七十三頁目
ディーは焦っていた。
【火条】【招雷】【突風】【地棘】、【穿水】に【雷撃】、【瞬光】【奪明】……頭の中に浮かぶ数々の術を以てしても、たかが少女ひとりを殺せない。
しかも相手は彼とは違い、黒術だけしか使っていないにも関わらず、だ。
一方的に嬲るつもりだった空中戦も彼女の方が上手だった。踊るように滑らかな、緩急のある動きに翻弄される。右に左に、上に下に。
炎の弾を右手に保持し、飛び回る少女を目で追う。だが、耳障りな笑い声と目まぐるしい動きに苛つき集中ができない。かと思うと、不意に足を引っ張られた。バランスが崩れる。
「!!」
引きずり落とされるディー。その体を何本もの黒い刃のような物が切り裂く。【障壁】に守られている範囲外からの攻撃に、ディーの口からは痛みと困惑の呻き声が漏れ出た。
「きひひひひ!」
「ぐ……このっ! 絡みつけ【影縛】!」
「ヤダ、よ〜!」
ディーの影からペラペラした紙のような真っ黒い手が伸びる。だが、Dはそれをいとも簡単に切断した。同じ黒術なら、やはり彼女に利がある。ディーは歯噛みした。
「甘い甘い甘い甘い〜! もう全然ダメ、てんでダメ、ダメダメダメ〜〜!」
「……!」
「麗筆の本気はこんなものじゃないんだよ? 今は私と入れ替わって、記憶を留めておいた頁が水に濡れて、ぜ〜んぶ忘れちゃったから、こんなに弱っちくなってるだけ。でも、大丈夫! 私がちゃ〜んと思い出させてあげるからね〜!」
ディーの周りをぴゅんぴゅん飛び回りながらDが言う。
「どこまでも、邪魔を……!」
「んっふっふ〜! その顔、か〜わい〜い!」
悔しげに歪むディーの表情に、Dの嗜虐心は満たされていく。今のディーの攻撃は、麗筆である彼とは違ってすべてが素直で一直線だ。そもそも、本物の姿を見せている時点で生易しい。
青年魔術師の放つ【雷撃】も、Dの動きを止めようとする【影縛】も、死角から突き上げてくる【地棘】も、そのすべてをDはねじ曲げ、跳ね返し、【障壁】をぶつけて相殺していく。
ディーは叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
援護もなく、魔力は尽きる寸前、自分の要と言える呪文書は彼女の手の中……追い詰められていたのだ。
(どうして……! 人間なんて、私の敵ではないはずなのに! なぜ彼女には勝てない!)
苛立ちは恐怖へと簡単に変わる。
「逃げてしまおうか」と、あまりにも愚かで短絡的で刹那的な考えがディーの頭を過ぎったとき。斜め下から飛んできた槍のような物が彼を貫いた。手首に、足首に、まるで罪人を処刑架に掛けるようにディーの体を空中に縫い止める。
「ぐぶっ……!」
「つ〜かま〜えた〜〜」
歌うように。
三日月の形に唇を吊り上げたDが、ディーの目の前に静止して嗤う。
「っ!」
「きゃはっ」
最後の力を振り絞って投げつけたエネルギーの塊も、Dは一瞬だけ体を陽炎のように揺らめかせて避けた。
「ふふっ、怖い? ねえ、怖い? 今の貴方はただの魔力の塊だものね。その血の一滴一滴が魔法石になるの。知ってた? 自分が魔力を垂れ流しにしてるってこと」
「……何が、言いたいのです」
「その体を失ったら、もうどこにも行けないってコト。ほら見て、もう指先がなくなってる」
「っ!?」
ディーはその言葉に驚愕した。気怠く重い体を動かし、ぎこちなく首を回して見てみれば、確かに指が何本か落ちていた。
「そ、そんな……」
「さっきからどんどん自分の体がなくなってることに気づいてなかったの?」
「あ、ああ……あああ……!」
ピシリ、とディーの白い貌にヒビが走った。
その四肢からガクリと力が抜ける。
「麗筆!」
Dが跳躍してディーの胸に飛び込んでくる。彼にはもう、それに抵抗するすべはなく、ただその抱擁を受け入れた。
「……元に戻って。私の、麗筆」
「?」
そっと重ねられた唇に、ディーは目を見開いた。
瞬間、さあっと風が渡る。
麗筆の黒曜石の瞳に理知の光が戻った。それを取り戻させた少女は夢見る乙女のように頬を赤らめ、キスの余韻に浸っている。いや、それどころか麗筆の頬を手挟み、舌を入れてさらに深く口づけを貪ろうとしていた。夢見る乙女が台無しだ。
「…………」
だが、麗筆はDを押しのけたりはしなかった。逆にDを押さえつけてその舌を……いや、魔力を吸い上げた。
「ん〜〜〜〜!?」
ジタバタするD。
しかし体格差で麗筆の方が勝った。
「ふうっ、これくらいでいいでしょう」
満足するまで魔力を吸うと、麗筆はやっとDの体を離した。
スルスルと高度を下げていき、地面にDを投げ捨てた。ベシャリと仰向けに倒れるD。
「ひどい〜〜〜〜〜」
「何のことやら。調子に乗るからいけないんですよ、D」
「うえ〜〜〜ん!」
肩をすくめた麗筆は、右手を払って腰まであった自分の髪をザッと切り捨てた。ちょいちょいと手直しをして、服装は違えどいつもの髪型になる。
「それにしても、サッパリしました! 頭もスッキリして生まれ変わった気分です! 体まで軽い気がします」
「そりゃあね〜〜〜。データがほとんど飛んだみたいなもんだもん……」
「え、何が飛ぶんですって?」
「何でもな〜い」
地面に手足を投げ出したDはまだ動けない。転がったままで麗筆を見上げてふて腐れる。
「貴女のおかげで、ここまでの経緯も把握できました。よくやってくれましたね、D」
「……本当にそう思ってるなら、せめて助け起こしてよ〜、麗筆ぅ」
「嫌です」
青年魔術師は笑顔でバッサリ却下した。
と、そこへ真っ青な顔をしたローレンツが怒鳴り込んできた。兜は脱げ、板金鎧の胸元はへこみ、剣はなく、と満身創痍の有り様だ。
「何してる! は、早く、あれを何とかしてくれ!!」
「はい〜?」
麗筆はローレンツの指差した方向に目をやった。そこには、小さな山のような大きさの、ヌラヌラした節足動物のようなわけのわからない巨大なナニカが暴れまわっていた。
麗筆は思わず歓声を上げていた。





