三十三頁目
「だ、誰か助けてくれ……化け物……」
「誰が化け物ですか」
「っがぁっ!?」
黒のレースに身を包んだ少女が呆れたようにそう言い、右手を軽く振ると、重たげな贅肉を全身に纏っていた男が吹き飛んだ。白壁に頭から激突し、赤い筋を刷いて床に沈む。その醜い全裸の男が不快な音を立てることは二度となかった。
床に落ちているのは何もその男だけではない。
ここまで逃げてきた男たちは、ひとり、またひとりと屠られ斃れていった。脱落者たちの骸は今の肥満漢のように比較的綺麗なものから、熟れきったトマトのように内側からぐずぐずに溶かされ皮しか残らなかった者や、逆に全身の皮を剥がれて赤身の肉を曝け出すはめになった者もいた。
それらの死体は点々と、しかし孤児院の至る所に落ちている。転がっている。まだその惨劇の舞台に上っていない役者は二人――この孤児院の院長ゲアトとトリッシュである。
彼らはもう逃げ場のない三階奥の角部屋まで追い詰められていた。そこは子どもたちに授業をするための教室でもあった。隠れられそうな場所と言えば教壇くらいか。しかしそこに隠れられるのは大人であればひとりが限度だった。
院長ゲアトは……トリッシュを突き飛ばした。
「きゃっ! い、院長!? なにを……!」
「うるさい! さっさと向こうへ逃げろ! 相手は子どもなんだ、廊下ぐらい、すり抜けられるだろ!」
「そんな、ひど……」
「鬼ごっこは終わりましたか?」
「なっ!?」
「ひっ……!」
音もなく。
少女は佇んでいた。
教室の扉が開く音はしなかった。彼女のエナメルの靴が床を叩く音も。
美しい女と豊満な体を持つ男が、どちらも必死で四つん這いになり、机や椅子を倒しながら逃げる様は滑稽で笑いを誘う。だが、麗筆の瞳はただただ氷のように冷たかった。よそよそしい笑みを口の端に浮かべ、我先にと出口を目指す二人の後を追う。
「貴方がたで、最後です」
「ま、待て! 待ってくれ!」
院長の言葉に麗筆の手が止まる。
それを交渉の機会と取ったゲアトは、ふくふくしい指をこねくり回しつつ、麗筆に取り入ろうと下卑た笑みで猫なで声を出した。
「すまなかった! 君みたいなか弱い女の子を、あんな変態なんかの所へ送り込んだりして……。脅されていたんだ、何も、望んでやったことじゃない!」
「そう! そうなのよ……! 信じて、ディーちゃん!」
院長ゲアトの白々しい嘘にトリッシュも乗っかる。豊かな胸の前で細く美しい白魚のような指を組み合わせ、自分が見捨てた少女を懐柔しようと珠の涙を流してみせる。
ゲアトはさらに言葉を重ねた。
「許してくれ……罪は償う! 君は何が欲しい? 何が望みだ? 何だって買ってやるぞぉお!?」
「……では、死んでください」
「がぼごぉっ!?」
男の頭を覆うように突如として現れた水の球が男から言葉を奪った。苦しみ藻掻くゲアト。その歪んだ形相は凄まじいのひと言に尽きた。トリッシュが小さな悲鳴を上げる。
ゲアトの肺には空気の代わりに水が流れ込み、どうにか水球から逃れようと手で引っ掻くもその抵抗はまったく意味をなさない。彼自身の皮膚に傷を残すのみだ。
右へ、左へ、ゲアトはまるで踊るように体を揺らす。死の舞踏を彩る音楽は、彼自身の上げる醜い嗚咽のような音と、震えるトリッシュの歯が立てるカチカチという音。
「陸で溺れる気分はどうです? 苦しいでしょう? ……ぼくは、苦しかったですよ。だからこそ貴方にもそれを知って欲しかったのです」
死にゆく男に微笑みを向ける少女を、トリッシュは信じられないという面持ちで振り返った。
「なっ、何を言っているの!? あなたいったい、何なのよ! 何でこんなことをするの……!」
「なぜって? 貴女が送り出した子どもたちも、きっと同じことを思ったでしょうね」
「それは……!」
瞬間、トリッシュの脳裏をよぎったのは、子どもたちの無垢な笑顔と、先ほどまでの狂った宴の有り様だった。罪悪感に胸が痛む。だが彼女とて、そんなことを望んでいたわけではない。
「私の、せいじゃ、ない……」
唇が紡いだのは謝罪ではなく、己と己の行為を正当化する言葉だった。
「私のせいじゃないわ! だって知らなかったんだもの……仕方がなかったのよ! 悪いのは全部あいつら、私は悪くない!」
トリッシュは普段の優しげな聖女のような表情からは想像できないような卑屈な、しかし勝ち誇ったような笑みを見せた。白い喉がくくっと鳴る。
だが、麗筆は小首を傾げると無表情のまま問うた。
「でも、止めなかったのでしょう?」
「…………っ!?」
「最初は本当に知らなかったのでしょう。でも、その後も止めようとはしなかった。子どもたちがどんな目にあわされるか、知っていて加担したのでしょう? 子どもたちを売ったお金で美しさを買い、美食を貪り、贅沢をしたのでしょう?」
「それ、は…………ああっ!?」
再びトリッシュの目が泳ぐ。
思わず後退りしていた彼女は、椅子に足を取られてすっ転んだ。ガタン、と大きな音がする。
「待って……待って、違うの、それは……! お願い、許して……助けて! 何でもするから……! なんでも……ううっ……」
長い睫毛に縁取られた大きな瞳から、清らかな涙の粒が落ちていく。麗筆はふっと嘆息し、怯えながら泣くトリッシュの側へと近づいていった。
「ひいっ……!」
「まったく、しようがありませんね」
「ディー、ちゃん……!」
麗筆は無様にへたり込んでしまったトリッシュの目の前に膝をつき、その頬に触れた。まるで妹が泣く姉を慰めるかのごとく。愚かな女の目に希望が浮かぶ。
「彼らも懇願したのでしょう。そしてそれは叶わなかった」
「!?」
「彼らは貴女に恨み言も何も言えないまま死んでいったのですよ。貴女も同じ目にあえばわかるでしょう」
「嫌……いやぁ! 嫌よぉ……! 助けて、誰か! お願いよ、今度は間違えないからぁ! 心を入れ替えて子どもたちのために働くわ、だから……だから!!」
「ええ。ぜひそうしてください」
「あぁっ……!」
「来世でね」
「ぐがっ!? が……がが……ぐ……」
喜びもつかの間、全身を床から生えてきた棘に刺し貫かれ、トリッシュは苦しみの後に果てた。己を殺めた少女を呪いながら。





