十三頁目
靄が立ち上る山の朝は寒い。ようやく空が白み始めたところで、遮るもののない開けた場所であっても、去っていく夜の女王の裳裾がまだ引っ掛かっているかのように暗かった。Dは尾根から少し崖を下って他の人間が容易に降りてこない場所で、薬草を摘んでは濡らした白布を敷いた藤のカゴに入れていた。
鳥の群れが飛び立ったとき、かすかに怒声のようなものをDは聞いた。男の声、鈍い音。何かが起こっているようだ。背中で麗筆がため息を吐いた。
『こちらまでは来ないと思いますけど、確認しに行きますか』
「そうだね。面白いことが起こってるなら見逃したくないもの」
そうなると、この薬草の入ったカゴが邪魔になる。十中八九、戦闘行為が予想されるからだ。
「う~ん、この場所に置いておこうかなぁ」
『ぼくがしまっておきましょう。こういう場合、最悪戻ってこられないことも考えておかないといけませんから』
「は~い、先生!」
茶化すDに再度のため息。Dが体を持ってから、麗筆はこれまでの放置が嘘のように彼女に親切で、色々なことを教えてくれようとする。それは自分の体を傷つけられたくないからなのか、それとも自分がいなくてもやっていけるようにという親心なのか。Dは構ってもらえて嬉しい反面、未来のことを考えると胸がチクチクして複雑な気持ちになるのだった。
『さて、見物と洒落こみましょうか。飲み物とかでもあれば良かったですねぇ』
「完全に観客モードだね~。あ、見物といえば大きい劇場とかにも行ってみたい! 今度一緒に行こうよ、麗筆!」
『観劇の本場、アウストラルは反対方向なんですよね……。なぜオーヴォに来る前に言わなかったんですか、海の彼方ですよ。まったく、ケテルにも劇場があるよう祈っていなさい』
「はいは~い」
『はい、は一回。さ、行きましょう』
◇ ◆ ◇
めりめりと生木の裂ける音がする。狭い場所へと誘い込めば少しでも動きが止まればと期待したが、そう上手くはいかなかったようだ。毛むくじゃらの脚がバンを捕らえて消化液を注入しようと迫ってくる。
「くそっ!」
夜営中に襲われたせいで軽装の革鎧しか身に着けていなかったことが逆に幸いした。いつもなら通り抜けるのが難しいだろう木々の隙間をすり抜け大蜘蛛から逃れる。夜営地で大蜘蛛と遭遇した際、糸に絡め取られてしまった二人の安否が気にかかっていた。バンは歯を食いしばった。
もし自分が万全の板金鎧のままでいれば、もし自分がもっと大柄で強ければ、こんな風に追い詰められて仲間を死ぬような目に遇わせずに済んだのではないか。そんな悔しさが滲んだ。
足許の、ブーツすれすれを蜘蛛の歩脚が抉る。バンはつんのめったが何とか体勢を立て直した。
(くそ、まずい! このままじゃ……!)
死……!
そんな単語が脳裏に浮かぶ。掌から砂がこぼれていくのを必死で握りしめて留めるような気持ちで、バンは懸命に足を動かしていた。今にもこぼれそうになっているのは、そう、己の命だ。
「だぁあああっ!」
不意に視界が開ける。藪を通り抜けた先は低いが切り立った崖になっていた。二メートルほどのそれを、バンは咄嗟に軸足を踏み切って飛び降りていた。大きく手足を振り回し、着地と同時に関節を柔らかく保って衝撃を殺しつつ事前に見極めていた場所へと転がる。
「っ!」
体勢を整えたバンは、すぐにでも大蜘蛛の位置を確かめようと目線を走らせた。地響き。靄は晴れ上がり曙光が辺りを満たしている。影が射してバンは崖上を見上げた。
大蜘蛛の跳躍。体高およそ三メートル、しなやかで強靭な歩脚が伸び上がれば五メートルを優に越える。その驚異的な大きさながら、倍以上の高さへと飛び上がるのか。さながら投石機から放たれた攻城用の大岩だ。
バンはがむしゃらにその場から遠ざかった。まともに走れていたわけではない。立ち上がりきれないまま、頭を低く膝を曲げて、それでも走った。蜘蛛の着地は意外なほど静かだったが、それでも大地を揺るがしバンの足を掬った。
バンは呻きつつ剣を抜き……そして気づいた。
大蜘蛛の下顎にある鎌のような触角が、肉をどろどろに溶かす消化液を滴らせながらバンに迫る!
(終わりか)
まるで他人事のように頭が冷えていた。しかし、彼に最期は訪れなかった。大蜘蛛は急に向きを変え、複雑に体を動かした。その姿勢をバンはすでに知っている。腹の下部にある出糸突起で獲物を捕縛する際のものだ。大蜘蛛の意識は、崖の上に立つ少女に釘付けだ。
(な……んで……!)
バンの頭は混乱していた。何故こんな時間こんな場所に少女が? 何故あんなに無防備な何も持っていないような格好で? どこから来た、何故逃げない、恐怖に足が竦んでいるのか。朝陽に照らされた少女の髪は白金のように光っていた。
「に、げ、……逃げろぉおおお!」
バンは叫んで大蜘蛛の脚へと長剣を叩きつけた。弱かろうが駆け出しだろうが、死にかけていようが、腐っても自分は探索者だ。目の前で少女が襲われそうになっているのをみすみす見逃すことなんてできない!
「おいデカブツ! この! このっ、くそ、こっちを向けぇっ!」
鉄でも殴っているかのような手応え。しかしバンは腕が痺れるのも構わず長剣を振るった。大蜘蛛はバンなど歯牙にもかけない。空中を真珠色の糸が舞った。
「っ、頼む……!」
逃げていてくれと願う。だが、聞こえてきたのは悲鳴ではなく……。





