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事情を知った学校は暮木ミゾノに一週間の自宅謹慎を命じた。暫定的なもので、事件の進展次第ではその後どんな処罰が下るかはわからないという。そんな話を、翌日、暮木ミゾノの家を訪ねたときに彼女の母親から聞いた。彼女の母親は佐伯弘貢をこころよくおもっていなかった。嫌悪感を隠すことなく、始終睨むような目つきをし、言葉にも棘をこめていた。
「あんたのせいよ。あんたが不誠実だから娘はあんなことをしたのよ。なんで学校はうちの娘だけ罰して、あんたのことを咎めないのかしら? 不公平だわ。こっちの大変さも知らないで、よくもまあのうのうと。ほんとうは家にだってあげたくないけれど、あんたがどう償ってくれるのかはっきりさせないといけないからね」
「ごめんね、ツグ。いやなおもいをさせたね」
帰りがけ、マンションのエントランスで暮木ミゾノはそういってかなしんだ。彼女が母親にたいしての辛辣な言葉をつづけようとするのを、ミゾと呼んでやめさせた。
「おばさんはミゾが大切だから僕に怒ったんだよ。わかるだろう?」
夕方が近づき、おおきな窓から見える町は黒と橙の二色に散らばっていた。マンション前に幼稚園の送迎バスがとまって、こどもたちの元気な声と母親たちの笑い声が聞こえてきた。
暮木ミゾノが右手で左腕をさすった。シャツに羽織ったカーディガンが肘のところでくしゃりと縮まる。手首に巻かれている革製のブレスレットが、金具に西日を受けて一瞬だけ光った。
「ツグはなにもわるくない。わるいはずない」
おもてで園児たちが引率の先生にわかれの挨拶をしている。口をそろえたこどもたちの声と、それに応える女性の声が虹の粒子みたいにひびいた。
暮れはじめのおだやかな午後だった。こわいものなんてどこにある? 物寂しさと安堵の混在するふしぎな時間と場所で、彼女がかなしそうな顔をする謂れなんてないと佐伯弘貢は確信していた。
「ミゾがよろこんでくれることを願っていた。なのに、かなしませてしまっていたのなら、僕は僕自身をゆるせない――僕はもっとミゾのことを知りたい。ミゾがなにによろこんで、なににかなしむのか知りたい。だからこれからたくさん話してほしい。そして僕の話も聞いてくれたらうれしい」
一方的ではなく、相互に理解しあえる関係を、佐伯弘貢はつくっていきたいと誓った。
「もちろん」といった暮木ミゾノが、泣くように笑った。
携帯電話が壊れたままだから、暮木ミゾノと話すには直接会うしかない。最高じゃないか。いっしょにいたいのだから会いにいかないわけがない。
下駄箱で綾瀬一美とわかれる。「またね」というと、彼女は露骨に迷惑そうな顔をするが、ちゃんと「またな」とかえした。
靴を履き替え、表へでる。夏の名残の群青色のなかを、所在なさげに雲がかすれている。いい天気がつづいていた。
校門を目指しながら、ふと右手の特別棟へ目をむけた。駐輪場のトタン屋根のむこう、一階の窓の奥に化学室の様子が見えている。女子生徒の姿がふたりぶんあった。
ひとりは背をむけて座り、実験台でなにか手作業をしている。もうひとりは逆側の窓辺、ちょうど流し台のあたりにいた。ひらいた遮光カーテンを握ったまま外の様子を眺めていたが、見飽きたように首をいちどさげると窓辺からはなれる。ふりかえった彼女と目があう。彼女の瞼がもちあがり、凛々しさがきえた。
人と目があったことにおどろいたのか、目のあった人物が意外だったのか、それともたんに奇妙なものを見つけたつもりなのか――彼女にしてはすこし間の抜けた表情をうかべたなと佐伯弘貢はおもった。でも、隙のある表情をうかべるようになったのは、彼女にとっていいことなのだろうともおもい、目礼だけして歩きだした。
角野潤は目礼をかえしながら、自分がうかべてしまった表情を想像して苦笑してしまう。麻倉名美がそれに気づいて、ビーカーをかきまぜていた手をとめる。角野潤はなんでもないといって、彼女のむかい側の席に座った。麻倉名美は頬笑んで、ふたたび水溶液をまぜはじめた。ガラス棒にかきまわされた半透明な粒たちが、きらきらとしずかに渦巻く。
台の上に両腕を組んで伏す。右肘のあたりに頭をうずめて、見あげる角度で麻倉名美の所作を見守った。麻倉名美はほんのちょっと照れたように目を細めて作業をつづけた。さらさらと心地いい音が鳴る。
やすらかなまどろみが生まれる。平穏を感じるのはひどくひさしぶりな気がした。そんな気がして角野潤は心づく。その瞬間、「私のためにずっと、ありがとう、潤ちゃん」と麻倉名美がいった。
ちょっとだけおどろいて彼女の目を見た。麻倉名美は手もとへ視線を落としたまま言葉をつづけた。
「潤ちゃんはずっと、私がどうしたら安心していられるかを考えつづけてくれた。結晶の世話をしてくれたし、ノートを見せにきてもくれた」
「それはあたりまえのことよ。だって私がナミに学校を休むようにいったんじゃない。その責任をはたしただけよ」
「学校を休んでいいっていえたのは、状況を知った潤ちゃんだけだった。そしてちゃんといってくれたんだよ」
彼女がひとりで苦しんでいるとき、友としてかけるべき言葉なんて決まっていた。角野潤はその言葉をそのまま口にしただけだった。むしろその言葉は、かけるものとして不適切だったのではないかとおもいはじめていた。
あの日、麻倉名美が暮木ミゾノをまえにしてみせた振る舞いは、角野潤に意想外の逞しさとして映った。これほどつよくうつくしい麻倉名美を、私は閉じこめてしまっていたのではないかと不安に感じていた。
――私はナミのことを庇護していたつもりなのだろうか? そのとおりだ。それなのに、ナミが守られる必要がないほどに逞しいとわかると、裏切りとまではいわないが、話が違うというおもいをいだいている。
ずいぶん身勝手な話だと自嘲する。
「無責任なことをいっただけだよ。あとからあわててその責任をはたそうとしただけ」
「違うよ。ぜんぜん違う」
ふたたび麻倉名美は手をとめる。視線はくるくるとまわる渦とそのなかをただよう粒子にそそがれている。
「潤ちゃんがそばにいてくれたから――潤ちゃんのそばにいて、逞しさに憧れたから、私はいま、ここにこうしているんだよ」
そういって彼女は、風にゆれる花びらみたくかすかな情緒を目もとに宿す。こういう目つきができるようになったのかと角野潤は感心し、同時にやはり気づくのが遅かったのだろうかと後悔をおぼえる。
「そういってくれるのなら――」
うれしい? それとも安心する? どちらともいえなかった。もっと複雑でかならずしも温かいばかりではない感情だ。ただ、わるいものではない。心地そのものにしても、その感触にしても。すこし不満足のような、それでも居心地のいい感触はとてもひさしぶりな気もするし、あるいは初めての感覚なのかもしれなかった。
麻倉名美が小首をかしげる。いいさす角野潤をふしぎそうな目で見ている。そんな様子は以前の麻倉名美とかわらない、おさなく無邪気なものだった。
なんでもないよといって角野潤は目を閉じた。麻倉名美が言葉のつづきをせがんで腕をゆするので、だだをこねるように笑った。
窓のほとりにちいさな花が飾られている。オレンジ色のかわいた花弁が星の光のようにひらいている。麻倉名美が部屋に飾っていたヒメユリだった。来年は部室にドライフラワーではなく生花を飾るつもりらしい。
終わり
お読みいただきありがとうございました。
この作品は、もともと数年前に書いていた、原稿用紙三〇枚ていどの小編でした。内容どころか存在すら忘れたころ、ふと読み返すことがありました。すると膨らませそうなところがあるなと感じる。それで、リサイクルの精神から、だいたい二倍ぐらいの分量にして、ひさしぶりに投稿してみようとおもって連載をはじめた次第でした。
はじめから目処がたっているのだからと、新聞小説のていで毎日更新し、ながくても二、三か月くらいで終わらせる野望がありました。そうならなかったのは力不足以外のなにものでもありません。日刊が週刊となり、ついには月刊や隔月刊みたいになってしまい、誠に申し訳ございませんでした。不誠実なことをしたものです。
この作品が小編だったころ、結末はあまり気持ちのいいものではありませんでした。かなしい終わり方は、短編としては刺激的かもしれません。ですが、分量がふえていくにつれて登場人物たちにはもうすこし救いがあってもいいのではないかと感じはじめました。なので途中でプロットをおおきく変更することになり、その影響で描けなかった場面がいくつかでたのは心残りです。猫耳の角野さんとかあったのに。惜しいことをしました。
ほんとうにひさしぶりの投稿でした。おもいがけず長期の連載になってしまいましたが、結末までたどりつけて安堵しております。それもこれも、読みにきていただける方々がいたからです。あなたが読んでくれたから、角野さんたちはあたたかな場所へでていくことができました。
改めまして、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
一筆




