百四十五話 別視点――リール・ド・コモン男爵 その五
逃げなければ。
男爵は手足をばたつかせてホールを走る。
まず目に入ったのは事務室への扉。すぐさま飛び込み、扉を閉める。
ふう、ふう。
ぜったい、ぜったいに生き残ってやる。
そのまま部屋を素通り、奥の扉へ。廊下へ出ると、突き当りを左へ折れる。
バアアン!
背後で扉を叩きつける音がした。男爵は飛び上がらんばかりに驚く。
今のはたぶん事務室の扉。もう追ってきたのか。
十数える間とはなんと短いのだろう。早く早く逃げなければ。
倉庫の入口を横目にさらに進む。このあたりは扉が多い。しらみつぶしに探してくれれば時間は稼げるはずだ。
ひとつふたつみっつ、使用人室の前を通り更に奥へ。
扉を開くとカマド、鍋、お玉といった調理用具が目に入る。壁の棚に並べられているのは多種多様の皿だ。
ここは厨房。隠れられるところも多い。
男爵はガウンを脱ぐとゴミ箱へと放り込む。
逃げるのに邪魔だからだ。今は少しでも身を軽くしたい。
「ふう、ふう」
呼吸を整えるべく、男爵はいったん身を隠した。カウンター台のうしろだ。
ここの扉は裏庭へと通じており、いざというとき逃げ道となる。
次はどこへ行く?
ここから向かうならば配膳室か洗面所か。
洗面所ならば二階への階段が近い。
考えろ、考えろ。
男爵は頭をフル回転させる。
逃げ込むべきは秘密の脱出路だ。敷地の外どころか、街の外へと通じている。
あそこに行けばたぶん逃げ切れる。
だが、問題は場所だ。ホール横の書斎の本棚、秘密の通路はその先にあるのだ。
スタート地点のすぐ隣。引きかえせば、まず鉢合わせ。
ならば向かうは配膳室。そこから食堂、応接室といくつか経由すれば書斎へいける。ホールに戻らぬ迂回ルートだ。
だが、見られてはいけない。屋敷にいると思いこませなきゃいけない。
なんとかまいて辿りつかねば。
男爵は握りしめていた砂時計を見た。
真鍮でいろどられたフレームの中にガラスの容器が固定されている。
ガラスはふたつの円錐形の頂点が接合されたような形をしており、上から下へとサラサラと砂が落ちていくのだ。
上の容器には砂がまだタップリ残っている。
時間はまだまだあるようだ。
……待てよ。
男爵は、ふとあることに気がついた。
この砂時計……
――が、そのとき、カチャリと扉が開いて何者かが入ってきた。
「旦那様~、どちらにお隠れで?」
男爵はとっさに手で口元をおさえた。
セバスチャンの声! もうここまできたのか!!
ズ、ズ、ズと足を引きずる音がする。
それからスンスンと鼻で息を吸う音も。
「なにやらニンゲンの匂いがしますなぁ~」
そうか、匂い!
匂いを辿ってここまで!!
いくたの部屋には目もくれず、ただ、まっすぐと追ってきたのだ。
「セバスチャンは寂しゅうございます。一口、いや、一言でいいから男爵様の悲鳴が聞きとうございます」
くくく、バカにしよって。
男爵は怒りと恐怖がまぜこぜになる。
とはいえ絶体絶命だ。扉へ向かえば姿をみられる。
こうなれば裏口から……
「み~つけた」
セバスチャンの声。
男爵は心臓が凍りつくほど驚く。
しかし、次に続く言葉で安堵する。
「おや、服だけですか。なるほど、脱ぎ捨ててこの先へ」
そうなのだ。見つけられたのは、さきほど脱いだガウン。
それが匂いの元だと間違えたのだろう。
助かった。
しかも、こみ箱の奥の扉は洗面所へつながっている。
そちらへ向かってくれれば、配膳室へといける。
バンバンバン!
しかし、すぐ背後で大きな音がした。
おもわず口から「ヒ!」と悲鳴がもれる。
男爵は、あわてて振り返る。
庭へとつながる裏口の扉、その小さなガラス部分から民衆がこちらを覗いていた。
そうだった。屋敷の外はやつらに取り囲まれていたのだった。
「男爵! ここを開けろ!!」
扉を叩きながら民衆が叫ぶ。
くくくく、あいつら~。
「おやおや。ここに隠れておいででしたか」
ビクリ。
男爵はこわごわと向き直る。
すると、カウンターの向こうから覗き込むセバスチャンと目があうのだった。
――――――
「ぐああああああ」
男爵の耳から大量の血が流れる。
――いや耳ではない。正確には左耳がついていた場所というべきか。
「ふふふ、悪くない味だ」
セバスチャンの姿をした悪魔は、グチャグチャと咀嚼する。
ちぎり取った男爵の耳を。
「ううううう」
血はあふれ、男爵の肩口を赤く染める。
痛みのあまり男爵はステッキを落とした。
痛い、痛い、痛い。
「いち……、にい……」
セバスチャンはふたたび数を数え始める。
また十まで数えようというのだろう。これを何度も繰り返すつもりなのだ。
男爵が息絶えるまで。
「わあああああ」
男爵はステッキを拾うと配膳室へと走っていく。
いやだ、いやだ、いやだ。
死にたくない!!
配膳室の扉を開く。
「誰か! 誰かおらぬか!」
男爵は狂ったように叫ぶ。
だが、返事はおろか、人の影すらない。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。
そういえば先ほどから使用人の姿を見ていない。納屋へ向かうまでは何人もいたはずなのに。
おのれ。これでは悪魔に押しつけて時間稼ぎもできぬではないか。
そうだ! 砂時計!!
男爵はふと思いだすと、握りしめていた砂時計を見た。
あいも変わらず上から下へと砂は落ちていく。
あれからほとんど時間は経っていない。上の容器は砂でいっぱいだ。
男爵は砂時計をクルリとひっくり返した。
ははは。こうすればよい。
すぐに上の容器はカラとなる。
あの召喚士は落ちきったら私の勝ちと言っていた。だが、どちらに落ちたかまでは指定していなかった。
ならばこれでいい。ちゃんと落ちきったと言い張ればよい。
――そもそも砂時計など、どこかに置いていなければ上下など簡単にひっくり返る。
それに、横になどしてみろ。砂が落ちぬではないか。それじゃあいつまでたっても終わりは来ない。
ペテンだ、ペテン。ならば私もこうするべきなのだ!
しかし、砂時計をのぞきこんだ男爵は驚愕する。
下から上へと砂がのぼっていたからだ。
「ば、ばかな!」
容器を横にする。
不思議なことに砂粒は、同じ速度で右から左へと移動していた。
そうなのだ。これは魔法の砂時計。
いちど落ちかけた砂はいかなることがあっても、止まることも反転することもないシロモノだったのだ。
「ぬぐぐぐ」
ふざけおって! 魔法は使わぬと言ったではないか!
それとも、魔道具だから関係ないと申すか!
男爵は砂時計を投げ捨てようとした。
だが、手にピッタリと貼りついて離れない。
「ぬぬぬ」
今度は反対の手に持ち替えてみた。なんの抵抗もなく砂時計はうつる。
ポケットに入れてみた。やはり砂時計はスルリと手から離れ、ポケットの底へとおさまるのだった。
くくっ! 捨てることさえできぬのか!!
ズズズ、ズズズ。
足をひきずる音がする。
セバスチャンが追いついてきた音だ。
こうはしてられない。
男爵はやみくもに逃げていくのだった。