六十九頁目
セルビノは荷物を確認すると、よしと小さく呟いて立ち上がった。
昨夜のユーリの演説は、酒の引いた頭にまだ熱を持って残っている。この襲撃を成功させれば、彼は晴れて権力者側、つまり今までの消費される側ではなくて消費する側、使い捨てにする側の人間になれるのだ。
しかもセルビノは今回の計画の立役者、なくてはならない人間だ。すべてが彼の双肩にかかっている。そう思うと手の震えが止まらなかった。
(ディーの奴に魂を売り渡さなくても良くなったかもな……。今日、この襲撃だけ、ここさえ乗り切れば……!)
そんなセルビノの心中を知ってか知らずか、ディーがまるで犬のようにか細く鳴いた。
「なんだよ、ディー。心配すんな、魔力切れなんてしねぇようにソーマの葉もたっくさん持ってるぜ? それに、この襲撃が成功すりゃ、魂だって食い放題だぞ。いいことずくめじゃねぇか、な?」
『私との契約を成立させてください、セルビノ』
しかし、ディーの返事はにべもなかった。
呪文書の白い頁の表面に滲んだインクが文字を象どる。
「ま、まあまあ、落ち着けよ、ディー。契約はする、ちゃんと魂はやるって。この襲撃が成功したら、な。何も今すぐに必要ってわけじゃないんだろ?」
『いいえ、今すぐにです』
「なっ……」
セルビノの額に嫌な汗が浮かんで流れ落ちていく。
真っ黒な、深い井戸の底のような瞳がじっとこちらを覗き込んでいた。
(チクショウ、なんで……!)
見透かされていたのだろうか。
逃げ切れると思っていた。だが、この真っ白い魔物はどうやら彼を逃がすつもりなどないようだった。
「な、なぁ、ディー。確かに今まで、仮契約のままで色々と力を使わせてきたよ、それは認める。けどよぉ、俺は別にその力で良い目を見ちゃいない、今まではな。だから、どうだ、この襲撃に成功したら他の奴の魂をやるよ。それこそ、好きなだけ。そんで、俺と一緒に贅沢の限りを尽くして楽しもうぜ? な?」
セルビノの甘言に対する返事はなかった。
呪文書と無表情のディーを見比べ、セルビノは顔色をなくしたままさらに言い募る。
「悪かったと思ってるよ! リーナのことだって、魔法の実演で魔力が切れた時だって、痛かったのも苦しかったのもアンタだけだ。俺は、かばってやりもしなかった……身を挺してまで、アンタのために動いたりはしなかったもんなぁ。けどよ、俺だって……俺だって何とかしてやりたかったけど、リーナにゃ逆らえねぇし、ユーリの大将にだって逆らえねぇんだよ!」
苦い表情でそう絞り出したセルビノは、荷物も何もかも放り出してディーの目の前に膝をついた。茫洋と立っている白い魔物の手を取り、縋るように見上げる。
「なぁ、頼むよ、ディー。今さら力を貸さねぇなんて言わないでくれよぉ。こんな俺でも、魂を食われるのは嫌なんだ……。他の奴ならどうなったって構わねぇ、むしろ手伝えってんなら喜んでアンタのために魂を見繕ってくるからよぉ、頼む……、見逃してくれ!」
まるで人形のように無表情だった青年は、にこりと微笑んだ。
セルビノの、無精髭が生えたざらついた頬に、しっとりとした白魚のような指が触れる。握り返しただけで傷つけてしまいそうなそれを、セルビノは溺れる者が掴む藁のように両手で握りしめた。
さらりと。
ディーの長い髪が落ちる音がする。
「私が欲しいのは貴方」
「ディー、アンタ、声が……」
「貴方の魂を食べたい」
「っ!」
耳許にそう吹き込み、ディーはそのままセルビノの耳たぶを甘く歯で挟んだ。それは味見だったのかもしれない。セルビノはたまらず尻餅をつくようにして後ろへ逃れた。
そのまま走り去りたかったが、それはカーンが許さない。
「おいおいセルビノ、どこへ行こうってんだ? ユーリの大将がお待ちだぞ」
「う、うぅ……」
「全部お前にかかってんだからな、絶対成功させろよ? じゃなきゃ、ぶっ殺す!」
「へ、へへ……わかってやすよ……」
カーンに肩を抱かれて力なく笑うセルビノの前に、呪文書を持ったディーが進み出る。その笑みに、逃げられなくなったことを悟るセルビノだった。
そこへユーリの声がかかる。
「もうすぐオレの軍隊が着く、一緒に来たい奴は今来い。酒が抜けてない奴は後からでいい」
確かに、大人数が移動してくる音が外から聞こえてきていた。隠匿されたこの場所へやって来られるのは道を知っている味方だけだ。
ディーを伴ったセルビノを連れ、ユーリは根城を出ていく。愛用の武器である強化弓を手に、足を大きく踏み出して軽やかに、肩で風切る姿は自信に満ち溢れていた。
カーンを始め何人かも見送りに出た。岩の割れ目を縫うようにして、蟻のように列を作り行進する。崖を登りきったとき、軍隊は目前まで迫ってきていたが、少し様子が違っていた。
百メートルほど先、揃いの鎧一式に身を包んで行儀よく進んできていた軍隊は、なぜかケテル王国の正規軍の旗を掲げていた。その軍の先頭に立つ鎧甲冑の人物は、ユーリもよく知る人物だった。
「親父……どうしてここに!」
「お前の部下がすべて吐いた、もう終わりだ」
「チッ! 役立たずどもめ!」
ユーリは苦々しげに吐き捨てた。
「ユリウス! お前を、ここで討つ! ……親としてせめてもの情けだ、投降しろ、そうすれば苦しませずに逝かせてやる」
「ハッ、馬鹿にしやがって……! 」
狼狽える盗賊たちを前に、ユーリは憎悪を滾らせた顔で強化弓を構えた。
「やれ、ディー! オレを助けろ!」
叫ぶが早いか、ユーリの手は滑らかに、目にも留まらぬ速さで矢をつがえ、父親が率いる軍の旗を射抜いた。その衝撃で軍旗を支えていた兵士ごとポールが倒れる。
宣戦布告だ。





