三十一頁目~人狼の過去~
これは我が名を捨てる前の話だ。
我らシン族には掟がある。
それは、『戦いによって伴侶を得よ』というものだ。
それは我々にとって最後の通過儀礼であり、大抵は男が番にと見初めた女の家へ行き、家長と実際に戦ってその力を示した。
男女が互いに愛し合っていれば、その戦いは形式的な物で済まされることもあったし、逆に女が男を得ようと戦いを挑みかけるようなこともあった。
……我の場合は、また少し事情が違った。
一族を背負う長の初子であった我には、生まれた時から様々な責任があった。その内のひとつが良き番を得て子孫を為すことであるのは、人間のお前にも理解できるだろうか。
人間は番を選ぶとき、血筋や家柄を気にするという。我らの場合も、相手が誰の子であるかということは重要だ。だが、我のときはそう厳しく言われはしなかった。平和な時期だったのだ。
次の長になる者の『番の儀』では、一族すべての前で番となる相手に求婚し、それに異議を唱えた男たちと戦って勝たねばならない。まずは花嫁となる相手の家から戦える年齢の男たちが、それから他の男たちが名乗りを上げて挑み、戦う。
それは試練でもあり、祝福でもある。
我にはもう決めた相手がいた。
想いは告げていなかったが、それでも彼女以外には考えられなかった。
『番の儀』の訪れを一番待ちわびていたのは我だったかもしれない。そう、その日まではな。
儀式が始まり、皆の前で彼女の名を呼んだとき、我は誇らしかった。その日のために努力をしてきた、修練を積んだ。すべては彼女の心を掴むために。
拍手喝采の中、彼女はとても驚いた顔をしていた。
誰もが我たちを祝福してくれていた。形ばかりの異議、交わす拳はもちろん手抜きではなかったが笑顔にあふれていた。組み手を一通り終えれば肩を抱き合い叩き合ってまた次の相手へと向き合う。
だが、その中で、本気の殺意を向けてきた男がいた。
……我の、弟だった。
なぜ、ヤツがそうしてきたのか、訳も分からず戦いは始まった。段々と激しくなる攻防に、初めは笑って見ていた者たちもおかしいと思い始めたらしく、空気が変わった。
その頃には我も熱くなっていた。当たり前だ、あれだけの殺気をぶつけられ、互いに爪を突きつけ合って、冷静でいられるはずがない。
『なぜだっ』
問いかけても答えはなかった。
だが、この戦いだけは負けるわけにはいかなかった。誰にも邪魔はできない、大いなる儀式……我は負ければすべてを失うことになる。文字通り、すべてを。そう、命を賭けて挑むものなのだ、この『番の儀』は。
弟の裏切りへの怒りがあったことは否定できない。この日まで我たち兄弟の仲は悪くないと思っていた。だから、なぜヤツが我に歯向かってきたのか、本当に分からなかったのだ。
なぜ我の命を狙う。
なぜ降参しない。なぜ諦めない。
負けても命を失うのは我だけだというのに!
夜明けと共に始まった儀式だったが、その終わりは荒れ地に陽が沈み始めたときだった。長い長い戦いの果てに、立っていたのは我だけ……。殺意はなかった。だが、危ういと思ったときにはもう、遅かった。
我は実の弟をこの手にかけてしまったのだ。
大地に横たわるヤツに駆け寄ったのは、他でもない、彼女だった。泣きながら弟に口づけ、そして彼女自身もまた、喉を掻き切って果てた。
止める間は、なかった。
後から知ったことだが、あの二人は愛し合っていたらしい。他の誰も気づいていなかったが、彼女の母親だけは知っていた。大切な弟と愛した女を一度に失った我は、名を捨て郷里を捨てた。
◇ ◆ ◇
「なぜ、その話を、ぼくに?」
「……なぜだろうな。麗筆、お前にだけは話しておきたかった」
二人の間に沈黙が下りた。
「忘れさせて、差し上げましょうか?」
「なに……?」
人狼は己に小さな左手を伸べてくる、腕の中の少女を見下ろした。しっとり潤んだ黒曜石の瞳が、紅潮した頬が、熱によるものなのか情によるものなのか、彼には判断がつかなかった。麗筆が言葉を重ねる。
「ぼくが、忘れさせてあげましょうか?」
「…………」
こんな病身の少女に何ができると言うのか。人狼は首を振り、少女をまた寝床に横たえると黙って立ち上がった。そのまま出ていこうとする彼を、麗筆の小さな声が引き留める。その色に、ほんの少しの怯えを感じ取り、彼は足を止めた。
「どこへ、行くのですか……?」
「寝ろ。ただの見回りだ、夜明けには戻る」
「待ってください。出ていくならせめて、この腕輪だけでも外してください。これ、ぼくでは取れないんです」
「チッ……隕鉄か。厄介だな」
麗筆が目を丸くする。人狼の彼には分からないとでも思っていたのだろう。だが、彼は知っていた。この腕輪に魔を断つ力があることも、これが術士の命を奪う危険性も。
「まったく、人間というヤツは! こんなものまで嵌めるとはな……」
「…………」
怒りをあらわにする人狼の姿に、まさか「自分で嵌めました」とも言えない麗筆は、外された腕輪がぐしゃりと握り潰され捨てられるのを黙って見ていた。
(あれ、けっこう良い値段するのですけど)
「ほら、もういいだろう。寝ろ」
「はい。あの……ありがとうございます」
「フン……」
人狼は今度こそ振り返らなかった。
★今回のカットシーン★
D:「麗筆、麗筆あのね。
麗筆は魔術師として術をかけて過去の記憶を『忘れさせてあげましょうか』って言ったんだと思うんだけど、それ普通の人から見たら『私と愛し合えば悲しい記憶も過去のものになりますよ』って意味だから。もうそれ受け取り方によってはプロポーズだからね? 気をつけて?」
麗筆:「……えっ」





