二十五頁目
ガランの屋敷へ向かう馬車の中、Dはぼんやりとした表情で呪文書の革表紙を撫でていた。麗筆はまったく動かない。しばらく戻ってくることはなさそうだ。
(孤児院にはヴァイゼルたちを連れ戻させるために行ったはずだったんだけど、まさかこんな所で再会するなんて)
ガランとは以前、ランチを食べるためだけに立ち寄った小さな町で知り合った。いや、実際知り合いと言うほどでもない。気まぐれに暴漢から助けただけで、名前も聞かずにそのまま立ち去ったのだから。
その時に感じた甘い匂い。腐りかけた果物が放つような強烈な。
それは孤児院でも感じることができた。
(このひとは魔術師としてはまだまだ半人前、つけ込む隙はあるけど……別に今回は食事が目的じゃないし。私が食べるほどのものとは思わないけど、でも……ちょびっとなら、いいよね?)
意思ある物品であるDにとって食事は必須ではない。悪しき人間の魂は美味ではあるが、際限なく食べてしまっていてはやがては尽きることも知っている。だから彼女は自分の中に明確な基準を持っている。
食べても良い悪しき魂の吟味、そして魂をより美味しくするための調理、それが“誘惑者”としてのDの仕事でもあるのだし。つまみ食いは、まぁ、役得というやつだ。
バンのように清廉潔白な魂を穢すも良し、ガランのようにとっくに悪に天秤が傾いている魂をさらに深淵に引きずりこむも良し。その調理の行程さえもDは楽しんでいる。
Dの目的は食事ではない。が、そもそもガランについてきたのだって興味本位の物見遊山なのだ。彼の脳内をまさぐって、記憶をつまみ食いして、ついでに怪しいお屋敷も見学したい。ただそれだけのこと。
馬車がゆるやかに止まった。
「あ、ついた~」
大通りから外れた細い裏道の、建物がひしめく日当たりの悪い場所の、さらに奥まった一角にその屋敷はあった。屋根には苔がびっしりと生え、閉まった鎧戸にもガタがきている。周囲の暗さとあいまって幽霊の巣に見える。
Dは目をパチクリさせた。
並の子どもならすでに泣き出しているところだ。
ガランは懐から大きな古めかしい鍵を取り出し、ガチャリと回した。
ギィィィィ……
扉の軋む音がまるで、胃袋に獲物がやってくるのを歓迎しているようだとDは思った。真っ暗な室内に淡い光が差し込み、Dの影が床に投げ出される。
「グ、グレイス……」
「も~、だからDちゃんだってば~。ね、早く中に入ろ? 貴方の秘密、見せて!」
「あ、あ……」
Dはガランの手を取り、館の中に引き入れた。
バタンと扉が閉まる。
「楽しませて、おにぃ~ちゃん。きひひひっ!」
* * * * * * * * * * * * * * * * *
それは昔むかしの記憶。
幼い日の甘やかな思い出。初恋のときめき。
ガランは昔から器量が良くないだけでなく、要領も悪い子どもだった。両親は良く出来た弟だけを可愛がり、彼は誰からも顧みられなかった。
誰も彼に話しかけない。
本だけが友だちだった。
そんな彼にただひとり、優しくしてくれた少女がいた。
グレイス……
『あなたなら、きっと立派な術士さまになれるわ』
そう言って、幼いガランの手を取り、元気づけてくれた同じ年の少女の、優しい瞳が青く輝いていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
「かわいそうに……貴方はただ、愛されたかっただけなのにね」
ガランはいつの間にか膝をついていた。いや、つかされていたのか。
まるで母親が我が子を慈しむように、Dは彼の頭をその胸にぎゅっと抱き寄せた。
「あ……あ、あぁ……っ」
ガランの目から涙がこぼれる。
今まで誰も彼を理解してくれなかった。理解しようともしてくれなかった。あまりにも冷え切った孤独の中、思い出の少女だけが彼の心の支えだった。
「グ、グレイス……グレイス……!」
ガランは少女のなだらかな胸に顔を埋め、縋りつき、頭を撫でられながら誰にはばかることなく泣いていた。
ようやく……ようやく彼は己の理解者を、慰めてくれる存在を、永遠の少女を手に入れたのだ……!
だが……
「ふふっ、帰るまでの間、ちょっとだけ遊んであげても……いいですよ?」
「帰……る……?」
Dの言葉にガランは顔を上げた。
だが、そのセリフに含まれた艶には気づいていない。
Dはガランの手を取り、己の薄く肉付いた胸元へ導く。
「少しの間だけ……。貴方の冷たいお人形さんたちとじゃできないコト、私とシよ?」
「…………っ!」
「んきゃっ!?」
ガランはDを大きく突き飛ばした。
――それはあからさまな拒絶。
後ろによろめいたDの目に暗澹とした光が宿る。





