第12話 あなたの幸せ
私を振り返ったテオドリックの瞳が、かすかに揺れた。
「なんだ」
低く、抑えた声音。
私は、一体何をしているんだろう。
なぜ、呼び止めてしまったのか。
これ以上、余計なことをするべきではないのに。
ちらり、と視線を聖剣へ向ける。
柄がわずかに光を帯び、静かにそこに在る。
(この機会を逃すわけにはいかない。
たとえ、疑われたとしても――)
「首が痛むのですか?」
空気がぴんと張り詰める。
テオドリックの口元が、引き締まる。
私は静かに椅子から立ち上がり、背筋を伸ばして彼を見上げた。
「夜会でも、腕を庇われていましたね」
呪いについて何も知らぬふりをして、妃としての態度を崩さず――
あえて、彼の袖口から覗く痣へと指先を伸ばす。
その瞬間だった。
鋭く息を飲んだテオドリックが、私の手を思い切り振り払った。
触れる前に、鋭く拒絶された。
わずかな衝撃が、胸の奥に刺さる。
それでも、狙い通りだ。
手を振り払われた勢いを利用し、不自然さを見せないよう体勢を崩した。
その動きのなかで、聖剣の柄に──指先をかすめた。
瞬間。
焼けるような激痛が、指先を貫いた。
骨の奥まで達し、脳天にまで突き抜けるような魔力の痺れ。
「……ッ」
鞘を失ったことで、魔力が暴走しているのだろうか。
聖剣がこれほどまでに、荒れ狂った魔力を持つとは。
表情を崩さぬよう、必死に堪える。
剣に触れた指をぎゅっと握り込んだ。
「どうされたのです、陛下」
振り払われたショックを隠し切れない妃を装い、演技を続ける。
テオドリックの目が、わずかに見開かれた。
「…………」
言葉が喉で止まる。
(……どうなる)
緊張で気が遠くなりそうだ。
ひと呼吸が異様に長く感じられた。
彼は、じっと私を見据えたまま動かない。
疑い、探るようなまなざし。
だが──そのまま、小さく息をついた。
「気安く、この痣に触れるな」
その声音からは、何の感情も読み取れない。
「申し訳ございません。心配で、つい……」
私は伏し目がちに答える。
彼の視線が、私の姿をなぞるように流れた。
顎に指を添え、何かを堪えるような仕草。
あるいは、言葉を選んでいるようにも見えた。
私はただ、立ち尽くした。
振り払われた手のひらが熱く、剣に触れた指先は今も痺れていた。
ふと彼の瞳に、翳りが差す。
「寒いのか」
「……え?」
無意識に自分の身体を抱いていたことに、初めて気づいた。
震えていたのは、寒さか、恐れか……。
テオドリックは無言で襟元に手をやると、
シャツの上に羽織っていた上着を、肩から滑らせるように脱いだ。
ふわりと柔らかな布地が揺れて──
それが、私の肩にそっと掛けられた。
「夜はさらに冷える」
いつかのように。
まるで、そうするのが当たり前であるかのように。
……あの頃の彼と、何も変わらない手つきで。
「あ、ありがとうございます……」
震える声でそう返し、上着の裾をぎゅっと握りしめた。
テオドリックは視線を逸らし、何かを振り払うように背を向ける。
「厚手の布を手配させる。朝になったら戻れ」
それだけを言い残し、部屋の扉へ向かっていった。
バタンと閉ざされた音が、乾いた空気を切り裂いた。
(疑いは晴れた? それとも、ただの保留?)
わからない。
(でも、今夜は――とりあえず見逃された)
身体から力が抜け、膝が崩れる。
床に手をつき、そのまま肩で息を吐く。
(身が持たない……)
額に手を当て、ぐったりと項垂れる。
けれど、肩に掛けられた上着はまだ温かい。
テオドリックの体温が、じんわりと染み込んでくるようだ。
しばらくのあいだ、ぼんやりとしたまま時を過ごした。
しかし、ぶるりと寒気が襲ってきて、たまらずくしゃみをした。
ちらりと寝台に目をやる。
(さすがに、あそこで眠るのは……)
妃としての自分が使うには、おこがましい気がした。
自分を戒めるように小さく首を振り、ソファへと歩を進める。
腰を下ろしてゆっくり横たわると、
思った以上に柔らかいクッションが疲れた身体を包み込む。
視線を巡らせる。
この部屋には、彼の趣味が色濃く反映されていた。
寝台の上に飾られた絵画。
魔法がかけられていて、青空から星空へと美しく移ろっていく。
──星を愛するテオドリックらしい。
机の上には本が積まれ、難しそうな書籍の隙間に、
見覚えのある冒険小説が挟まっていた。
かつて「読破したい」と口にしていた一冊だ。
(まだ、読み切れていないのね)
そこかしこに、面影がある。
思い出と繋がった、痕跡たち。
「……テオ」
言ってはいけない。
呼んではいけない。
それなのに、唇から零れてしまう。
……私は、彼に殺されるほど、恨まれているのに。
瞼を閉じ、呼吸を整える。
こんな気持ちになるなんて、どうかしている。
(あれほど詰問されたあとなのに)
言葉を交わすたびに、視線を重ねるその度に、心が揺れてしまう。
(それより、今はやらなきゃいけないことがあるでしょ)
深く息を吐き、思考を切り替える。
意識を、柄に触れた手のひらへ集中させた。
かすかに、魔力の流れが感知される。
(……聖剣の波長……)
ただ感じ取るだけでは足りない。
このままでは、見落としてしまう。
――もっと奥へ、深くまで
目元に触れながら、そっと詠唱する。
「辿れ、因果の糸」
視界が歪む。
焦点がずれたように、色が抜け、空間がざらついていく。
白と黒――いや、灰色に煤けた世界。
浮かび上がるのは、無数の痕。
魔力が通った跡だけが、細い筋となって漂っている。
だが、それは『栄華の鏡』のような整った糸ではなかった。
ほどけ、裂け、断ち切られていた。
繊維のように絡み合うはずの魔力は、
途中で寸断され、痕跡すら不完全なまま、空中で霞んでいた。
(……散らばっている?)
鞘の痕跡――その破片は、後宮のいたるところに散らばっていた。
魔力の形を保ったまま、砕けた欠片となり、空間のあちこちに引っかかっている。
まるで硬い装飾品を叩き割ったように、小さな粒となって浮遊し、
気づかれぬまま、静かに空気のなかを漂っていた。
(まさか鞘が砕けているなんて……)
そんなこと、考えもしなかった。
同時に、異変に気づく。
糸たちは収束することなく、途中でぷつりと途切れていた。
中心へ向かうはずの筋は、すべて宙で寸断されている。
空間にはぽっかりと、魔力の流れが届かない空洞があった。
最初から、核など存在しなかったかのように。
(核が……見えない。いや、遮断されている?)
さらに意識を深めようとした、そのとき。
バチンッ――!!
「……ッ!?」
頭の奥で閃光が弾け、視界が一瞬、真っ白に染まった。
(……何? 今の……)
単なる拒絶ではない。
まるで核そのものが、誰にも見つけられたくないと訴えているかのような――。
(鞘に、意思がある?)
まるで、栄華の鏡のようだ。
背筋を冷たい舌で撫でられたような感覚に、身震いする。
聖剣といえど、魔道具の一種。
魔道具が意思を持つことなど、あり得ないはず。
一体、何が起きているのか。
(もし核に触れたら、私は無事でいられる……?)
でも、恐れている暇はない。
砕けた鞘の欠片と、隠された核。
どちらかひとつでも欠ければ彼は――間に合わなくなる。
血の気が引いていくような気がした。
本当に、私は鞘を取り戻せるのか。
いっそ、テオドリックにこの事実を伝えるべきじゃないか?
もし彼が、私の言葉を信じてくれるなら――。
肩にかかった上着を、そっと握る。
(これは、シャロン・ファルネスという妃への情)
ミルディナに対してのものではない。
彼が私の言葉を信じてくれる保証は、どこにもない。
(もし伝えられないまま処刑されれば、テオドリックが助かる道は完全に断たれてしまう)
(せめて、もう少し……時間があれば)
そこまで考えて、ふと思う。
(もしも無事に、テオドリックの呪いが解けたとして――)
その時、私は?
胸に小さな痛みが走った。
……兄たちが待つ故郷へ帰る?
それとも、このまま後宮に残る?
自分の唇に指を当てた。
テオドリックの幸せを望んでいるはずなのに、
まるで彼が誰かを選ぶ姿を目の当たりにするのを、怖がっているようじゃないか。
(やめよう)
考えるのは、あと。
身体はもう限界に近い。
変身魔法の維持、封魔の環の負荷。
……疲れすぎている。
(でも、気を抜けない)
テオドリックがいつ戻ってくるかもわからない。
それでも、意識は沈んでいく。
上着を抱きしめた。
懐かしい匂いが胸に満ちる。
目尻に熱いものがこみあがる。
こらえるつもりだったのに、胸の奥で何かがほどけた。
私の嗚咽が、静かな夜をかすかに揺らした。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
少しずつ想いが交差していく第2章は、次回――
第30話「君に触れたら(テオドリックSide)」にて完結となります。
これからも物語の続きを、見届けていただけたら嬉しいです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




