百四十話 別視点――リール・ド・コモン男爵
給仕の者が栓を抜いた。
ワイングラスに注がれるのはルビー色の液体。すこし酸味がかった香りが鼻をつく。
二年ものか。いい出来だ。
リール・ド・コモン男爵はグラスに手を伸ばした。
「旦那さま。これが最後の一本です」
が、その言葉に手が止まる。
とうとうなくなったかと、男爵は深い息を吐く。
見ればグラスを満たす液体が、おのれの手に赤い影を落としていた。
「まるで血だな」
「は?」
男爵はなんでもないと首をふると、グラスを手にとる。
それから、ひと口、ふた口、じっくりと味わいながら胃へと流し込んだ。
どうしてこうなってしまったのか。男爵は瞳を閉じた。
じぶんは先手先手で、動いてきたはずだ。
いちはやく街を封鎖し、戦力の流出をおさえる。
救援を求めるべく部隊も北へ派遣した。
だが、救援物資はおろか、誰一人として帰ってこない。
東にむけるべきだったか。いや、そちらはもっとひどい状況だ。
南だってそうだ。たいして変わりはしない。
いっそのこと、街を捨て西へ向かえばよかったのだろうか。
――それもムダだな。諜報部のもたらした情報によると、あちらの国は都市がひとつ瓦礫に埋もれたらしい。
その後どうなったかは、確認するまでもないだろう。
スタートスの街が閉鎖されてから、情報は入ってきていない。
だが、街ひとつで終わるはずもない。すでに国が滅んでいると予想できる。
なぜなら、急激に増えた魔物たち、あれはただの魔物ではないからだ。
いままで見たことのない異様な姿、生物としての枠組から大きく外れている。
あれは太古に神とそのみ使いによって魔界に幽閉された悪魔どもではないか。
ならば、もはや手立てはないだろう。
神、ならびに、み使いの降臨を待つより他は。
だが、間に合うだろうか。
食糧はもう尽きかかっている。このまま待っていても飢えて死ぬ未来しか思い浮かばない。
今になって思う。
精霊が姿を消したのは、この前触れではなかったのか。
悪魔の出現を察知した精霊たちが、いちはやく逃げ出したのだ。
男爵は思いだす。
金貨1000枚の懸賞金をかけた召喚士のことを。
もし、あのとき、とらえることができていれば、違った結果になっていたのだろうか。
いないはずの精霊を呼びだし使役する。なんらかの情報を握っていたに違いないのだから。
「お食事中、失礼します」
執事のセバスチャンだ。彼が一礼ののち、おのれのそばへと歩み寄ってきた。
「旦那様。兵士と街の者が、面会を求めて来ております」
「面会? こんな時間にか?」
日はだいぶ傾いてきている。じき夜を迎えるだろう。
男爵は「明日にせよ」そう言いかけた。
が、思いとどまった。なんとなく不穏な空気を感じたからだ。
「わかった。すこし待たせよ。じき、食べ終わる」
異例の待遇だ。領主の自分が即日会うというのだから。
ところが、セバスチャンからでた言葉は意外なものだった。
「ちと、様子がおかしゅうございます。急がれたほうがよろしいかと」
「なに?」
食事すらも待てぬほどの状況か? 男爵は苛立った。
しかし、報告したのは他ならぬセバスチャン。彼の報告はつねに正しい。
グッと怒りを飲み込んで、席を立つ。
「わかった、行こう」
――――――
「門の前で待たせております」
そう言ってセバスチャンが玄関扉を開いた。
男爵はその横を抜けると、レンガつくりの小道を歩いていく。
時刻は夕暮れ。小道を彩るガウラの花が、沈みゆく太陽に照らされオレンジ色に染まっていた。
すぐに門は見えてきた。
逆光で見えずらいが、数人の兵士を先頭に平民どもが集まっている。
……たしかに様子がおかしい。
ここは一等区。平民は立ち入りを禁じられているのだ。ほんらいならば居るはずもない。
それに兵士の態度もどこか不自然だ。逆光でその表情は見えずとも、ただならぬ気配が感じ取れた。
「何用だ?」
男爵は問いかける。
少なからず動揺はある。だが、それを悟られぬよう、冷静さを保ったままだ。
「民はみな飢えています」
兵士のひとりが言った。
なにをいまさら。男爵は心の中で笑った。そんなことは改めて言われるまでもないのだ。
しかし、表にはださない。神妙な面持ちで言葉をえらぶ。
「わかっている。わしも心を痛めている。なんとか状況を打破しようと、いま計画を練っているところだ」
練ったところで打開策など見つかるはずもない。
それでも、そう言わざるを得ない。いま暴発されては、いよいよ取るべき最後の策すら取れなくなってしまう。
「計画、計画、そんなものは聞き飽きた! みな、明日はおろか、今日たべる食料もない。まさか男爵様は、われらが飢えて死ぬのを待っておいでか!?」
なにをばかな。
兵をむだに死なせたところでなんの意味がある。みずからの死を早めるだけではないか。
そもそも、略奪してより民を飢えさせたのは、他ならぬお前たちではないか。
とはいえ、そんなことを指摘できるはずもない。
許したのは男爵だと言い返されてはドロ試合になる。それは避けなければならない。
「苦しいのはみな同じだ。わたしだって苦しい。ここは一丸となって乗り越えなければならない場面だ」
少なくとも兵士にはまだ余裕があるはずだ。そうなるように調整してきたはずだ。
――最後の策とはすなわち、民衆をおとりにして逃げることだ。
動けぬ民衆に魔物が群がったところで別の道を行く。それには兵士の体力が必要だ。
だからこそ、略奪を許したのだ。
だが、それをいま説明することはできない。ここにはたくさんの民衆がいる。
まったく、いらぬものまで連れてきよってからに。わしの最後の策までだいなしにするつもりか!
男爵は怒鳴りたい気持ちにかられた。
それでも、声を荒げず言葉をつむぐ。
「いいか。こんなことをしても食料は湧いてくるものではない。いずれ時がくる。いまは我慢し――」
「男爵様が食料を独占しているとの報告がございます」
兵士がおのれの言葉を遮ってくる。
なんたる無礼。しかも、いうに事欠いてわたしが食料を独占してるなどと。
城に備蓄された食料もすべて配り終えた。それは兵士自身がよく知っているだろう。
残っているのは、邸宅にあるわずかな食料だけ。
男爵はふ~と息を吐くと、それを伝えようとする。
しかし――
「酒の香りがする」
誰かがつぶやいた。
しまった!!
さきほど飲んだワインのせいか!
チッ、誰かは知らぬが、いらぬことを。
「やっぱり……」
「あいつの言っていたことは正しかったか」
民衆と兵士が口々にこぼす。
あいつ?
男爵は引っかかりを覚え、問いただそうとする。
だが、そのとき、大きな声がひびいた。
「おお~い! 見つけたぞ」
見れば邸宅の庭のほうから歩いてくる者がいる。
数人の兵士だ。
しかも、両手にかかえているのは……