第5話 反撃の囁き
(……見られていた。ずっと)
香炉から漂う馥郁とした香りが、鼻腔の奥をくすぐる。
単なる嗜みではなく、意識を微かに鈍らせ、思考をぼやけさせる作用を持っていた。
鏡に気づかせないようにするための、結界の一部のように思える。
これは、狂気だ。
美しさへの異常なまでの渇望。
他者の視線なくして自我を保てない、絶え間ない監視への依存。
そして、病的とすらいえる執着。
この場にいるだけで、徐々にグリゼナの欲望に呑まれていくようだ。
胸のざわつきを悟られぬように、
涼しげな所作を装いながら、私はゆっくりと首をめぐらせた。
そのとき――ロロと目が合った。
彼女のまなざしが、かすかに陰る。
わずかに眉を寄せると、そっと口元に人差し指を立てた。
(……気づいてたのね)
『黙っていろ』――静かな合図であり、無言の戒め。
(わかってる。でも……)
私は息を浅く吸い、心拍を落ち着けようと努めた。
あまり魔法を使いたくはない。
(……けれど、視るだけなら)
目元を拭う仕草を装いながら、指先へわずかに魔力を込める。
誰の耳にも届かぬよう、囁くように短く詠唱する。
「辿れ、因果の糸」
音も振動もなく、世界が静かに裏返る。
目の前の光景から色彩が剥がれ、白と黒の世界が広がっていく。
その中で、ひときわ目立つ淡い輝き。
――魔力の流れだけが、細い絹糸のように浮かび上がった。
月光を浴びて立ち上る薄靄のように、
繊細で儚い魔力の筋たちは、空気を漂い、絡み合い、揺らめいていた。
糸の群れは、なにかに導かれるように一方向へと向かっている。
すべては、あの手鏡へと収束していった。
蜘蛛が張った、精微な網のように、中心から放たれた魔の糸は、
広間のあらゆる隅々にまで、静かに、確かに、染み渡っている。
さらにそれは、ジャッロ・マナーの外にまで広がっていた。
ノワール・マナーの衣装室。
応接間。
そして――私の部屋までが、その糸に囚われていた。
気づかぬうちに絡め取られ、知らぬうちに、この"巣"の一部となっていたのだ。
(……あの手鏡が、核で間違いなさそうね)
自ら砕いた「栄華の鏡」の破片を、グリゼナは他の鏡に紛れこませたのだろう。
そのうえで、高度な連結魔法……
おそらく『部品一体化』の術式をかけているはずだ。
鏡は、抵抗されれば証拠ごと壊れるように仕組まれていた。
監視網の存在が露見することへの恐怖。
だが、それ以上に、そのリクスを犯してでも、目を離したくない理由が、そこにはあった。
(……この規模の制御には……膨大な魔力が必要になる)
個人の力量では到底維持できぬはずの魔術。
グリゼナの身体のどこに、それほどの力が秘められているというのか?
――いや、違う。
ゆっくり瞬きをし、魔法を解除する。
『……もう何人も行方不明になってるんだよ』
頭の奥で、ルカの声が低く反響した。
(……他人から、魔力を奪っている)
おそらく、すでに……ニアも。
(――これは、ただの監視じゃない)
もっと重く、もっと深い罪の匂いがする。
心が沈んでいく。私は広間全体へ視線を送った。
華やかな装飾と絢爛な笑みの裏で、一体どれだけの声が闇に消えていったのだろう。
(……止めなきゃ)
けれど、どうやって?
この場で声をあげれば、たちまち注目の的となる。
敵も味方も入り乱れるこの広間で、
判断を一つ誤れば、今度こそ命取りになるかもしれない。
それに――
私は、テオドリックの影を遠巻きに捉えた。
視界の端に映るだけで、重圧に胸が軋む。
彼の在る場所は、ただそれだけで制圧されていた。
(あの人に感づかれたら、おしまいだ)
テーブルの下で、両手の指を強く組む。
(黙っているべきか……)
『……何があっても、影妃さまは耐えること。
それが、後宮での賢い生き方でございます』
(でも――)
『……呪いだとしても、受け入れるしかないんだよ』
(私がここで動かなければ、また人が消える)
(……怖気づいてどうするの、ミルディナ)
私は、ロロの方へ視線を向けた。
彼女は飄々とした態度でグラスを傾け、頬杖をついたまま、涼しい顔をしている。
異様な状況であってなお、微塵の動揺も見せないその胆力に、思わず感心してしまう。
小さな決意が、胸の奥に灯る。
(……ごめん、巻き込む)
「ねえ、ロロさま。やっぱり、あの鏡おかしいですよね?」
「へ?」
一見軽口のようでいて、確実に場の温度を変えるには十分だった。
ロロは目を見開いたまま、息を詰めた。
空気がぴしりと弾け、あらゆる視線がこちらへと雪崩れ込んできた。
テオドリックの冷たく鋭いまなざしが、刺すように私を貫く。
ちらりと、その視線がロロにも注がれ――
その威圧感に恐縮した彼女は、思わずグラスを傾けた。
ぱしゃり、と音がして、花夜酒が膝元を濡らす。
が、ロロはそれを拭う余裕すらなかった。
「な、なによ、あんた。黙ってなさいよ……!」
声を抑えながら、彼女は身を乗り出して私に牽制する。
その表情には、怒りとも困惑ともつかない、怯えが滲んでいた。
「あ、ごめんなさい。つい……」
恐れたふうに目を伏せながらも、私はそっと、広間の気配を探った。
背筋に沿って流れる汗が、冷たく感じられた。
直後。
「何がおかしいって?」
グリゼナのしわがれた声が、響いてきた。
声音には、嘲りも怒りもない。
だが、その無感情さこそが、底知れぬ不気味さを纏っている。
「いえ……。ただ、あまりお手を触れないほうが、よろしいのではと思いまして……」
「はあ?」
「ひぃ、どうかお許しを……」
哀願するように声を落とし、口元に手を添える。
ただ、声が震えているのは、演技ではない。
この沈黙のなかで言葉を放つのは、あまりにも恐ろしい。
あちこちからじろじろと突き刺さるような視線が、肌の表面をなぞってくる。
「何か知っているのか?」
テオドリックは私に向き直ると、詰問するように問いかけてきた。
鋭さの奥にある苛立ちや猜疑が、隠そうともせず滲んでいた。
――彼に真正面から見据えられる、その重圧。
けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
ぐっと唇を噛み、顔をあげた。
「……恐れながら。その……魔力が、普通ではなく……
少しだけ……気味が悪いなと……」
ざわ、と。
皆が近くの者と目配せをしあいながら、言葉の続きを待っている。
誰かの喉が鳴る音が、やけに大きく響いた。
空気が、わずかにうねる。
テオドリックは、唇の端をわずかに引き締めた。
彼の沈黙が、さらに周囲へ緊張を伝播させていく。
「この後宮に来てから、何かに見られているような……
視線を……ずっと、感じていたんです……」
「……それ、あたしも」
ぽつりと、ユリが呟いた。
反射的な言葉。
すぐに慌てたように両手で口を覆ったが、
その声はしっかりと、広間に響いていた。
心の奥に押し込めていた不安が、思わず溢れたのだろう。
「……それが、あたしの鏡と何の関係があるっていうの」
グリゼナは、苛立たしげに私を見据える。
「……はい。私が壊してしまったグリゼナさまの鏡と、栄華の鏡、でしたっけ……?
その魔道具の魔力が、どこか似ているような……」
「……」
「栄華の鏡が、他の鏡と繋がっている……そんな風に、思えて。
……でもそれが何を意味するのか、はっきりとは……」
グリゼナの顔から、徐々に血の気が引いていく。
唇がわずかに震え、瞬きを忘れたように、こちらを凝視する。
私は彼女の琥珀色の瞳を、じっと見つめた。
「グリゼナさまも、お気をつけたほうがよろしいかと」
「……なにを」
「だって、今も――……ほら。
見られているような気がしませんか」
私は、壁一面の絵画とタペストリーに視線を這わせた。
その仕草につられるように、周囲も次々とそちらへ顔を向ける。
だが、テオドリックだけは、グリゼナから目を逸らさなかった。
いつも読んで頂きありがとうございます。
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どれも本当に励みになっています。心から感謝しています。
グリゼナ編も、いよいよ、あと二話で完結。
そして、シャロンとテオドリック――
ふたりだけの、静かで、緊張を孕んだ夜が訪れます。
引き続き、楽しんで頂けたら嬉しいです。
これからも、シャロンとテオをよろしくお願いいたします。




