八十二頁目
ユーリの屋敷は、ローレンツが手配した兵士たちによって守られていた。王城での時と同じく、入り口で止められる。門を守る兵士ふたりはどことなく疲れた顔をしていた。おそらく人手不足で長時間ここにいるのだろう。
Dが口を開くより先に、麗筆が一歩進み出てそっと左手を上げた。その指には、Dが見たことのない印章指輪が嵌っていた。
「通らせていただきますね。ご苦労さまです」
「はっ。お気遣いありがとうございます」
すんなりと開かれた門に、Dは驚きを隠せない。ふたりの兵士から離れてから、麗筆の服の袖をぐいぐい引っ張って問いただした。
「どういうこと? ねぇっ! 私、お城ですっごく苦労したのに!」
「どういうこと、とは? ……ああ! ローレンツに指輪をもらったんですよ。これがあれば城でもどこでも、ある程度のところは入れますし、お店での買い物も融通を利かせてくれるのです」
「いつの間に〜〜」
「頼んだら、ふたつ返事でくれましたけど」
「……麗筆ってさぁ、ほんとに男をたらしこむのが上手いよねぇ」
「はっはっは。人聞きの悪い言い方やめてください」
そんな掛け合いをしながらもふたりは屋敷の中に入り、女の啜り泣く声や金切り声が間断なく聞こえてくる廊下を進んでいく。どうやらローレンツは、本当に表にただ人を立てて情報の漏洩を封じただけで、中のことまで対処が回らなかったようである。
「なんとも。ひどい有り様ですねぇ」
「ユーリの趣味、いいでしょ」
「ぼくからあえて言うことは何もありません。それより、ユリアの部屋はどこです、D」
「こっちこっち〜」
Dの案内で麗筆が入った部屋には、豪華な天蓋つきの寝台に横たわる無気力そうな女がいた。その肌は病的に白く、表情の抜け落ちた美貌はまるでアメシストの瞳を嵌め込んだ人形のようだ。うねり広がる白金の髪がシーツに波を描いている。泡のようなレースに身を包んだ彼女は芸術作品のようだった。
彼女をより痛々しく見せているのは、その足首に嵌められた無骨な鉄の輪と、今にもはちきれそうなほどに膨らんだその腹だ。
「ユリアさん。ユリアさん、大丈夫? 私のこと、覚えてる?」
「…………」
「あやや。今はあんまり具合良くないみたい」
ユリアはDの方を見もしなかった。
ぼんやりとどこか遠くを見つめていた。
「ぼくたちに必要なのは赤ん坊だけです。事情を話して説得する手間が省けたと思いましょう」
「わぁい、悪者のセリフ~」
「泣き叫ばれるの、嫌いなんです」
ユーリとまるっきり同じセリフを吐きながら、麗筆は術を展開して子どもを取り上げる準備を始めた。部屋を清め、お湯を沸かし、その辺の調度品から赤ん坊をくるむための布と持ち運ぶためのカゴを作り出す。
「せっかくの王の誕生だというのに、ここにふたりしかいないのが惜しまれますね。とはいえ、この世界には最初からひとり欠けている。ぼくと貴女、ふたりでちょうど良かったのかもしれません」
「何の話?」
「いいえ。なんでもない、ただの昔話ですよ。さあ、出ていらっしゃい、宝珠に選ばれし子。栄光を敷く者よ。汝、健やかであれ」
麗筆がユリアの腹に手をかざすと、ほんわりとした光に包まれた裸の赤ん坊が浮かび上がってきた。まるで最初から、母親の体の陰に隠れて見えていなかっただけというような自然な様子で。麗筆が祝福の言葉を紡ぐと、Dが横から口を出した。
「あと、強く、賢く、かっこよく! 女の子泣かせの王子さまに育ってね!」
「D!」
「え、なに? ダメだった?」
「あああああ……。マティアスに怒られたら、ぼく、貴女を恨みますからね!」
淡い光が消えていく。
麗筆の手許にはただの赤ん坊がちんまりと鎮座していた。その男の子は鼻をむずむずさせると、火がついたように泣きだした。
「あっ、泣いちゃった」
「D、布!」
「はいはい」
麗筆は用意してあった湯を張った盥に赤ん坊をそっと入れていく。
子どもの泣き声に刺激されたか、トランス状態から覚めたユリアが平らになった腹を抱いて悲鳴を上げた。
「あっ、あああっ!? あああああ!」
「あ、ユリアさんも起きた」
「寝ていなさい」
「……あ」
麗筆がサッと左手を振ると、ユリアは糸の切れた操り人形のようにベッドに崩れ落ちた。Dが駆けよって無理のない姿勢に直してやる。ユリアにはまったくもって容赦がない麗筆だった。
産湯で汚れを落とされ、柔らかい布で余計な水分を拭き取られた男の子は、ユリアよりも少し色の濃い黄金色の髪をしていた。さっそく物欲しげに口を動かしている赤ん坊の口に指を宛がいつつ麗筆が言う。
「この子には、早急に乳母が必要です。早くマティアスに届けましょう」
「でも、麗筆の指を美味しそうに吸ってるよ? 麗筆、母乳でも出るの?」
「……あれだけ嫌ってるくせに、言うことは同じなんですね」
「なんのこと?」
ここであの浮浪児たちの王様の名前を持ち出すと、Dの機嫌が悪くなることは明らかだったので、麗筆は言葉を濁した。
「なんでもありませんよ。さあ、行きましょうか」
「ユリアさんはどうするの? 赤ちゃん、いきなりいなくなっちゃったら、また泣くんじゃない?」
「泣く? どうしてです? だって、邪魔なものがなくなったんですよ? 普通なら喜ぶんじゃないですか?」
麗筆はきょとんとしている。
まったくもって本心からそう言っているようだ。
「あのね~、女心はもっと複雑だと思うの。確かに、ユリアさんにとっては望んでない妊娠だったし、邪魔なのも事実だけど、でも、このまま取り上げて行ったら逆に、『返して!』って追っかけてくるかもしれないよ」
「……まったく理解できません」
「だろうね~」
実際に追いかけてくるユリアの姿を想像したのか、麗筆は難しい顔になった。
しかし、おくるみに包まれた赤ん坊を抱いて指を吸わせながらなのでまったくきまらない。
「んもう、赤ちゃんこっちチョーダイ!」
「え?」
「ユリアさんの辛い記憶、消してあげなよ。そしたら、犯罪者さんたちにしたことだって、『このためだったんです~』って言い訳できるでしょ? 麗筆の趣味のために実験動物にしたんじゃないって、表向きは信じてもらえるかもしれないよ」
「D……貴女、頭いいですね!」
麗筆は無邪気に笑った。
「そうと決まれば、もう、この屋敷にいる全員の記憶を塗り替えておきましょう。ついでに体も健康だったときの状態に戻して……」
「待って。ユリアさん、もう二年以上行方不明だったんだよ、その間のことどんな風にこじつけるの?」
ユーリによる虐待と凌辱の記憶をなかったことにするとして、どうして家族のもとに帰れなかったのか、その理由が必要になる。それをDは言っているのだった。
「そうですねぇ……。あれです、妖精郷にでも迷い込んだことにしましょう!」
「え……」
さすがにそれは無理があると思うDだった。





