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ナミという名がでてからいっぺんに暮木ミゾノの意気は阻喪した。混乱しているようであり、それは佐伯弘貢も同じだった。
角野潤が暮木ミゾノに敵意をむけた理由が佐伯弘貢にはわからない。ただ名まえを繰り返しただけだった。それがどうして角野潤に影響をあたえたというのか。もしくは角野潤はその友人の名が他人の口からでるのを許せない理由があるのかもしれない。だとしたらどんな理由があるのかなんて佐伯弘貢には見当もつかなかった。
「私はナミを助けてあげたいのだけれど、そのために協力者が必要なの。弘貢くんはその協力者になってくれるとおもったの」
角野潤は対面者ふたりに疑問と困惑をあたえたことに頓着する様子もない。かつんかつんと鳴らす音もやまない。打たれているのは自分の精神なのではないかと佐伯弘貢はおもいはじめた。自分はなにか発言するべき状況にいるのではないかという気さえしてきて、それでようやく口をひらいた。
「その子はいったいどんな困った状況に陥っているの?」
佐伯弘貢の問いかけに角野潤はあいまいに頬笑む。まだそこまで話せるほど、私はきみのことを知らないと言った。話せないと突きつけられたことよりも、ふたたびあらわれた角野潤のおだやかな表情のほうに佐伯弘貢は気をとられた。叱られたあとにむけられる優しさのようで、どうにもいたたまれない気分になった。
「でも、やはりきみは困っている人を捨ておけない稀有な性格をしているみたいだから、すくなからず信頼しているわ」
「朝夕に送り迎えしていること?」
「それもある」と角野潤はうなずく。同時に弁当箱を箸でたたく動作もやめた。化学室は沈黙し、校内の喧騒が遠く見えない花火みたいに聞こえてくる。佐伯弘貢は暮木ミゾノの手においた指先に彼女の流動を感じた。一秒毎に空気が馴染んでいくのもわかる。それがいいことなのかどうかはわからなかったが、ひとまず安堵できる気配が生まれつつあった。
「ご飯を食べましょう。走ったあとで疲れているでしょう」
角野潤の声調のかわった二度めの慫慂にようやく暮木ミゾノは応じる。佐伯弘貢に顔をむけ、それを合図に彼は暮木ミゾノの手をはなした。暮木ミゾノは弁当包の結びめをほどき、すこし粗暴に弁当箱の蓋を開けて食事をはじめる。佐伯弘貢はその所作を見守ってから、角野潤がつくった弁当を手にとった。
食事を摂りながら、ぶつぎりに暮木ミゾノは角野潤にいくつかの質問をした。佐伯弘貢がいつ角野潤のボディーガードをするのかと問えば、私が家の外にいるときならいつでもと返される。それは休みの日であってもなのかと問えば肯定される。外出の予定があればあらかじめ佐伯弘貢に伝えるし、佐伯弘貢の予定のほうを優先するとも角野潤はつけ加えた。
学校内であっても佐伯弘貢がそばにいなければいけないのか、とさほど強くない口調で暮木ミゾノは尋ねた。角野潤は佐伯弘貢に話したことと違わず、その必要があると答える。
「角野さんは学校内にも危険があるとおもっているの?」
「保険みたいなものよ。私は小心者なの」
暮木ミゾノが角野潤の説明に納得しきれていないのは明らかだった。どれくらいの期間この状況が続くのかという問いに、ひと月だという答えが返ってきて眉をしかめる。しかし、むりやりにでも自分を納得させたのかそれ以上追及しなかった。




