百四十二話 別視点――セバスチャン
時間は少しさかのぼる。
執事セバスチャン視点です。ご注意を。
なにかがおかしい。
セバスチャンは異変を感じ取っていた。
肌がひりつくような感覚、理屈ではなく本能がなにかを訴えている。
五感を研ぎ澄ます。
……外か?
異変のみなもとは、どうやら屋敷の庭から漂ってきているようだ。
セバスチャンは磨いていた銀の食器を棚に戻すと、ひとり庭へと向かった。
どうも嫌な予感がする。
ひとの気配とはまた違った感覚だ。
光の届かぬ谷底をのぞきこんでいるような、そんな不安感。
それはどんどん濃くなっていく。足を止めようとする本能をおさえ、セバスチャンはより濃いほうへと向かっていった。
やがて納屋へとたどりついた。
どうやらここが、発生源のようだ。
セバスチャンは一瞬ためらう。が、ノブをにぎると一気に扉を開いた。
「これは……」
思わず声が出た。
きれいに片づけていたはずの納屋のなかは、いっぱいの木箱があった。
しかも、木箱のいくつかは宙を舞っていたのだ。
誰がふれることなく空を飛び、積みあがっていく。
まるでおとぎ話にでてくる、ワンシーンのよう。
「ありゃりゃ、やっぱり見つかっちゃったか」
男の声がした。
見れば、もっとも高く積まれた木箱に、腰かける者がいる。
ボロ布を身にまとい、おなじくボロ布で顔を隠すなにものかだ。
「誰だ……」
声が震えた。
すがたかたちは人のようなれど、漂う気配は人とはかけ離れていた。
なんというまがまがしさであろうか。
ひと目見た瞬間、全身の毛が逆立つのをセバスチャンは感じた。
「う~ん、そうだなぁ。とりあえず閉じこめておくか」
男は返事をしない。ひとり話をつづける。
それがなんとも不気味であった。
「ツメが甘いなぁって? だってしょーがないじゃん。コイツ勘よすぎでしょ。でも大丈夫。こんなこともあろうかとちゃんと用意してっからさ」
男はそう言うと、座っていた木箱からなにかを取り出した。
その瞬間、まがまがしさが増大した。
視界が歪んだかと思うほどの激しいめまい。セバスチャンはあやうく膝をつきそうになる。
これは危険だ!!
セバスチャンはソデに仕込んだナイフを引き抜くと、すかさず投擲した。
が、ナイフは届かなかった。
男のはるか手前、空中でピタリと停止したのだ。
「こ、これは……」
「あいかわらずぶっそうだなぁ」
男はなにかをかざした。楕円形の板で、両手でかかえるほどの大きさ。
銀細工でふちどられた表面は真っ黒で、おどろくセバスチャンの姿がうつりこんでいる。
「あ~、黒曜石の鏡だよ。こん中にはさ、なんと……」
とつじょ鏡から手が現れた。
それは銀細工のふちをつかむと、全身をヌルリと引き出す。
「な!!」
その姿にセバスチャンは戦慄する。
黒いパンツに白いシャツ、上にはおるのは黒いチョッキだ。もとは黒かったのであろう髪は加齢によりシルバーに。
そしてなにより、胸にとまるのはターコイズのブローチだ。亡き妻が贈ってくれた世に二つとしてないモノ。
――そう、鏡から出てきたのは、セバスチャンそのものだったのだ。
「お初にお目にかかります。わたくし、マルコシアスと申します。地獄の侯爵に名を連ね、30の軍団を指揮しております。以後お見知りおきを」
セバスチャンそっくりの男は、そう言うと軽く頭をさげる。
その紳士的な態度とは裏腹に、セバスチャンは得も言われぬ恐怖にとらわれた。
男の奥にひそむ凶暴性と残虐性を感じ取ったのだ。
自分ではない。まして人ですらない。
本能が逃げよと警告を発している。
こいつだ。あの奇妙な気配はこのバケモノから漂っていたのだ。
「え? マルコって侯爵なの?」
「御意」
男がバケモノに話しかける。ずいぶんと軽い口調。
内容から察するに男が主で、バケモノが従なのだろうが……。
――いや、それより気になることがある。
男の声だ。
この声、どこかで聞いた記憶が……。
「じゃあ、けっこう強いんだ」
「まあ、それほどでも……ありますかな?」
「そこは謙遜しないんだ」
「むろん、主さまの足元にも及びません」
「いや、まあそれはね。ワシ、キミらから力もーとるから」
思いだした!
召喚士だ。
召喚士エム。空飛ぶ船をあやつり、いずこかへ逃げていったあの――。
「召喚士エム。帰ってきたのですか」
セバスチャンはポツリつぶやく。
「あ? やっと気づいた? 遅いよ。いやね、ほんとは最後の最後でネタばらしして驚かせるつもりだったんだけどね」
男はそう言うと、顔にまいたボロ布をはずす。
記憶のなかにあった召喚士の顔そのものがでてくる。
やはり、あのときの召喚士。
なるほど、こいつがバケモノを召喚したのか。
それにさっきの会話、力をもらっていると言っていた。
このバケモノはたぶん悪魔。悪魔に魂をささげ、力を得たのだ。
危険だ。いま倒さねば。
セバスチャンは地を這うように走ると、地面を蹴りあげ跳躍。召喚士に回し蹴りを放った。
「困りますな。わたしをムシされては」
だが、いつ移動したのであろうか悪魔は召喚士の前に立っており、セバスチャンの蹴りを見事に受け止めていた。
「ぐあああ」
すごい力だ。ガッチリつかんで足を放さない。
ミシミシと骨がきしむ音がする。
その後すぐにゴキリと骨が砕けた。
「くぅ!」
「あ~あ、いらんことするから」
足を掴まれ宙ぶらりんのセバスチャン。いっぽう、つかむ悪魔は宙に浮いている。
「放していいよ」
召喚士がそう言うと、セバスチャンはポイと投げ捨てられる。
セバスチャンは回転し、受け身をとるも、砕けた右足が悲鳴を上げた。
「グッ」
マズイ。歯がたたない。
セバスチャンは壁際へと後退する。
倒すのは不可能だ。ならば、せめて男爵さまに知らせなくては。
――だが、逃げられるか?
砕けた足に、この相手。とても逃げられるとは思えない。
が、そのとき、セバスチャンの背がドアノブに触れた。
幸運にも投げ飛ばされた場所が、出口のすぐそばだったのだ。
これなら!!
「召喚士エム。なぜ帰ってきた」
セバスチャンは気をそらす。
少しでも逃亡確率が上がるように。
「なぜって……。そら、スタートスの街に悪魔が――あっ!!」
セバスチャンはノブをひねると扉を開く。
すぐさま体を滑り込ませ……られなかった。
扉の先は真っ黒な壁となっており、セバスチャンの体を押しとどめたのだ。
「な~んちゃって。ごめんね、もう、そこ鏡の中なの。うつってる範囲しか行けないのね~」
セバスチャンはあわてて振り返った。
だが、召喚士の姿も、じぶんそっくりの悪魔の姿も、もうなかった。ただ、左右入れ替わった納屋の中に自分ひとりたたずんでいるだけであった。
「これは……」
扉の先の漆黒の壁をたたく。だが、帰ってくるのは固く冷たい石の感触。
どこからともなく声が聞こえる。
「寂しくないよ。すぐに男爵もくるから」
「待て!」
それっきり声は聞こえなくなった。