七十四頁目
「グリちゃん! 大きくなって……!」
「何ちゃんだぁ? 貴様知ってるのか、あの化け物を!」
「あ、いえ……知らない子です……」
ローレンツに詰め寄られ、麗筆は明後日の方を向いた。しかし、先程はまるで我が子にしばらく会っていなかった母親のような物言いをしていた手前、誤魔化しきれる自信はなかった。そしてもちろん、ローレンツはそんな嘘には騙されない。
「やはり貴様のなんじゃないか、あの化け物は! まったく! ……また雰囲気が変わったな。それで結局、貴様はどちら側なんだ、レイヒ」
「それはもちろん、マティアス陛下の側、ですよ……」
「フン! 御託はいい、あの化け物に私の部下までやられそうなんだ、さっさと始末してこい!」
「始末だなんて! あ、や、すぐに何とかします……」
ローレンツに睨まれ、麗筆はすごすごと引き下がった。
麗筆がグリちゃんと呼ぶこの異界の腐肉喰らいは、熊ほどの大きさから今や、こんもりと盛り上がった小さめの山にまで育っていた。
ヌラヌラと光を照り返す粘液に覆われた、灰色と茶褐色の入り混じった斑色の体表は、甲殻類か節足動物かといった趣きがある。体の裏側には数え切れないほどの脚、そして甲羅の隙間からは蝿取り蛙の舌の様に素早く伸びる触手。
麗筆の元を離れた腐肉喰らいは、もう落ちている食べ物を拾って食べるだけでは満足しなくなっていた。“彼”は大きくなり、学習した。狩人になったのだ。
地中から多くのエサの気配を追っていた腐肉喰らいは、ユーリ軍の最後尾を地面ごと吹き飛ばして現れた。そして一瞬のうちに兵士を何人か絡め取ると、その体を絞り上げ絶命させた。
絶叫が響き渡る。
兵士たちは恐慌状態に陥った。
逃げる者、立ち向かう者、魅入られたように動けぬ者。嘔吐、気絶、失禁、自傷。
泣き喚き、叫び声を上げ、けたたましく笑い、怒鳴る。
私兵とて彼らも元は国に認められた本物の軍人、これまでに幾度も戦いは経験し、魔物の相手も数え切れないくらいしてきた。だが、その彼らを以てしてもこの化け物は格が違った。
大きさが違う。
圧が違う。
近くにいるだけで息ができなくなっていく。視界がぐにゃりと歪む。
彼らにとって幸運だったのは、腐肉喰らいが最初の獲物を食べるのに手間取り、すぐには動かなかったことだろう。せっかく全身の骨を砕いて調理したというのに、鎧と言う名の硬い殻が邪魔していたのだ。
啜り食べられている同族を見て、嫌悪感を催さない人間は少ない。
もう敵も味方もなかった。戦意を喪失していない者は皆、武器を持って奴に切り込んでいった。だが、射った矢も投げた手斧も、その表面に傷をつけることすら敵わない。絶望が彼らの心に覆いかぶさっていった。ユーリの心にも。
「くそっ、なんなんだ、コイツは……!」
ユーリは叫んだ。
握りしめた飾り布についていたコインが音を立てる。苛立ちの音だ。
(どうする? どうする……くそっ!)
生意気な探索者は振り払った、後は煩わしい人狼を部下と一緒に始末し、父親であるローレンツを殺し、ディーがあの“魔女”を殺せばそれで済む話だったのだ。
だが、化け物の出現で予定が狂った。
情報の流出を防ぐため、皆殺しが最低条件だったのに、これでは敵が逃げ出してもわからなくなってしまうではないか!
「計画がメチャクチャだ!」
「殿下、こちらへ。逃げましょう」
「馬鹿言うな! お前らそれでも軍人か!? ここで逃げても建て直しなんかきかないんだよ、せめて親父の首だけでも獲ってきてから言え!」
「し、しかし、殿下……」
「うるさい! いいから言われたとおりやれ!」
「しかし殿下、ヤツが動き出します!」
「……なに?」
部下の注進通り、人間の死体を食べ終えた化け物は次の獲物を狩るべく動き出したところだった。触手をウネウネとくねらせ、緩慢な動きでその向きを変えていく。腐肉喰らいの甲殻がギチギチと軋む不気味な音がユーリの心を引っ掻いた。
「なんで、こっちを見てる……!」
「わかりません! 早く行きましょう!」
「部下を集めろ、退く!」
林の方へ足早に移動しながら、ユーリの副官が笛を吹く。生き残った部下ももう、ユーリにとっては肉の盾としての価値しかなかったが、それでもないよりは断然マシだった。
(どいつもこいつも役に立たん……。あのバケモノもどうせなら親父をエサにしてくれればいいものを!)
怒りと憎悪の炎を燃やしながら、ユーリは頭の中で次に打つべき手を考えていた。どうにかここを切り抜け、誰よりも早く王都へたどり着くことができればあるいは、といったところだ。
(まだだ……あれさえあれば、まだどうにかできる。ジジイの首を獲り、城を落とせば! 親父がここにいる今が逆にチャンスだと考えろ! 山を下りれば馬を待たせてあるはず、この混乱に乗じてオレだけでも逃げ延びる!)
ショック状態から立ち直ったユーリはもう冷静そのものだった。駄目になった計画は、その部分を未練なく削ぎ落し、最低限の勝利条件にのみ拘ってプランを再建していく。失ったものは多く、手痛い損失もあった。玉座を手に入れてもそこから先がどうなるかはまだわからない。それでも、まだ勝ち筋は見えていた。
(オレが、勝者だ……!)
その背を、追うようにして轟音がすべてを覆いつくした。





