてこんなことをしているんだとしたら、早く出して欲しいな。今は時間が惜しい。落ち着いたら相手をするよ。必ず」
『……本当に思ってることしか言えない場所なのに、貴方ってひとは……』
さすがのDも呆れ返った。
ユーリは本気でそう思っているのだ。女好きのする笑顔を振りまいて、「仕方のない子だなぁ」なんて。何度も教えたのに、今もまだDの名前を間違って呼ぶ。
「ほら、レイヒ。こっちにおいで。抱きしめてあげよう。それとも、怒っているのかい? あの本のこと。もしかして、謝ってほしいの? ごめんよ、レイヒ。でも、君があんまりにも俺のことを蔑ろにするからさぁ、つい、こっちを振り向かせたくて。許してくれるだろ?」
あまりにも軽く、ユーリは笑った。
やられた方はたまったものではない。
『今までにも、そうやって何人もの女性を便利に使い捨ててきたんでしょうね、ユーリ』
「うん? 女たちはみんな、俺の役に立ちたくて俺のところに来るんだよ? 殺したか、っていう意味の質問なら、答えはもちろんイエスだよ、レイヒ。彼女たちは可愛いし遊び相手にはちょうど良かったけど、女の子はね、ダメだね。口が軽すぎる」
ふっ、とユーリは笑った。
「ちょっとつつかれたくらいで怖くなってベラベラ喋られたらねぇ、たまんないよな。計画立てて準備して、そうやって努力してきたこと全部、無駄にさせられちゃったことがあってね。だから女の子を仲間に加えるのはやめにしたんだ。男同士の結束ってやつ? 必要なのはそれなんだよなぁ」
『ふぅん。それで? 女の子たち、どうしたの?』
「…………。うちは男所帯だからさぁ、わかるだろ? 連帯感を強めるためにみんなで楽しませてもらったよ」
ユーリの笑顔は変わらなかった。
女の子を輪姦して殺しておいて、罪の意識のかけらもない。
Dはにっこりと笑って次の質問をぶつけた。
『これから、どうするつもりなの? 王様になりたい? お父さんやお祖父ちゃんを殺してでも?』
「殺したいわけじゃないさ! 何言ってるんだい? 殺さずにすむならそうしたい。ただ、邪魔なんだよ。俺は、みんなが楽しく遊べる世の中にしたいだけなのに……」
『悪いと思ってないんだね、ユーリは』
「何に対して?」
艶やかな茶髪を掻き上げながらユーリは笑っている。
冷たいアメシストの瞳。
Dを捕まえようと伸ばされた手は、触れることすら許されず、Dの身体をすり抜けた。
「なっ!?」
『もういいよ、ユーリ。もう、おしまい』
「は?」
わけがわからないというように声を出したユーリのその手を、黒い錐のようなものが刺し貫いていた。
「あ……があっ! 痛っ、なんだこの……!」
痛みと怒りの叫びを堪え、ユーリが状況を窺おうとしたとき、二本目が彼の脇腹を貫いた。
「うああああっ! くそ、なんだこれ……! レイヒ! 助けてくれ、レイヒ!」
『ふふっ』
「ぐ……ってぇ………。何がおかしい、レイヒ!」
『私はね、ユーリ。ひとの痛みが好きなの』
「なに……?」
『痛み、苦しみが、嘆きが、怒りが! 貴方はね、これからずっと、貴方が与えてきたものを味わい続けるの。ここで、ずっと。独りで』
「レイヒ、お前っ!」
『まだまだ序の口だよ? たっぷり楽しんでね、ユーリ。死なせてって泣いてお願いできたら終わりにしてあげるよ』
「レイヒ! おい、やめろ! やめろぉおおお!!」
真っ暗な空間にユーリの声が響く。
人間の肉が抉れる音が、骨が砕ける音が、ぶつ切りにされる音が、踏み潰される音が。悲鳴と嗚咽と吐瀉物を撒き散らす音が。
響いていく。
悪魔は嗤う。
ユーリの魂をぐしゃぐしゃに砕いて、中身を啜って。
『美味しい……。何も味付けしてないから不安だったけど、やっぱり、ユーリってば私の好みにピッタリ!』





