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204号室の彼。  作者: 冬香
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いらっしゃい

桜がちらほらと咲き始める中、私は期待と不安を詰め込んだ段ボールを抱えて立っていた。

空には厚い雲が広がっている。あたりは閑散としていて、今のところ近所の人に一度も遭遇していない。新生活の始まりの爽やかさがまったく感じられない朝だ。ここまで歓迎ムードからかけ離れていると、新生活で緊張している私がばかみたいに思えてくる。

ため息をついた私は重い段ボールを抱えなおして歩き始めた。目指すは、目の前のアパートの204号室。私が大学生活4年間のお供に選んだ部屋である。家賃の安さといい、大学からの距離といい、私からしたら最高の物件だった。


「私、ここに住むのね……」


今更ながら感慨にふけっていると、後ろから小さな笑い声が聞こえてきた。


「そうだぞ、だから早く荷物運び込まないと」


振り返れば、優しそうな面持ちの青年が私と同じく段ボールを抱えて立っている。彼は梨木達己(なしぎたつき)。高校2年の時から付き合っている、私の恋人だ。今日は私のためにわざわざ引っ越しの手伝いに来てくれた。4月から同じ大学に通う予定だ。


達己は私を追い越して階段を上がっていく。カンカンカン、と高い音が静かな空間に響いた。

あなたが先に行ったって部屋がどこだかわからない癖に。頬が緩むのを感じながら、私は彼の背中を追いかけた。



部屋の番号を私から聞いた彼は、持っていた段ボールを片手でどうにか支えて、空いた手で部屋のドアを開けた。私には出来ない行動に、改めて彼の頼もしさを感じる。メールにも電話にも、いつだって嫌な顔せずに応えてくれるくらい優しい彼も、力があって頼りになるひとりの男性なのだ。

そんな達己の大きな背中がドアの中に消えていく。「とりあえずドアの横に置いておくぞ」という声が、玄関の奥から聞こえた。それに答えながら私も彼のあとを追った。

我が家となる204号室の小さな廊下の先には私が今後過ごしていく部屋がある。そこと廊下の堺に達己が言っていたドアがあり、段ボールがドアの横から顔を覗かせていた。達己はそのドアの手前に立っている。

私は段ボールを床に置いて靴をぬいだ。その段ボールの横をすり抜けて、達己は私の後ろに回る。家から出たかったようで、私が部屋に上がるころには彼は玄関で靴を履いていた。


「あとの荷物はおれが運んでくるから、まなみはこれを奥に持って行って」

「はーい」


私は達己の言葉に従って、荷物を抱えたまま廊下を歩き始める。廊下とは言っても、玄関から居間までのほんの数メートルなのだが。

重いなあと独り言ちながら私は段ボールとともに部屋に足を踏み入れる。その直後、私は声が出なくなってしまった。部屋に重いものが落ちる音が響く。それが段ボールと床が衝突して起きたものだということなんて、今は気にならない。それ以上に気にすべき問題が、その部屋にはあったのだ。


入って目の前の壁には大きめの窓があって、ベランダに出られるようになっている。それは問題ない。

ドアの横には空間があり、そこが流し台となっている。それも問題ない。

ドアの傍には達己が置いて行った段ボールが口を開けて鎮座している。口が開いているのは問題だけど、さほど気にしなくていい。


問題だったのは、誰もいないはずの部屋の隅に、見知らぬ青年の姿があったことである。彼は私を見て、優しく微笑んだ。

まあ、それだけだったらまだ不法侵入だと叫べばよかっただろう。私の声にきっと達己が駆けつけてくれて、この人をどうにかしてくれるはずだ。

しかし彼はホログラムのようだったのだ。背後のベランダは私からよく見えるし、足元に影は見当たらない。

そうか、ホログラムか。自分の例えに納得しかけたとき、この部屋にまだ荷物が置かれていないことを思い出す。家具だってないのに、どうして立体投影機があるだろうか。


彼が何なのか思い当ってしまって、私は黙ったまま彼を見つめていた。彼は嬉しそうに笑っている。


「いらっしゃい、君が新しい住人? はじめまして」


爽やかな印象の声が聞こえた。彼の口が一緒に動いていたから彼の声なのだろう。顔に似合った声だった。私ははじめましてと応えようとしたのだが、挨拶より先に聞きたいことが口から出てしまった。


「あなたは何……? 幽霊ってやつ? ここに住んでるの?」


挨拶に応えなくても彼は嫌な顔をしないで、優しい表情でうなずいた。名前を尋ねると、その表情を崩さずに答える。


「名前なんて気にしなくていいよ。あ、一緒に暮らしていると困るか。じゃあ……ほかに幽霊の知り合いがいないなら『幽霊A』さんで」

「は? 私は本名を聞いているの」

「死んだ人間の本名なんて覚えなくていいじゃん?」


彼は柔らかい見た目に反して頑なだった。そんなに名前が嫌いだったのか、それともほかに何か理由があるのか。気になったが、私にはそれを追及できるほど彼のことを知らない。知らない人にプライベートのことを聞かれるほど不快なことはないだろう。口を閉ざして、彼の提示した名前について考える。


幽霊A。アニメとか小説とかでモブキャラが『友人A』などと呼ばれるのと一緒なのだろうか。自分をモブキャラ同然に扱うなんて。彼は不思議な人だと思った。


外からカンカンという音が聞こえる。達己が次なる段ボールを持ってきているのだろう。

彼のことを達己にも相談した方がいいのか。そしたら達己が彼を追い出すすべを考えてくれて、私の一人暮らしは安泰かもしれない。私は玄関の方に向かおうとした。すると、後ろから呼び止められた。


「彼に僕は見えないよ。君以外に見える人、そうそういないと思うけど」

「達己はまだあなたを見ていないんだから、わからないじゃない」

「なら、ここのドア開けといて、彼がここを見えるようにしておきなよ。僕、ここに立ってるからさ。見えたら、どうして君の部屋に別の男がいるんだって言ってくるはずだよ」


なるほど。私は落としたまま放置していた段ボールを、さっき達己が置いて行った段ボールの横にずらしてドアを全開にした。Aさんはドアの目の前に立つ。玄関からよく見える位置だ。私はその後ろに立った。


「もし彼にも見えたら、三人で今後のこと話し合おうか」


どうせ見えないだろうけどね。Aさんは楽しそうに言う。まだわからないってばとにらめば、玄関の方から足音がした。期待を込めて耳を澄ます。あれ、という達己の声が聞こえてきた。


「まなみ、そんなところに突っ立ってどうしたんだ?」


私はAさんを見た。立ち位置は全く変わらない。それなのに達己は彼について触れない。「ほらね」という穏やかな声が聞こえてきた。Aさんの姿は、本当に私にしか見えていないのか。絶望を感じながら私は玄関に荷物を取りに行った。


そんなこんなで、私の新生活は奇妙な同居人を得て始まった。




続く。

「温もりなんてないけれど」を改題して、加筆修正行ったものです。

5話で完結します。地道に直していきます。

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