二十九頁目
「たすけて……麗筆……」
『…………』
Dの置かれている状況を瞬時に把握できたわけではない。
だが。
制御不能なほどの濃密な魔力を抱え込み苦しんでいるDと、うわごとのように別の女の名前を繰り返している男を前にして、彼の取り得る方法はひとつだった。
『代わりましょう、D。異論は?』
「…………」
Dはもう返事もできない有り様だった。
了解は得ず、麗筆は体の主導権を取り戻した。
パチリと視界が切り替わる。
と同時に酩酊感にも似た強い眩暈と吐き気が麗筆を襲った。Dが放った魔力波、大陸を揺らすほどの威力を持っていた。だというのに、それを放出してなお、もう一度同じ事ができるだけの量がこの体に残っている。
「んっ……これは、ちょっと……。ぼくも、辛いです、ね……」
こみ上げる吐き気に麗筆が首を振りつつ頭を巡らせると、床に吐瀉物がまき散らされていた。おそらくDの粗相だろう。こんなことになった原因はひとつ。
「貴方、ソーマの抽出物を濃縮してこの子に飲ませましたね? この香り……ショコラにでも混ぜましたか。ご丁寧に、術士ですら即死する致死量をさらに二倍にしてあります。これは、貴方が?」
カツン、カツンと靴を鳴らし、ガランに近づいていく麗筆。だが、彼の目にはその姿すら映っていないようだ。
「グレイス、グレイスぅ! 今、今助けるから……くそ、どうして動かないんだぁぁ……! 可哀想に、グレイス……足が折れて……こっちのグレイスは手が……あぁ……あぁぁあ!」
「ソーマの抽出も濃縮化も大変上出来です。そしてその剥製の作り方、ぼくの本を読み解いたのでしょう?」
「グレイス……うぅっ、グレイスぅ……!」
「どこで禁書扱いのぼくの本を見つけたのか知りませんが、なかなかやるじゃありませんか。……聞いていますか?」
「だ、誰だお前は! グレイス……グレイスを返せ……返して、くれ……! グレイスの瞳は、このサファイアのように青いんだ……お前の瞳は、違う! 返してくれ……」
「………………」
顔をしかめるでもなく微笑むでもなく、ただただ興味のなさそうな表情のまま、麗筆は差し出された白銀の百合を蹴飛ばした。
「何をっ!? あがっ!」
麗筆の靴の踵がガランの鼻を潰す。
「煩いですねえ。貴方のグレイスなら、もういるでしょう? Dの覗き見た記憶が教えてくれましたよ」
「あ……うごっ……」
「本物のグレイス。あのときは人形を作る技術どころか殺す技術も洗練されていなくて、綺麗に保存できなかったんでしょう? でも、手元に置いておきたくて骨だけは地下室に横たえてある。瞳が失われたのが惜しいですか? 同じ青を求めているのですか?」
「あ……ああっ……痛っ!」
麗筆の足に段々と力が加わっていく。
やめさせようと伸ばしたガランの手は、触れる前に見えない力で捻り曲げられた。骨が折れる音がする。
「ぎゃああああっ! あぎっ、が……!」
「無駄なことです。そんなにサファイアが好きなら、最初からサファイアを埋め込めば良かったのに」
「ひぎぃ! あっがが……っ! や、べ、て……」
ミシミシ……パキ……
「やめ、やめでぐ………! ぅ……ごぼっ……」
グシャリ、と湿った音を立て、ガランの下顎から上が陥没した。脳髄液と血がしとどに溢れ出す。両の目は飛び出し、人形劇の間抜けな怪物役のようだった。
麗筆は冷たい目でそれを見下ろし、
「っ……! 魔力が溢れてしまいそうです……。どこか、誰もいない場所へ行かないと……」
魔力とは循環するものだ。
取り入れ、放出することで循環し、一人の肉体に流れる魔力は魔術を使って減らさない限りは一定だと言われている。魔力をどの程度溜めておけるかは個人によって違う。容量が少なすぎて魔術を使いこなせない者もいるし、逆に麗筆のように並の術士を二、三人束ねても敵わないほどの魔力容量の持ち主もいる。
魔力とはすなわち生命力でもある。気力と呼ばれるそれが尽きるとその個体は死ぬ。だが、多ければ良いというわけでもない。容量以上の魔力を無理やり体に入れれば人間はやはり死ぬ。
魔力の自然な循環を妨げられても、苦しんだ挙げ句にやはり死ぬ。その苦しみは魔力量の多い者ほど顕著だ。
麗筆の体は今、致死量以上の魔力を溜め込んでいる。
彼の(彼女の)体内は今、外に出ようとする魔力が暴れ回ってズタズタだ。だが、魔力をそのまま外に出せば、二次被害は免れない。王都は今度こそ瓦礫の山と化すだろう。
麗筆はよろめきながら半壊の屋敷を出た。
ふわりと体を浮かせ、飛んでいく。目指すのは郊外、近くに建物がない場所だ。その飛び方もまるで怪我をした動物が恐る恐る歩くかのようで痛々しい。
小麦畑の上に差し掛かったとき、麗筆の体ががくんと揺れた。空にジグザグと線を描きながら、抵抗むなしく墜ちていく。
「ううっ、……あぁ……」
何度か弾んで転がって。
麗筆は小麦畑に仰向けに倒れ込んだ。
「【砦を……、築け】……」
麗筆の白術が周囲の石垣から大きめのブロックを引き寄せ、丸く縮こまった小さな体を覆うように三角錐を作っていく。それは麗筆を守るようでありながら、しかしその実、彼女の魔力が暴れ、爆発した時に被害を大きくしないためのものだった。
「は、あ……くる、し……。まっ、たく……よくも、こんな……」
麗筆は額に汗の珠を浮かせ、震える手で荷物を探った。やがてその細い指が掴んだのは無骨な鉄のバングルだった。隕鉄で作られたそれは魔力を完全に分断する力を秘めている。ひと度これを嵌めれば、誰かに外してもらうまで麗筆の魔力は外に出ることはない。
循環を妨げることは苦痛を伴う。
魔力量が多い者ほどそれは顕著だ。
外さなければやがて死に至る。
もしくは、大きすぎる魔力を制御できず爆発するか。
それでも。
(せっかく創った大陸を、壊すわけにはいきませんからね……)
魔力の暴走を抑え込み、無害化させる勝算はあった。しかし、それにどのくらい時間を要するのか、麗筆自身の肉体がそれまで耐えられるのか。
すでに暴走したときのための対策は立てた。
後は麗筆次第だ。
隕鉄の環を嵌めて魔力の循環を断った影響で、トロンと瞼が落ちてくる。麗筆は意識を投げ出した。





