表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/62

-60-

 蛍光灯の不安定な明滅が角野潤の怜悧な目もとを気まぐれに照らしだす。だれもが話しかけるのをためらう気配をまとって階段をおりてきた彼女は、暮木ミゾノより三段上のところでたちどまった。両足をそろえ、はらりとゆれる黒髪が背中に落ち着いたとき、彼女の唇がひらいた。

「派手なことをしたものね。けが人がでてもおかしくなかったわ」

 彼女は諭すようにショッピングモールでの出来事を話した。暮木ミゾノは口返答ひとつなく聞いていた。もしかしたら聞いてはいなかったのかもしれない。背後に立つ佐伯弘貢からは表情が見えなかった。

「ほっといてよ。アンタには関係ないでしょ」

 角野潤が口を閉じるとすぐに暮木ミゾノはそういった。やはりすぐにでも話しを遮ってしまいたかったのだろう。だがそうできない引っかかりがあったから、角野潤の言葉を最後まで聞いたのだ。聞いたうえで、ほっといてくれと暮木ミゾノはいうのだ。

「ほっとかないわ」確然として角野潤がいう。「ナミがあなたのことを心配するのだもの」

 角野潤の言葉は孤高で独善的な猛禽類みたいに理解を求めなかった。いや彼女にとっては自明すぎることだから、説明する必要を感じていないのかもしれない。佐伯弘貢には麻倉名美が暮木ミゾノのことを心配する理由も動機もわからなければ、なぜ角野潤が彼女のおもいに同調するのかもわからなかった。

「なんでアタシのことなんか心配するのよ」

 笑い飛ばそうとして失敗したような声は、だれにむけたものなのか判然としなかった。むしろ応えが返ってくることを期待しない、返ってくるはずなどないと願うような意図がこめられていた。が、返事は斜め後方からあった。

「だって暮木さんは高校にはいって最初に声をかけてくれた人だから」

 麻倉名美は胸もとに右手をおしあて、一歩踏みこんだ。蛍光灯がゆっくりとまたたき、彼女の真剣な表情を見え隠れさせた。

「信じらんないよ」というも、やはり笑い飛ばそうとする表情はかたかった。「だってさ、アタシはアンタを苦しめたんだ。意味がわかんない。きれいごとにしか聞こえない」

 落ち着きを求めるように右手で左肩をつかむ。首だけめぐらせて麻倉名美を見ていたが、彼女がさらに一歩近づいてくると、とっさに右足を引いて段の上を壁際へ寄った。

 麻倉名美はいった。

「もちろんきれいごとだよ。私の本性は暮木さんをこわがっている。でも、私にしたことは暮木さんのただの本性でしょ? そうするのがただしいって考えていたわけではないのでしょ? だったら暮木さんを信じる理由は、よろしくねっていったあなたの笑顔だけで充分だよ」

 押し切るようにいい迫る麻倉名美に、暮木ミゾノは困惑を隠せなかった。わけわかんないといい張って威嚇できても、言葉が継いででてこない。

 麻倉名美の言葉は暮木ミゾノにしてみれば意想外のものだった。まるで根本の異なる思考からでてきたものだった。いやがらせを受けていた人間が口にできる言葉ではありえず、彼女にしてみればつよがりや皮肉に感じるかもしれないものだった。だが佐伯弘貢には麻倉名美の言葉が優等生の発言でなければ、ましてやハッピーエンドでお茶を濁した童話でもないことがわかった。

 保健室での対話で彼女が口にした願いにいつわりはなかった――佐伯弘貢はこのときはじめて、麻倉名美がどれほど逞しい心をもっているのか理解した。

「これがナミのやさしさなのよ。おもいしった?」

 角野潤が淡々としていう。無知にあきれるみたく。

 ああ、そうだ、と打ちのめされた佐伯弘貢は納得する。

 麻倉名美はやさしい。やさしすぎる。でも甘いわけではない。人をおもいやれば自分もおもいやってもらえるはずだと信じているわけでは決してない。情もなく無碍にされたり、一方的に利用されたりする現実を受け入れてなお、やさしくあろうとしている。そんな際限なく傷つきつづけてもおかしくない決意を、目のまえの同級生はしているのだ。

「あなたにそこまで求めないわ。でも、せめて弘貢くんのおもいには応えたらどう?」

 そういうと角野潤は階段を佐伯弘貢のまえまでおりてきて、肩にさげたカバンを無造作におしつけていく。湿り気をおびたカバンは彼のもので、自転車の前かごに放りっぱなしにしていたものだった。

「自転車はきみがいつも停めていたあたりにおいておいたから」

「乗ってきてくれたの?」

「私のカバンもあったからね」

 じゃあ、私たちは帰るからと佐伯弘貢の脇を抜けていく。不安げに視線をさまよわせる麻倉名美の肩に手を添えて、階段をおりるよううながす。そっけない背中にむかって、いったいなんなのよ、あんたは、と暮木ミゾノが怒鳴っても、雨にぬれてからだが冷えてるの、と、やはりうるさそうに返すだけだった。そしてふり返りもせずにその場をあとにしてしまった。

 とり残されたふたりは目と目を見あわせ、互いの眼差しに困惑を認めあった。暮木ミゾノはすぐに視線を落とすと後じさり、壁にぶつかると膝を折ってずるずるとしゃがみこむ。彼女の気力を削がれた様子は佐伯弘貢に安堵をあたえた。ひとまず手のとどかない場所へいってしまう心配はなくなった。

 佐伯弘貢は刹那の逡巡を経てから、彼女のひとつ下の段に、背をむけて座ることにした。そばにこないでと拒絶されるかもしれないとおもったが、彼女は立てた膝に額をおしつけたまま微動だにしなかった。座ると背中に肘のあたる感触がした。

 かける言葉を考えながら、しかしいつまでもこうしてふたりでいたいともおもっていると、懐に抱えこんだカバンの湿り気がブレザーとシャツとを浸透して肌に達して、彼女に渡すものがあったことをおもいださせる。カバンのなかには、御守りのようにつっこんだ教科書やノートの類が上下もなく背や腹をならべている。その上に紙袋が忘れ物みたく乗っている。水色と緑色とが鮮やかに澄んだ紙袋。雪の結晶みたいな幾何学模様がちりばめられている。

 暮木ミゾノに伝えたいことがあった。が、うまく伝えられる自信はなかった。しかしそれでも、自分自身で掴み切れていないおもいだとしても、いま伝えなければ後悔する、もう二度と伝える機会はおとずれないと感じた。

「ミゾがたとえ彼女たちにいやがらせをしていたとしても、ぜったいにそばにいるって決めていたんだ」

 人を傷つけてはいけないとあたりまえなことを空疎に諭すのではなく、苦しみを理解できなかったと悔やみ反省するものとして、彼女のとなりに図々しく座っていたい。

 傷ついたと叫んだのは彼女の本心だろう。佐伯弘貢は彼女の本心に気づけなかった。暮木ミゾノの考え方を、心のどこかで不完全なものとみなしていたのかもしれない。そんなあたりまえなことを許容できないで、自分の考えに寄り添った会話を、彼は彼女に求めすぎていたのかもしれない。

 それがすべて暮木ミゾノを苦しめた要因であるとは、傲慢に、まるで彼女の所有者であるかのように、考えたりはしない。それでも――

「ミゾがほんとうに話したいことを、僕は話させてあげられなかった。もっと、おもっていることを口にだせるように配慮するべきだった」

 麻倉名美がつよくやさしくあるように、暮木ミゾノだってまた、やさしい。そのやさしさに甘えていたのは、佐伯弘貢のほうだった。

「ミゾはいつだって僕にあわせようとしてくれていた」

 なのに僕はミゾにあわせようとしていなかった。

「ごめんね。これからはきっと、ミゾが屈託なく話せる人間になる。だから――」

 紙袋を両手にもってふり返ると、赤くした目をうっかり見ひらいた暮木ミゾノの表情がある。目と目があって困って、でも視線をはずせないままでいる彼女に紙袋を差しだす。自然と彼女の視線は手もとへ落ちるけれど、混乱したままでは「なんで?」としかいいようもない。「ほんとうは明日渡すつもりだったんだ」と佐伯弘貢はぎこちなく頬笑んだ。

「だから、これからもそばにいさせてください」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ