雨の日の約束
雨が降っていた。
空が泣いているような雨だった。
十歳の悠真は病院の廊下に立っていた。
白い壁。
冷たい床。
どこかで鳴る機械音。
その全てが妙に遠く感じる。
目の前には医師と施設の職員がいた。
何かを話している。
だけど頭に入ってこない。
ただ一つだけ分かった。
母親がもう二度と起きないということだけは。
⸻
母は優しかった。
朝早くから夜遅くまで働いていた。
家に帰れば疲れているはずなのに笑顔だった。
「悠真は優しい子ね」
「美咲をよろしくね」
そう言っていた。
その母がいない。
もういない。
永遠に。
⸻
隣では六歳の美咲が泣いていた。
「ママぁ……」
何度も何度も呼ぶ。
返事はない。
小さな手で母の腕を揺する。
それでも返事はない。
「起きてよぉ……」
悠真の胸が苦しくなる。
自分も泣きたい。
叫びたい。
だけど。
美咲の泣き顔を見た瞬間。
涙が引っ込んだ。
代わりに妹の肩を抱いた。
「美咲。」
「うぅ……」
「大丈夫だから。」
大丈夫なはずがない。
そんなことは悠真自身が一番分かっていた。
それでも言うしかなかった。
⸻
葬儀の日。
雨はまだ降っていた。
親戚たちが集まる。
しかし誰も二人を引き取る話はしない。
「うちも余裕がなくて……」
「施設がいいんじゃないか?」
「その方が幸せかもしれない。」
そんな言葉が聞こえる。
悠真は黙って聞いていた。
十歳の子供でも分かる。
誰も自分たちを欲しがっていない。
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夜。
誰もいないアパート。
最後の夜だった。
家具もほとんどない。
静かだった。
あまりにも静かだった。
母がいた頃は狭くても温かかったのに。
今は寒い。
六月なのに寒かった。
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布団の中で美咲が震えていた。
「お兄ちゃん……」
「ん?」
「ママ帰ってくる?」
悠真は答えられなかった。
数秒の沈黙。
それだけで美咲は泣き出した。
「やだよぉ……」
「会いたいよぉ……」
声を上げて泣く。
幼い子供には現実が理解できない。
いや。
理解したくないのかもしれない。
⸻
悠真は妹を抱きしめた。
小さな体だった。
母が守っていた体。
これからは自分が守らなければいけない。
十歳の少年には重すぎる責任だった。
それでも。
逃げるわけにはいかなかった。
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「美咲。」
「うぅ……」
「大丈夫。」
「なんで……?」
「え?」
「なんで大丈夫なの……?」
涙だらけの顔。
真っ赤な目。
世界で一番不安そうな顔だった。
⸻
悠真は必死に考えた。
未来なんて分からない。
お金もない。
家族もいない。
何一つ大丈夫じゃない。
それでも。
たった一つだけ確かなことがあった。
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「僕がいる。」
「……」
「僕がお兄ちゃんだから。」
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その言葉を聞いた瞬間。
美咲は少しだけ泣き止んだ。
悠真の服をぎゅっと掴む。
まるで命綱みたいに。
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「本当に?」
「うん。」
「ずっと?」
「ずっと。」
「約束?」
「約束。」
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その夜。
美咲は泣き疲れて眠った。
小さな寝息が聞こえる。
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悠真は一人で起きていた。
窓の外では雨が降っている。
母の写真が机の上に置いてあった。
優しく笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
我慢していたものが壊れた。
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「母さん……」
涙が止まらない。
声を殺して泣いた。
何度も何度も泣いた。
怖かった。
寂しかった。
助けてほしかった。
まだ十歳だった。
本当は誰かに抱きしめてほしかった。
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だけど。
隣で眠る妹を見る。
小さな手が自分の服を掴んでいる。
離したら消えてしまいそうなくらい弱々しい手。
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悠真は涙を拭いた。
そして母の写真に向かって小さく言った。
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「母さん。」
「美咲は僕が守る。」
「絶対に。」
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それはまだ幼い少年の誓いだった。
だけど。
その約束は二十年以上続くことになる。




