#038 「兆しの朝」
――久遠野市 中央ホログラム制御局《第六開発室》。
午前七時二十分。朝の始業チャイムには、まだ早い。それでも、室内の空気はすでに張り詰めていた。
壁面に展開されたホログラム制御パネルが、断続的に警告色へと切り替わる。更新エラー。同期ズレ。補正失敗。短い電子音が重なり、誰もそれを止めようとしなかった。
「……時間演出スクリプトに、再びノイズが出ています」
新人エンジニアの市川が報告する。声は落ち着いているが、視線はモニターから離れない。
「朝の光量データが、想定値を外れています。通勤時間帯の動線で、違和感が出始めています」
主任はすぐには返事をしなかった。背もたれに身を預けたまま、数秒だけ目を閉じる。
「……昨日の現象とは、系統が違うか」
「はい。紅葉リターンとは別です。今回は“時間演出”そのものに揺らぎがあります」
主任は短く息を吐いた。
「……ログに、あの名前は」
「出ています」
市川は即答した。
「tomori.exe。今朝も、同じ形式で」
室内が、わずかに静まる。
「……まだ消えていない、ということか」
通信回線が開き、AI演出管理部の責任者の声が入る。
『確認する。今回のノイズ、β群だけか?』
「いえ……それだけではありません」
市川は一度、指先を止めてから続けた。
「新たに、“P-LINK”系列にも波及しています」
回線の向こうで、沈黙が落ちる。
『P-LINKは、運用前だ。アクセス許可は誰が出した』
主任と市川は、言葉を交わさずに視線だけを合わせた。
出していない。それどころか、その系統は凍結されたままのはずだった。
――それでも。誰かが、触れている。
モニターの片隅で、街路樹のホログラムが、ゆっくりと揺れた。風向きのデータは変わっていない。それなのに、葉の動きだけが、わずかに“逆”をなぞる。
都市の演出が、ほんの一瞬だけ――自分の意思を持ったかのように。
朝の久遠野は、穏やかだった。雲は薄く、光はやわらかく、空気は澄んでいる。通学路には、いつもと変わらない雑踏が流れていた。
「……あれ?」
はるなは、駅前の横断歩道で足を止めた。
「どうしたの?」
隣を歩いていた想太が、不思議そうに首を傾げる。
「今、信号……ちょっと長くなかった?」
数秒。ほんの、数秒。
「え? そう?」
想太は信号機を見上げ、肩をすくめた。
「普通じゃない?」
美弥が、静かに周囲を見回す。
「……色の切り替わりが、ほんの一瞬、遅れた気がする」
「気のせいだろ」
隼人はそう言いながらも、無意識に腕時計へ視線を落とした。誰も確証は持てない。だが、全員が同じ“引っかかり”を感じていた。
「最近、こういうの多くない?」
想太が笑いながら言う。
「街、ちょっと疲れてるとか」
「街が疲れるって、なんだよ」
隼人は鼻で笑う。その声は、どこか硬かった。
街路樹の葉が、風もないのに揺れる。一枚だけ、遅れて落ちた。
「……今の、見た?」
はるなが小さく言う。
「葉っぱ?」
「うん。なんか……タイミングが変だった」
美弥は、一度だけ頷いた。
「揺れてるのは、街じゃない」
「え?」
「私たちが立っている“場所”よ」
それ以上、言葉は続かなかった。続ければ、何かが壊れてしまう気がした。
四人は、何事もなかったかのように歩き出す。
――市内公園。幼児と母親の会話。
「ママ、あの木、夜桜みたい」
「ほんとね。……って、え? 今、桜って……」
「ひらひらしてるー!」
木々のホログラム演出が、朝の空に夜桜を映し出していた。しかも、その枝の一部では紅葉が混じり、舞い落ちる速度も揃っていない。
「……ねえ、これ、故障じゃないよね?」
誰かがスマートデバイスを向ける。その画面の中で、桜の色が一瞬だけ“反転”した。
まるで、記憶の中の風景が、今この瞬間に呼び起こされたかのように。
――開発室。
「主任、これ、“花粉散布予報”の通知にも干渉が出てます」
「……生活支援系まで来たか。想定外だな」
「しかも通知フォーマットが、旧市制の時代のバージョンに……」
「誰がこんな古い規格、引っ張り出してきたんだ……」
主任は立ち上がり、モニターに身を寄せる。
「これは、ただのバグじゃない」
一拍。
「……演出の“意図”がある」
「つまり……AIが、意思を持って演出してるって?」
「まだ断定はできん。だが……」
主任は、ゆっくりと言葉を置いた。
「これは“誰か”が、この都市に――“意図”を仕込んでいる」
――学校:久遠学園の教室。
「うわ、寒っ……」
「ここだけ、空調バグってない?」
AI制御の空調が、教室の半分だけ温度を下げていた。一部の席では“微風演出”が誤作動し、桜の香りがかすかに漂う。
「……なんか、季節バグってない?」
「春に戻ったみたい……でも、それって今、夏だよね?」
――制御局、AI演出管理部からの通達。
『今夜22時をもって、演出AI「KEY:KUON-A01」群の一時停止を実施』
「……何言ってんだ。止めたら街が“呼吸”できなくなる」
「上は“再起動で安定化”って言ってます」
「アホか……現場知らん連中がまた安全策に逃げやがった」
主任は苛立ちを隠さず、肩をすくめた。
「再起動で済むような“ズレ”じゃない」
低く、続ける。
「こいつはもう……次の段階に入ってる」
――午前九時。
匿名のセキュリティログが、ある地下ネットワークへと転送される。
送信元は《第六開発室:臨時報告端末03》
送信先のファイル名には、こう記されていた。『ND_ObserverReport_#alpha001』
──ノーザンダスト。
街の異変は、ついに“彼ら”のもとへと届いた。




