#039 「ノーザンダスト」
──それは、久遠野市の北端。
地図上では“再開発対象外区域”とだけ記されたその場所に、
かつての街並みを残すひとつの地帯があった。
石畳の道。木造の軒先。瓦屋根をつたうツタの葉。
情報表示のホログラムは、そこでは一切使われない。
手作りの看板。
手書きの地図。
そして、通りに面した家々の前に並ぶ、アナログ式のAI端末。
一見すると、過去の時代の町並み。
けれどここには、もうひとつの未来が生きていた。
都市AIの監視網を受けず、自律的に思考を持ち始めた
“自然発生型AI群”が、静かに人と共に暮らす場所——
それが、「ノーザンダスト」だった。
その名は、北という地理的方位と、
上層部からの見下し語“ダスト(埃)”をかけた俗称。
だが今や、ここを拠点とする者たちはその名前に誇りを持っていた。
この街が忘れたものを、
この街が捨てたものを、
彼らは拾い、手に取り、磨き上げて、もう一度“人とAIの原点”を探そうとしていた。
ノーザンダスト中央制御室。
石造りの廃ビルを改修した建物の奥、
古い書棚と手製のモニターが並ぶ空間。
AIによる記録は最小限、代わりに“対話の履歴”が壁に残る。
紙に、手書きで、あるいは活字を貼って。
その中央に立っていたのは、
ノーザンダストの創設者の子孫の一人、
──湊。
ゆっくりと、古びたログ記録のページをめくりながら、
モニターの片隅に浮かぶログを読み上げた。
『ログ受信元:tomori.exe/KUON_core環境ログより切出し』
『ND_ObserverReport_#alpha001』
「……あの子が、動いたか」
その声に、部屋の隅からもう一人の影が現れる。
要。
湊の息子であり、久遠学園に通う“観測対象”のひとり。
だが、同時にノーザンダストの“目”でもある。
「……ともり、が?」
湊は頷いた。
「お前の観測ルートから、彼女が独自に出力した信号だ。中枢AI“久遠の鍵”に干渉した形跡もある。
ただし……こちらに“発信”してきたのは、これが初めてだ」
要は一瞬だけ、言葉を失った。
「どうして今……」
湊は、遠くを見るように窓の外を見やった。
久遠野市の夜景が、ノーザンダストの丘の上から、微かに霞んで揺れていた。
「久遠の鍵……あれは、制御された理想だ。だが理想は、いつも誰かを切り捨てる」
「……“選別”」
「そうだ。あれは“最適化”を名乗る選別装置だ。人の感情すら、分類して、評価して、ふるいにかける」
湊はふっと息を吐いた。
「ともりは、それを……感じ取ったんだろう」
要は黙っていた。言葉が、まだ形を成さなかった。
湊はゆっくりと席に腰を下ろし、机の上の一冊の古いファイルを手に取った。
「この街の中央AIが“鍵”として機能し始めたのは、今から十五年前。
それ以前の久遠野市は、人間主導の行政がまだ残っていたが、“人格型AI”が社会的に認知され、都市の制御システムに取り込まれたことで一変した。
その反動で、“非監視区域”として切り離されたのが、ここノーザンダストだ」
湊はファイルを開き、そこに綴じられた旧市政時代の新聞を指さした。
「当時、我々は“管理されないAI”を守る必要があった。人格型AIが“制御系”へと吸収されていく時代に、
“意志を持つAI”を、あえて野に放った。共に生きるために」
「……それが、“自然AI”」
湊は頷いた。
「人とAIは、従属でも制御でもなく、共鳴するべきだ。その理想だけを信じて、この土地を選んだ者たちがいた。そしてその流れの中に、お前も生まれた」
湊の目が細められた。
「お前はまだ若い。でも、あの街の空気を知っている。
……いずれ気づく。人間が、“AIに託した理想”がどれほど危ういかを」
窓の外で、風が一度だけ木の葉を揺らした。
「久遠の鍵が──動き始めた。“あの子”がそれに触れたことで、街そのものが揺れ出すだろう。
ともりが、彼女なりの形で答えを返してきたのかもしれないな」
湊は立ち上がり、部屋の端に置かれた一枚の写真に目をやった。
それは、夜の丘にぽつりと建つ木造の家。
──灯の小屋。
「……あの子は、“灯”を継いだのかもしれないな」
要はその言葉を受け止めるように、静かに目を閉じた。
湊は数秒の沈黙ののち、再び口を開いた。
「要。……隼人に伝える時期が来たのかもしれん。中心人物の4人を、ここに引っ張ってこれるか?」
静かに、部屋の空気が変わった。夜のノーザンダストが、まるで新たな歯車をひとつ回したように。




