113. 晴れの装い、潜む影
屋敷での生活を繰り返すうち、次第にここでの暮らしにも慣れてきた。
午前中はアルフィオの講義。神話や歴史に算術、入試対策をみっちり詰め込まれる。私自身は楽しく勉強しているけれど、毎日の指導を客観的に振り返ると、勉強の習慣のない平民の子どもなら、三日とたたずに音を上げるのではないかという詰め込みぶりである。
そして午後は、侍女頭のパルミラから礼儀作法の授業を受けていた。
「アリーチェ様、背筋に気をつけて。もう少し指先を意識して優雅に……そう、その調子でございます」
パルミラはいかにも侍女頭といった風格で、ひとたび視線を向けられると自然と背筋が伸びてしまうような、凛とした厳格な雰囲気の女性だ。しかもキアーラの母親でもある。
実際に接してみると、ふとした瞬間に柔らかな気遣いがのぞく人で、見た目ほど冷たいわけではないとすぐに分かった。それでも――礼儀作法の授業だけは、容赦なく厳しかった。
そして、さらに分かったことは、パルミラとその夫はかつてイグナツィオ様のお母様に仕えていたらしく、今ではその息子であるイグナツィオ様に親子三人で仕えているそうだ。
代々仕えるという話は、貴族ではそれなりにあることみたいだけれど、その忠誠心の厚さに驚いた。
授業が終わった後の空いた時間は、基本的に屋敷の図書室で本を読んで過ごす。キアーラに嗜みとして刺繍をしてはどうかと提案されたけれど、今は学ぶことを優先したいからと言って断った。
どうやら、勉強漬けの息抜きのために提案してくれたようだけれど、私からしたら刺繍よりも気ままな読書のほうがよほど気晴らしになった。
そんな生活を続けること三日。注文していた服が仕上がったとの知らせが届いた。
屋敷に来てすぐの頃、服飾商会が呼ばれて、オーダーメイドで何着も服を注文したけれど、今回届いた一着は大急ぎで仕立ててもらったものだ。
(お急ぎ料金……高かっただろうなぁ……)
届いた服を見ながら思わずそんな事を考えてしまうあたり、私の金銭感覚はまだまだ庶民のままだった。
至急で一着服を仕立ててもらったのには理由がある。カーザエルラ公爵との正式な謁見のためだ。
ここに身を寄せている以上、いつかは会わなければいけない相手なのは分かるけれど、わざわざ衣装を仕立てて挑むあたり、気軽な顔合わせではないのは明らかだった。
そして当然、公爵に会うということは、公爵夫人にも会うということを意味する。夫人はイグナツィオ様と対立している相手であることを思えば、緊張するなと言うほうが無理な話だった。
迎えた謁見当日の朝、私は朝早くに起こされ、すぐにキアーラとパルミラの二人がかりによる念入りなお手入れが始まった。
朝からお風呂に入って肌を整え、髪を梳き、化粧を施され、徹底的に磨き上げられていく。
「アリーチェ様、まっすぐ前を。……はい、じっとそのままで」
「髪は一部を高めにまとめて、このリボンを……そう、可愛らしいわね」
袖を通したのは、もちろんこの前仕上がったばかりの衣装。鮮やかな水色の布を惜しみなく使った、軽やかで華やかな一着だ。
「……すごい」
鏡の中には、いつもとはまるで別人の私がいた。メリッサの練習に付き合っていたから、化粧された自分の顔はそれなりに見慣れていたけれど、衣装が豪華になるとこんなにもより華やかになるものかと驚く。
鏡に映った私は、どこからどう見ても立派な貴族令嬢にしか見えなかった。
そして、鏡に見入る私よりも盛り上がっていたのは、パルミラとキアーラだった。
「まぁ、とても可愛くなられましたね」
「久しぶりに全力で仕上げました!」
二人とも本当に満足そうで、思わず笑ってしまう。この屋敷には長らく女性の家人がいなかったから、こうして飾り立てるのが久しぶりで胸が弾んだみたい。
支度を終えた私は、いつもより少し遅れて食堂へ向かった。広い食堂の真ん中には長いテーブルがあり、その一番端にイグナツィオ様が、その斜め隣にルキスが座っているのが視界に入る。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
私が挨拶すると、二人は軽く挨拶を返してくれた。
「今日は早いのね、ルキス」
私が向かいの席に座りながら声をかけると、ルキスは穏やかに笑った。
「アリーチェが緊張しているかと思って、様子を見に早めに来たんだ。調子はどう? 昨日はちゃんと眠れた?」
「……ええ。おかげさまで、昨日もよく眠れたわ」
普段、イグナツィオ様はこの屋敷ではなく城内の執務室で仕事をしているけれど、ルキスは護衛騎士ということもあり、屋敷に来ることも多い。そしてそのたびに、私のところに寄って顔を見せてくれていた。
そのおかげもあって、私は新しいこの場所にも早く慣れることができていた。
私を見ながら、ルキスが安心したように柔らかく微笑む。
「そうか、それならよかった。その衣装も、アリーチェによく似合ってる」
「ありがとう。キアーラたちが気合を入れて磨いてくれたおかげよ」
そう返しながら、私は前に並んだ少し遅めの朝食に手を伸ばした。
今日の予定を簡単に聞きながら朝食をとり、食後に紅茶を飲んで一息ついていたところで、イグナツィオ様がふいに神妙な面持ちになった。
「……あまり楽しくない話だが、アリーチェに伝えておかないといけない話がある」
(楽しくない話……?)
どんな話だろうかと、自然と私は背筋を伸ばす。
「アリーチェを誘拐した男の話だ」
その言葉に、ドキリと心臓が一気に跳ねる。
一体、なぜ今その話をするのだろうと困惑しながら、私は息を呑んでイグナツィオ様の顔を凝視した。
「捕縛した後に牢屋に入れていたのだが、何者かに毒殺された」
「……え、牢屋の中でですか……?」
「ああ。おそらく、男の協力者による口封じだろう」
口封じ……。その冷たい響きが、胸の奥にじわりと落ちていく。
「被害者遺族の怨恨の可能性は……?」
質問する私の声は、自分でも分かるほどかすかに震えていた。私の問いに、ルキスが即座に首を振る。
「それはない。男は、捕らえられた翌々日に殺されていた。怨恨だとしたら早すぎる」
「翌々日……」
捕まってから、わずか二日だ。そんなに早く……。
動揺する私をよそに、イグナツィオ様が静かに話を続けた。
「男が入っていたのは、通常の犯罪者が収容される牢だ。だが、それでも簡単に手引きできるような場所ではない。誘拐に関わっていた者すべてが殺されていたことからして、口封じで間違いないだろう」
あの時の一連の出来事が、走馬灯のようにふっと頭に蘇る。
(関わっていた者全員ということは、青年や男女の子供二人も……ということか……)
背筋の奥がひやりと冷え、指先がじんわり汗ばむ。
誘拐に関わっていた以上、彼らの罪は明らかだけれど、子どもまでもが一言の弁明も許されず口封じで殺されたと聞くと、なんともいえない後味の悪さが残った。
顔を曇らせたイグナツィオ様が、小さく嘆息する。
「協力者がいることは予想していたが、こんなにも早く手を回すとは思っていなかった」
「男を殺害した犯人は、捕まえられなかったのですか?」
「毒を盛った者は捕らえた。だが、その者も金で唆されただけにすぎず、協力者に繋がるような情報は持っていなかった。おそらく、城の内情に詳しい者が裏で動いたのだろう」
協力者は城の内情に詳しい者、もしくは、そういう人物とつながりがある者ということか……。
そこまで迅速に手を回せるのだから、それなりに地位や権限を持つ人物なのかもしれない。
私が捕らえられていたときに、誘拐犯が口にしていた私とルキスの関係についても、その協力者から得た情報なのだろうか……?
「魔力を持つ子供の情報を流していた人物が協力者なら、疑わしいのは……やはり神殿関係者ですか?」
平民の子供が魔力を持つかどうかが分かるのは、神殿や礼拝堂で行う七歳の洗礼式のときのはず。それを考慮すると、情報が流れたのは神殿関係者からではないかと予測するのは自然なことだった。
私が問いかけた瞬間、イグナツィオ様もルキスも、わずかに目を見開いて私を見つめる。
その反応から、私の推測が全く的外れではないことが分かった。
「誘拐犯の標的が魔力を持つ子供だったのを、アリーチェは知っていたのだな」
イグナツィオ様がちらりとルキスを見た。
おそらく、ルキスが話したのだと誤解したのだろう。ルキスはすぐに首を振って、イグナツィオ様のその誤解を否定する。
「ルキスに直接聞いたわけではなく、商会で聞いた話やルキスから聞いたわずかな情報をもとに判断しました。一連の誘拐事件は、魔力を持つ子供を狙ったものだろうと……」
「なるほど、そうだったか。アリーチェの言うように、協力者から子どもの情報が流れていたのは確かだろう。ただ、魔力を持つ平民の情報は、神殿だけでなく城でも把握している。正確には、神殿で調べられた結果が、控えとして城でも保存されているのだ」
イグナツィオ様の説明によると、戸籍は神殿で管理されているけれど、税収や住民管理の都合で、州城にも同じ情報の写しがあるらしい。つまり、神殿だけでなく城から漏れた可能性もあるということだった。
「メルクリオでは、神殿関係者から情報が漏れていた。メルクリオ神殿の知人から“魔力を持つ子供の情報が外部に渡っている可能性がある”と密告があり、極秘に調査を進めた結果、その事実が明らかとなったのだ」
「以前、お二人がメルクリオの街にいたのは、そのためだったのですね。普通なら神殿の上層部へ相談するものだと思いますが、イグナツィオ様へ密告したということは、何か事情があるのですか?」
「上司に相談しても一向に改善の兆しがなく、止むに止まれぬ思いで私に助けを求めたらしい。……結局、調査を続けて情報を掴んだ頃には、犯人はもうとっくに姿をくらましていた。あの時に取り逃がしたのが、今でも悔やまれる」
後悔を滲ませるように、イグナツィオ様が眉根を寄せる。
自分へ捜査の手が伸びたことを察した犯人が、メルクリオから州都へ拠点を移し、また同じことをしていたということか。
極秘調査だったなら、動ける範囲も限られただろうし、州都とメルクリオでは勝手も違う。私も被害者の一人ではあるけれど、手を尽くした結果なのであれば、それも仕方のないことだと思えた。
「そして、毒殺とは別に、証拠として押収した男の研究資料が一部なくなっていたことも分かった。そちらは毒を盛った者の犯行ではないことは判明しているが、研究資料だけを盗み出した点を考えると、協力者は実験にも関わっていた可能性がある」
「それは……どのような資料がなくなっていたのですか?」
私がイグナツィオ様に質問すると、ルキスがため息混じりに教えてくれた。
「押収した品が多く、目録もまだ完成していなかったから、何の資料が盗まれたかは正確には分かっていないんだ。男の毒殺を許したことといい、騎士団の怠慢が目に余る」
悪態混じりに言うルキスを、私は目を瞬かせながら見つめる。
(もしかして……第一騎士団とはそれほど関係がよくない?)
以前、私の情報が第一騎士団から漏れる可能性を示唆していた時も感じたけれど、第一騎士団へのイグナツィオ様の影響力はあまり強くないのかもしれない。
イグナツィオ様は資料の盗難は協力者の犯行だと見ているようだけれど、私は別の可能性にも思い至った。
「証拠品に協力者に繋がる情報があったから盗まれた可能性もありますが、単純に神紋者を生み出す研究に目をつけた第三者によって盗まれた可能性もあるのではないでしょうか」
「なるほど、確かにその可能性もありそうか……」
人道的なものではないけれど、ある種の人間にとっては、男の研究は有益に映ることは理解できた。
私という成功例があることで、より注目が集まった可能性を思うと、少しばかり気が重かった。
「そのことも考慮して、引き続き調査を進めよう。協力者がこちらへ直接何かをしてくることはないだろうが、今回のことはアリーチェも念のため心に留めておいてくれ」
「はい、分かりました」
そう返すと、イグナツィオ様はふっと目元を緩めた。
「本当はもう少し早く伝えようかと思っていたのだが、伝えるのが遅くなってすまない。今の生活に慣れてからと思い、時間を置いていたのだが、今日の様子では、その心配は不要だったようだ」
(それは……私がもっと動揺したりすると思われていたのかな?)
もちろん、内心の動揺はある。けれど、それよりも先に思考が走って理性的な対応になるのは昔からだ。あの出来事を引きずらないようにしようと、意識していることも影響していると思う。
それに――
「そうですね、話を聞いても、思っていたよりも気持ちは落ち着いています。きっと、皆さんが良くしてくださっていたおかげだと思います」
「そうか……。勉強はもちろん、礼儀作法もよく頑張っていたと聞いている。今日の謁見も、その調子で胸を張って挑むといい」
イグナツィオ様の言葉に、私は背筋を伸ばして笑みを浮かべる。
「はい、いつも通りを心がけて頑張りますね」
謁見の時間まであともう少し。緊張や不安を前へ進む力に変え、私は満面の笑顔でイグナツィオ様に答えたのだった。




