六十五頁目
Dは暗闇の中で目を覚ました。
療術士がかけていた眠りの術が解けたのだ。寝台に横たわったままで、Dは人狼に問いかけた。
「ポチさん、今は、いつ?」
「……我が起きていたことに気付いていたか。今はちょうど真夜中だな。辛うじて日は跨いでいない」
「……そう。ねぇ、こっちに、来て?」
その声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。
人狼はどうして良いかわからず、座り込んでいた壁際で身動ぎした。
「いいもん。来てくれないなら、私が行くから」
「お、おい、D」
「大丈夫だよ」
まだフラフラの体のまま、Dは寝台から滑るようにして下りると素肌にシーツを巻きつけて人狼のもとへ歩き始めた。
「きゃっ」
「あ、おい! ……気をつけろ」
「ごめんなさぁい」
小さな体に纏わせただけのシーツは足許に絡みついて邪魔をする。ベッドから人狼まで、そのほんの少しの距離をDは歩けなかった。
シーツを踏んづけて躓き、小さな悲鳴を上げて床へ身を投げだしてしまった少女を、人狼は大きな腕を伸ばして即座に受け止める。
おかげでDは痛い思いをせずにすんだ。
Dはそのまま人狼に抱きついて頬を擦り寄せる。
「ポチさぁん!」
「……こら」
「だあってぇ〜」
やんわり押し退けようとする手に逆らって、Dはさらにきつく人狼に抱きしめた。甘い声を上げて茶化しているが、その体は震えていた。
「ねぇ、ポチさん。抱いて」
「……何を言っている。離れろ」
「やだっ! お願い、ポチさん、意地悪しないで」
「なっ、意地悪とはなんだ、意地悪とは」
「だって……私、怖いの。今はひとりでいたくない、慰めてほしいの……。いいじゃない、無理にポチさんの心を操って私のものにしようとしてるわけじゃないんだから。ただ、お願いしてるだけだよ……」
期待に潤んだサファイアブルーが人狼の琥珀色の瞳を見上げている。夜の闇に浮かび上がる白皙の肌と真珠色の髪。匂い立つ少女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ねぇ、いいでしょう?」
「……だめだ」
「どうして! いいじゃない、ポチさんだって気持ちイイし、私も満足するし!」
「大怪我してさっきまで寝込んでいたんだ、まだ熱があるんだろう。だからそんな妙なことを言い出すんだ」
「違うもん!」
熱があるためのうわ言だろうと取り合わない人狼に、Dは大きな声を上げた。小さな手は人狼の藍色の毛をギュッと握り込み、人狼は詰まった息を飲み込む。
「違うよ、ポチさん。全然違う! 私、死にかけたんだよ? 真っ暗な水の中で、溺れそうになって、もがいて、もがいて……そんなときに麗筆の魔力が流れ込んできたの。だから私、必死でそれに縋りついたの」
「…………」
「そのおかげでこっちに戻ってこられたのに、麗筆がいないの……。私ひとりじゃ、やっぱり無理! 無理なのに、麗筆が、いないの! 怖い……どうしよう、怖いの……」
Dは唇を噛み締めていた。
嗚咽を堪らえようとして薄い肩が跳ね上がっている。それでも涙の堰は決壊して、パタパタっと雫が丸い頬を、顎を伝い落ちていった。
「もう、いい。抱きしめていてやるから、好きなだけ泣け」
「うっ……ふぇっ……!」
人狼はずり落ちるシーツをつまみ、不器用な手で少女の全身を包みこむように巻きつけた。そのままDを抱きかかえ、啜り泣くその背中をポンポンと叩いてやる。
「大丈夫だ」
「うぇ〜〜〜ん、ポチさぁん!!」
わんわん泣き出したDはやがて泣き疲れたのかそのまま寝てしまった。寝息を立てながらもまだ時折しゃくり上げる年相応の少女の姿に、人狼はまるで自分が親になったような気持ちで薄く笑んだ。麗筆と同じ顔でいながら、何もかもまったく似ていない少女だ。
(魔術や死後の世界のことは我にはサッパリだが、傷が元で昏睡しているときに妙な夢でも見たのかもしれない。夢は魂に一番深く繋がる場所だと言うし……)
人狼もまた微睡みの中で考えていた。
(Dも確かに強いのに違いないのだろうが、あいつの強さは段違いだ。そもそも、こんな傷は受けないだろう。あの強くて美しい女なら……)
人狼の脳裏には背格好がDとそっくりの少女の姿があった。それは“災厄”の名を持つ最強の魔術師、麗筆の仮の姿だ。冷たい黒の瞳に尊大な態度と、それに見合った圧倒的な魔力。
あの麗筆なら、どんな敵にも遅れを取るようなことはないだろうと人狼は思った。それなのに帰って来ないということは、それなりの事情があるのだろう。体が入れ替わっている今、血の匂いでは辿ることができない。
それでも、「番はまだ死んではいない」と魂が訴えかけてくる。
連綿と受け継がれてきたシン族の魂が。
Dも同じように言っていた。
「麗筆は死んでない」と。
Dの本体は魔術の呪文書だ、今は麗筆と共にあるそれが、もし、損壊するようなことが起これば流石にわかるという。彼女が安定している今、麗筆の命に危険は迫っていないということになる。
(焦っても仕方がない。今は態勢を整えるべきときだ)
壁に背を預けた人狼は、Dを胸に抱きながら喉をぐっと反らした。細く長く、遠い故郷へ向けて吠える。その声は山の木々の間を抜けていった。
「さっきからうるさいですわ!?」
「……すまん」
オリーヴの叱咤が飛んでくる。
そういえば、小さな家だったなと人狼は気がついた。つまり、すべて筒抜けだったということだ。





