五十八頁目
城の内部はひっそりとしていた。石床の上に敷き詰められた深緑の絨毯を踏みしめて歩きながら、Dはきょろきょろと物珍しそうに辺りを見回す。
「すごく静か……誰もいないみたい」
その頃、ケテルの王マティアスはとろとろとした微睡みの中にいた。昨夜急な発作で倒れ一時期危険な状態だったが、今は薬で安定している。
年齢の割りに壮健であったからこのようなことは今まで一度もなかったのだが、やはり年々弱ってきているということなのだろうというのが周囲の者の総意だった。
この件で、城の療術士だけでなく王都中から医師や術士が掻き集められたのだが、とはいえ、直接マティアスに触れられる者はほんのひと握りで、後の者は患者が誰かも知らされずに又聞きの情報から知恵を絞るだけだ。それでも聡い者は誰の治療が行われているのかを推測し、賢くも口には出さなかった。
今は急ぎ隣国へ使者を遣って王妃シンティアを呼び戻そうとしているところだ。
「こんにちは、王さま!」
王の寝室まで入り込んだDは、イビキのような詰まった息を立てるマティアスを覗き込んだ。
「あのね〜、今日は、マティアス陛下に大切な用件があって来たんだ〜。お話ししてもいいですか~?」
もちろん応えがあるはずもない。Dはひとりウンウンと頷くと、集中して詠唱を始めた。
「沈め沈め……奥深くまで。肉の檻に閉じ籠めよ。緒よ、緒よ、結べ。堅く結べ。汝は未だ旅立ちの時に非ずや。いさ、【魂緒結】!」
Dが“力ある言葉”を言うが早いか、横たわるマティアスの体が跳ね、絶叫が迸った。しかもそれは一度ではなく、何度も何度もマティアスは苦しげに頭を上下させ、腕を振り回した。
「んふふ。抜けかかってた魂を繋ぎ止めたんですよ~。まぁ、そのためには苦痛を与えて魂に生を自覚させなくっちゃいけないから、苦しいんだけど。
わ〜〜、すご〜〜〜い! そんなことが可能なの〜?
えっへん、これは私だからこそ出来る難しい術なんだよ〜。
そうなんだ〜、さっすがDちゃんだね〜〜!
それほどでも〜〜!
……さぁて、遊びはおしまい! 良かったね、術は成功で〜〜す! 陛下にはお抱えの白術士がたくさんいるから、あと三年くらいは生きられるでしょ~」
激痛に目を覚ましたマティアスは、咳き込みながらも起き上がった。介助するDの手から水の入ったカップを受け取り、未だ震える手でそれを口に運んだ。
「そなたは、いったい……」
「こんにちは、はじめまして! 私は麗筆の有能な秘書で代理人のすーぱー美少女、Dちゃんですっ!」
「レイヒの……」
「はぁい、そうで〜〜す。あのね、王さま。寝てる貴方を起こしてでも、伝えないといけない重大なことがあるんです」
「ふむ……」
マティアスは髭をしごいてしばし考え込む様子を見せた。寝間着姿であっても、その威厳は衰えない。布団の上にかけてあったマントを羽織れば、もうそこは謁見の間のようでさえある。
「そうだな、聞かせてくれるとありがたい。D殿」
「やですよぅ、Dちゃんでいいですってばぁ~」
Dはしなを作ってふざけていたが、それをハタと止めて真剣な表情を作った。
「ケテル国王マティアス、またひとり、貴方の血に連なる赤子が産まれようとしています。その者こそが次代の王。貴方にはそれを養育する義務があります」
「儂は聞いておらぬな。誰の子だ」
「ローレンツの子、ユリウス。その子の母親は、ローレンツの子、ユリア……」
「何じゃと?」
Dは淡々と事実だけを伝えた。マティアスにとって、かなり衝撃的なことだったに違いない。額を抑えて唸ってしまった彼を、Dが側で支えた。
「それは、確かなことなのか……」
「うん。だって、ユーリに拐われて連れて行かれた場所で、ユリアさんに直接聞いたから」
「…………」
「あのね、ユーリをこれ以上放っておくのはダメだと思うよ。表向きの理由は何だっていいけど、彼にはもう、舞台を降りてもらわないと。私の言う意味、わかるでしょう?」
それは死の宣告だった。マティアスは深く頷いた。たとえ親族だろうが、断罪すべき者に対しては容赦することなどできない。そうすることが王としての彼の務めだった。
「そこまでそなたに任せて良いものか……」
「私はユリウスとは因縁があるの。だから、むしろ任せてほしいかな! もし周りの目が気になるというなら、探索者としての私に依頼をくださいな。Sランク探索者の美少女黒術士、Dちゃんに!」
「……ああ、そうしよう」
マティアスは感謝の微笑みを浮かべた。王の軍を動かせば王太子の息子であるユリウスを排除するための正当な理由が必要になってくる。ユリウスの方とて、処刑されると知りながら捕縛に甘んじることなどありえないだろう。彼が死に物狂いで抵抗すれば、ユリウスの私兵と国王軍、その両方に大きな犠牲が出ることは間違いない。
Dの言葉に含まれていた「表向きの理由は何でも良い」とはつまり、すべてを秘したまま、ユリウスの名誉を損なわずに葬ることも選択肢に入れられるということだ。
彼を可愛がっていたシンティア妃やローレンツ、ユリウスの産みの母の感情を慮ると、そうできることが救いになるかもしれない。だからこそマティアスは感謝していた。
「そなたの気持ちをありがたく思う」
「や〜ん、お気になさらないでくださいな! 麗筆も私も、細かいことが苦手なだけだもん。麗筆は特に、ね! それじゃあ、もどかしいとは思いますが、私の報告をお待ちくださいませ。んふふ、失礼しまぁ~す!」
そう含み笑いをして、Dはスカートの裾をつまんで淑女の礼。そして、外へ通じている窓を開けるとそのままその身を躍らせた。
「おお……」
マティアスが目を丸くする。そのとき、王の寝室の外に鎧帷子をがちゃつかせる音が近づいてきて、大きく扉が叩かれた。
「父上、ご無事ですか! ええい、早くここを開けろ!」
「殿下、王は今、お休みになっておられますので!」
「うるさい! 確認させろ!」
ローレンツと療術師のやり取りにマティアスはフッと笑い、Dの去った窓をもう一度見やると、彼らのために扉を開けに行くことにした。





