気を付けて
204号室の彼。3話です。まだ続きます。
その次の土曜日、私は達己と出かけることになった。大学でも会うので久しぶりではないけれど、2人きりで会うのは引っ越しの荷物運び以降初めてだ。
今日会う目的は私の買い物と映画。待ち合わせは10時で、場所はここから5分も歩けばつくところ。時計を見れば、ちょうど9時半を指している。
そろそろ出ようかな。私が荷物を持ち上げたとき、後ろからAさんが声をかけてきた。
「あれ、10時に待ち合わせじゃなかった?」
「そうよ、早めに行くのは常識でしょ」
軽く振り返ってみると、Aさんは苦い表情で私を見ていた。まだ30分もあるじゃん、という声が聞こえたと思ったら、彼はすべるように移動してきて、私との距離を詰めた。
「十分前行動は褒められることだけど……いくらなんでも早すぎだよ」
「……あなたはまた私たちの邪魔をするの?」
嫌悪感を隠すことなく私は言葉を吐いた。なんでこの人は久しぶりのデートで気分が高揚しているところに水を差すのか。理解できない。
私の思いが伝わったのか、Aさんはため息をつくと「ごめん、なんでもないよ、いってらっしゃい」と手を振りながら定位置に収まった。
「でも、時間通りに来た彼を責めたりしないようにね?」
そんなの、言われなくても分かってるわよ。心の中で答えて彼に背を向ければ、私の頭はすぐに達己とのデート一色になった。早く会いたい。Aさんのせいでさめそうになった気持ちを盛り上げてから、私は家を出た。
待ち合わせの場所に達己が来たのは10時少し前だった。彼はいつも待ち合わせの時間ギリギリに来る。もっと早く来てくれたら、予定より長く一緒にいられるのにと思ったことも一度や二度じゃない。
その不満が伝わるのか、達己は到着すると必ず「待たせてごめん」と申し訳なさそうに言う。本当にそう思っているのなら、もう少し早く来てくれてもいいのだけれど。私はいつものように「大丈夫」と言ってから彼の手を握った。
達己は軽く私の手を握り返し、私に問いかける。
「行きたい所、どこだっけ?」
「この先の雑貨屋さん。携帯ストラップ買いたくて」
「あれ、ウサギついてなかったっけ? 友達からのプレゼントの……」
「黒ずんできちゃったから、買い替え時かなって」
「……そっか」
微妙にあいた間が気になって、私は達己のほうを見た。一瞬目があって、だけど達己はすぐに私から目をそらした。
そらす前に見えたのは、いつもとは違う達己の表情だった。優しさが見受けられない、暗く沈んだ瞳。キッと一直線に結ばれた唇。悩んでいるような、思い詰めているような、よくわからない顔だった。
『彼、耐えきれなくなるよ』
この間Aさんにかけられた忠告を思い出して、慌てて首を振った。どうしてストラップの話が別れ話になるんだ。彼はただあのストラップを気に入っていたから悲しんでいるだけで、別に私と別れたいわけではない。替え時なのは私じゃなくて、ストラップだ。Aさんの言葉に惑わされて達己を信じられなくなるなんて馬鹿げている。
私は笑って言った。
「そんなにあのウサギ気に入ってたの? なら、同じやつをおそろいで買おうよ」
「あ、いや、いいよ。ストラップは間に合ってるから」
「えー、せっかくおそろいで買おうと思ってたのに」
私の言葉に彼はごめんねと言った。疲れた笑顔が印象的だった。
帰ると、ちゃぶ台の傍にAさんは座っていた。私の姿を確認すると、いつもの笑顔を浮かべて「おかえりー」と立ち上がる。彼は綿毛のようにふよふよと私の方に寄ってきて、首をかしげた。
「元気ないね。達己くんとなんかあったの?」
自分の言葉が元凶であることも気づかずに彼は心配そうに尋ねた。「何もないわよ」と言って部屋に入っていけば、「え、じゃあなんで怒ってるの」と追いかけてきた。
この人の言葉が無ければ純粋に二人の時間を楽しめたはずだ。それなのに今日はずっと、達己の言動ひとつひとつに、私への思いがあるかどうかが気になってしまった。大好きな人を疑うなんてしたくなかったのに。泣きたい気持ちをこらえて、私は布団を出す。
「え、もう寝るの? 少しは今日の話聞かせてよ。僕退屈してたんだから」
彼の言葉が妙に引っかかってしまった。彼の退屈をしのぐのに私は今日の話をしなければならないのか。気が重くなってしまった今日のデートの話を。頭に血が上ったのだろう、私はいつの間にか彼に怒鳴っていた。
「私はあなたの暇つぶしじゃないの、暇つぶしで私たちのことに口を出すのはやめてよ!」
私は彼の返事を待たずに部屋の電気を消した。彼の姿は見えなくなった。怒りが収まらないまま布団の中にもぐる。何も物音は聞こえなかった。彼は物に触れないのだから当たり前だろう。
不意に、なんか心配そうな彼の顔が浮かんできた。冷静になってみると、あの表情が偽物だとは思えない。そしたら、あの言葉は私が気軽に愚痴を言えるようにと放った言葉だったのかもしれない。今更気づいても、意味はないのだけど。
心の中から興奮が消え去って、申し訳なさに入れ替わったころ、私の耳は小さな声を拾った。
「由利さんみたいにならないでね、まなみちゃん……」
ユリさんみたいにって……どういうこと?
私の疑問は、先ほど怒りに任せてしまった気まずさによってかき消されてしまった。
新緑のまぶしい外を眺めながら、私は部屋で寝転がっていた。
今日、達己は朝からずっとバイトだと言っていたので、メールをしてもすぐには返してくれない。こういうとき、無趣味の人間は困る。することないな……。私は寝返りを打って玄関の方を向いた。すると目の前に透けた足が現れる。ゆっくり顔を持ち上げれば、Aさんが呆れたように私を見ていた。
「せっかくの休み、もったいないよ。何かしたらどう? 読書とか」
「本は読んでいるとすぐ眠くなっちゃうからだめよ。意味ない」
過去の経験を思い出して、ふぁっとあくびが出る。そんな私を見て、Aさんはため息をつくと私の目の前にしゃがみこんだ。綺麗で透き通った指が一点を示す。玄関だ。つまり、ちょっと出かけてこいと言っている。無言で顔をしかめると、私がその行動の意味を理解していないと思ったのか、彼は丁寧に「ちょっと出かけてきなよ」と言った。
「夕飯の材料を買いに行くのもいいんじゃない? 今の時期、歩くと気持ちいいよ」
「えー」
「えーじゃない。冷蔵庫何も入ってないでしょ、早くいってらっしゃい」
私をせかすように、Aさんは床を叩くそぶりをする。音はしないし振動も来ないけど、私をせかすときに彼は必ずこれをやる。無視して転がっていると、駄々っ子のように騒ぎ出してうるさいということは今までの共同生活で学んでいたので、私は仕方なしに彼の言葉に従った。
鞄に財布を入れて、家を出る。向かうのは大学とは逆の方面にあるスーパーだ。あそこは安くて良い品を置いているのだと、サークルの先輩が言っていた。それを聞いてから、私はそのスーパーに行くようになった。
そのスーパーに向かう途中には、いろいろな店が並んでいる。洋菓子店や楽器屋、本屋など。私は基本飲食店にしか寄らないけれど、あのアパートの周辺とは違っていつもにぎわっていた。今日も例外じゃない。
夕飯、なににしようかな。考えながら歩いていると、いい匂いが傍の店から漂ってきた。その匂いをたどって目を動かせば、パン屋さんがあった。おいしいと評判の店で、テレビに出てきたなんて話も聞いたことがある。だが私は一度もそこに足を踏み入れたことはない。一人ではなかなか買い食いなんてしないし、達己とこっちの方の店に来たこともなかったからだ。
それに達己は私がこちらに来ることを快く思っていない節がある。つい先日、こっちのほうに買い物に行くという話をしたとき、少しだけだけど苦い顔をしていた。このあたりの治安が悪いなんて話を聞いたことは一度もないので、ただ単に達己がこっちのほうの店を好きじゃないだけかもしれない。
夕飯にしては不健康ではあるけれど、たまにはいいかもしれない。踊る心をそのままに店に入ろうとしたとき、私の足は止まった。
一瞬どこかに見覚えのある背中が見えた気がしたのだ。気のせいよ。だって彼はいまバイト中だし。ここにいるわけないじゃない。はやく買って帰らないと、Aさんが心配しちゃう。
心の中の自分の制止を振り払って、私の体は勝手に動く。気づけば私は店から数歩離れて、店のなかを覗いていた。学校帰りと思われる高校生やカップルが席に座っている。その中にその背中はあった。
「達己……?」
まるで客のように席に座っている彼。昨日、バイトだからと連絡するのを控えるように頼んできた彼。彼のバイト先はパン屋ではなくファストフード店だったはずだ。
どうしてこんなところにいるの。あなたはこっちの商店街は好きじゃないんでしょう?
私の疑問は彼には届かない。彼はただ、目の前に座る誰かに話しかけていた。少し立ち位置を変えて、彼の話し相手を見る。綺麗な黒髪の、可愛らしい女の子だった。
まさか、達己に限って浮気なんてひどいことするはずがない。きっと彼女はバイト先の友達よ。バイトの休憩時間だから、一緒にお茶でもすることになったのよ。
言い聞かせるように呟いていると、その女性がふわりと笑って席を立った。彼は、顔をこちら側に向けて彼女を見送った。その人の顔は見まごうことなく、達己だった。達己も彼女と同じく穏やかな笑みを浮かべている。その笑顔には見覚えがあった。
(付き合い始めたとき……あんな顔してたっけ……)
最近は疲れた笑顔しか見せてくれなかった彼。それなのに、別の女性にはあの顔をみせている。私の心に暗雲が立ち込めてきた。
彼は私に気づかないで、正面を向いてしまった。楽しそうなその背中に、私は見ない振りをして店を通り過ぎた。
続く。