三十頁目 ★
ゴリ……と岩の擦れる音がして、闇に包まれていた麗筆の視界に光が差し込んできた。麗筆はその明るさに眉をひそめ、目をすがめて不躾な闖入者を見やった。
「こんな所で何をしている、麗筆」
「…………ポチ」
「チッ、相変わらず嫌な名前で呼ぶ。誰にやられたのか知らんが今助けてやる」
「余計な、お世話です……」
人狼はピクリと耳を動かした。
汗の浮いた額に髪の毛を貼りつかせ、細かく震えているくせに、不遜な物言いは変わらない。
人狼は構わず岩をどけると、麗筆の小さな体を掬い上げた。
「どこか治療できる人間のところへ行くぞ」
「や、めて……それ、は、嫌、です……」
ビックリするほど軽い。
いやいやと頭を振り、手足をばたつかせる麗筆だが、まったく力が入っていなかった。
「おい」
「すぐ、収まり、ます……。だから……!」
「おい、本当に大丈夫なのか」
「ふっ……ぐっ………うぅっ……」
痛いのか苦しいのか、噛みしめた歯の隙間から声を出す麗筆。おこりのように震える体を人狼はぎゅっと抱きしめた。
「分かった。どこへもやらない。我のねぐらに連れて行く、それでいいか?」
「…………」
躊躇いの後、こくんと頷く気配がした。
ねぐらまでは遠い、だが、跳んで行けば少しは早く着く。
「舌を噛まないように気をつけろ。……吐きたきゃ吐いて良いぞ」
「……?」
人狼は返事も待たず走り出した。
小麦畑と言っても、新大陸オーヴォはまだまだ未開拓の土地が多い、少し外れれば野山や崖が目立つ。人狼は風のように駆け抜け、木の枝や岩に飛び移り、崖を目指した。
上へ下へ揺さぶられる感覚に麗筆は悲鳴を殺しきれない。
「ひっ! やっ! あああああっ! やめっ、ふぐっ……!」
「……吐くか?」
ブンブンと麗筆は頭を振ったが口許は押さえたままだった。
「そうか。次は飛び降りる」
「えっ。やっ、嫌ですぅ~~~~~!」
◇ ◆ ◇
人狼は家中から寄せ集めたクッションの山に少女を横たえた。意識はなく、顔色も悪いが呼吸は安定している。彼は麗筆の額に張り付いていた前髪を指で払ってやった。
見つけ出したあの時、あまりにも軽かったあの体が、あの震えが、すぐにでも治まらなければ何を言われようと医者に診せるつもりだった。たとえ石を投げつけられようと、街へ入っていくつもりだった。
獣人は忌み嫌われ、排斥されている。
郷を出て人間の街へやってきた頃、嫌と言うほど思い知らされた。彼らと自分たちは違う存在なのだと。
(それなのに、まさか人間の女と番うことになるとは、な……)
自嘲気味に笑ったそのとき、くしゅ。と小さな音がして、麗筆が薄ら目を開いた。
「悪い、寒かったか」
慌てて掛け布を探す人狼の腕に細い手が置かれた。
「寒いです。毛布を持ってこっちにいらっしゃい」
「は? い、一緒に寝るのか?」
「寒いのです。早く……あたためてください」
「…………」
誘っているのか。
一瞬、馬鹿なことを考えつつ、人狼は少女の隣に潜り込み、細い体を抱き寄せた。
「………臭いです」
「うるせぇ。お前だって汗すごいだろーが」
人狼の胸の中、藍色の毛並みに顔を埋めて麗筆は笑った。
「なぜ、ぼくを助けたのです」
「……番だからだ」
「ふふっ。あの時……ぼくはDの尻拭いをしていて魔力が暴走寸前でした。大爆発を起こしてあの小麦畑と心中してたかもしれないのです。一歩間違えば、貴方も地面のシミになっていましたね」
「なんだと!」
「だから『余計なお世話です』と言ったでしょう。命拾いしましたね」
くすりと麗筆はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なぜそんな危険なことになった。もう大丈夫なのか? 無茶ばかりするんじゃない」
「……心配してくださるのも、ぼくが番だからですか。必要ないですよ。ぼくのことは放っておいてください」
「…………」
なぜ。
なぜそんなことを言うのだろうか。
柔らかな笑みで、柔らかな声色で。
強がりでもなく拒絶するわけでもなく、諦めでもない。
すべてを手放すような超然とした瞳で。
人狼には少女の心が分からなかった。
いや、人狼には誰の心も分からなかった。
若き頃の苦い失敗――彼は番にと望んだ女を喪っていた。それだけではない、血を分けた弟すら……。
人狼の脳裏にまたしてもあの悲痛な声が聞こえた。悔やんでも悔やみきれない過去。その物思いを麗筆の冷たい声が打ち破る。
「番の契約は、破棄してください」
「なに……」
「ぼくも貴方のことは諦めますから。……朝には出ていきます、世話をかけましたね」
「……我たちシン族は番を変えたりしない。一度番えば、それは死ぬまで続く。決して心を違えたりしない」
「それは……困ります」
「なぜお前が困る。我はお前からの求婚を受けた、お前は我の番だ」
「あ、あれは! 間違い……!」
人狼の真剣な声に麗筆は慌てていた。
「麗筆……美しい名だ」
「ひっ!? ちょ、ちょっと待っ……!」
「何もしない。我は子どもに、しかも病人に手を出すほど餓えてはおらん。だが……少し我の話を、聞いてくれないか」
「…………」
ぎゅっと抱え直され、耳許で囁かれる言葉に、麗筆はこくりと頷いた。
★今回のカットシーン★
麗筆:「ぼくも貴方の剥製は諦めますから……」
ポチ:「…………(白目)」





