第24話 地獄の後にある飯
最初は、どうにか耐えることができた。
家族のため。
蘭のため。
理知帝国に抗うため。
言葉にすれば理由はいくらでも出てくる。
だが、実際にあれを耐えられた理由を一つ選べと言われれば、たぶん蘭への思いだったのだと思う。
自分で言っていて恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
だが、それ以外に、あの地獄を耐えられた理由が思いつかない。
もちろん、それまで積み上げてきたものを手放したくなかったという思いもあった。
長順十。
王の伝令兵。
理知帝国へ届く道。
その目標が見えていたからこそ、私は強い魔物を倒し、その場で食うという狂った鍛錬を続けた。
狂った鍛錬。
いや、剛力王国では鍛錬なのだろう。
だが、私の感覚ではどう考えても狂っている。
魔物を倒す。
熱の残る肉を切り取る。
血の匂いと、体が本能で拒む気配を前にして、それを口へ入れる。
噛む。
飲み込む。
そして、内側から体が悲鳴を上げる。
最初の数日は、本当に死ぬかと思った。
だが、死ななかった。
蘭がそばにいた。
食べた後に動けなくなった私を守り、帰り道を支え、時にはほとんど運ぶように連れ帰ってくれた。
それは情けないことかもしれない。
だが、私は一人で強くなっているわけではない。
蘭に助けられながら強くなっている。
そう認めるしかなかった。
実際、成長は早かった。
これまでのどの鍛錬よりも、肉体が変わっていくのがわかった。
奥へ入るのが楽になる。
魔物を倒すのが早くなる。
以前なら避けていた相手にも、踏み込めるようになる。
体の奥が作り替わっていくような感覚。
苦しさに見合うだけの成果は、確かにあった。
だが、苦しみが楽になるわけではない。
強くなれば、もっと強い魔物を食う。
もっと奥へ進む。
もっと濃い地獄を飲み込む。
成果が出るほど、地獄の濃度も上がっていった。
数か月ほど経った頃だ。
私は、自分でも気づかないうちに限界へ近づいていた。
前兆はあった。
朝、危険地帯へ向かう足が少し重い。
魔物を倒す前から、胃が固まる。
肉を切り取る前に、喉が閉じる。
夜、眠る前に明日のことを考えると、胸の奥が冷える。
だが、私は気にしないようにしていた。
気にしたら負ける。
立ち止まったら終わる。
そう思っていた。
そしてある日、私は森の入口で足を止めた。
危険地帯へ入る前。
いつもなら、息を整えて踏み込む場所。
そこで、足が動かなくなった。
心では行くつもりだった。
今日も行く。
今日も魔物を倒す。
今日も食う。
今日も強くなる。
そう思っていた。
だが、体が動かない。
一歩も前へ出ない。
足が地面に縫いつけられたようだった。
「剛理」
隣で蘭が私を見上げていた。
いつもの無表情。
だが、心配しているのがわかった。
「帰る?」
「……いや、大丈夫だ」
そう言った。
だが、足は動かなかった。
蘭は少しだけ私を見つめた。
そして、短く言った。
「帰る」
その日は、そこで家に戻った。
私は言い訳を探した。
昨日の疲労が残っていた。
少し無理をしすぎた。
一日休めば戻る。
そう考えた。
だが、次の日も同じだった。
危険地帯へ行こうとすると、足が止まる。
体が拒む。
心ではまだ行けると思っているのに、体が動いてくれない。
その時点で、たぶん心の方が駄目になっていたのだろう。
私は、強い魔物を直接食う鍛錬を続けられなくなった。
ただ、何もしないわけにはいかない。
ならばと、昔の魔物飯へ戻した。
母が調整した、魔物の血肉を混ぜた飯。
あれも十分まずい。
十分痛い。
昔の私なら、それだけでも地獄だった。
だが、直接魔物を食う鍛錬を知った後では、成長があまりにも遅く感じた。
これでいいのか。
この速度で、長順十に届くのか。
どれだけかかる。
五年か。
十年か。
もっとか。
焦りだけが積もっていった。
そんなある日、蘭が料理を持ってきた。
魔物飯ではない。
普通の料理だった。
皿に乗っている肉と野菜。
形は少し歪だった。
切り方も大きさが不揃いで、盛りつけも雷華ほど整ってはいない。
だが、湯気が立っていた。
香りがした。
体が拒まない香りだった。
「作った」
蘭が言った。
「母様に習った。剛理に食べてほしくて」
私は料理を見た。
うまそうだった。
おそらく、本当にうまい。
いや、多少失敗していたとしても、今の私には泣くほどありがたい料理だろう。
だが、私は首を振った。
「……悪い。俺は、強くならないといけないから」
魔物飯を食わなければならない。
強くならなければならない。
うまい飯に逃げてはいけない。
そんな考えが、頭の中を固めていた。
私の言葉を聞いた瞬間、蘭の顔が変わった。
ほんのわずかだった。
他の者なら気づかないかもしれない。
だが、私にはわかった。
悲しそうな顔だった。
今でも忘れられない。
蘭は何も言わなかった。
料理を置いて、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に、温かい料理だけが残った。
私はそれを眺めた。
湯気が少しずつ弱くなっていく。
香りだけが残る。
私は、ぼんやり考えた。
私は、何のために強くなろうとしていたのだろう。
理知帝国に抗うため。
家族のため。
蘭のため。
そう考えた瞬間、さっきの蘭の顔が浮かんだ。
悲しそうな顔。
私に食べてほしくて料理を作ってくれた蘭。
それを、私は断った。
蘭のため。
そう言いながら、蘭を悲しませた。
何をやっているんだろうな、私は。
頭の中で、その言葉が何度も回った。
何をやっているんだろう。
何のために。
誰のために。
わからなくなっていた。
その時、扉が開いた。
出ていったはずの蘭が戻ってきた。
さっきの悲しそうな顔ではない。
何かを決めた顔だった。
いや、表情はあまり変わっていない。
だが、空気が違う。
蘭が近づいてくる。
「蘭?」
私が名前を呼ぶより早く、蘭の手が伸びた。
私の顎を掴む。
「んぐっ!?」
口を無理やり開けられた。
何をする気だ。
そう思った時には、少しぬるくなった料理が口の中に突っ込まれていた。
待て。
これは食事の所作ではない。
完全に強制給餌だ。
だが、口に料理が入ったままでは息ができない。
吐き出すわけにもいかない。
仕方なく噛む。
味が広がった。
うまい。
少し冷めている。
形も不揃い。
味つけも少しぎこちない。
だが、うまい。
痛くない。
苦くない。
体が拒まない。
胃が悲鳴を上げない。
食べ物だった。
ちゃんと、食べ物だった。
涙が出た。
一口飲み込むと、蘭は私をじっと見た。
「食べて」
短い言葉だった。
私は何も返せなかった。
ただ頷いた。
そこからは、あまりはっきり覚えていない。
残った料理を、泣きながら食べた。
蘭が隣に座っていた。
時々、水を差し出してくれた。
私は食べた。
ただ食べた。
久しぶりに、食事をした。
食べ終えた頃には、胸の奥に少しだけ温かいものが戻っていた。
料理で精神が回復した。
そんな言い方はおかしいかもしれない。
だが、実際にそうだった。
体が動くようになった。
蘭の言葉が耳に入るようになった。
周囲の景色が、少し鮮明になった。
それまでの私は、壊れかけていたのだろう。
数か月にわたる地獄の鍛錬。
楽しみのない生活。
苦しみしかない日々。
食べることすら苦痛で、眠って起きればまた苦痛が待っている。
生きている意味すら、ぼやけかけていた。
そこへ、蘭の料理が差し込まれた。
強引に。
口をこじ開けて。
救い方まで剛力王国式だった。
だが、確かに救われた。
目の前には蘭がいる。
心配そうに、私を見ている。
いつもそばにいてくれた。
危険地帯でも、家でも。
私が食べた後に動けなくなれば守ってくれた。
壊れかけたら、料理を作って戻ってきた。
そして、食べろと押し込んできた。
まだ成人していないから、結婚はしていない。
だが、もう周りはほとんど嫁扱いしている。
私も、最近は訂正しきれなくなっている。
最高の、俺の嫁さんだ。
そう思った。
思ってしまった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
だが、否定する気にはなれなかった。
それから、私は再び魔物食いの鍛錬に戻った。
ただし、以前とは変えた。
危険地帯で魔物を倒し、その場で食う。
そこは変わらない。
地獄は地獄だ。
だが、帰ってきてからの飯は蘭の料理になった。
一日の終わりに、うまい飯を食べる。
地獄で削られた心を、蘭の料理で戻す。
それが必要だった。
最初は、形も味も少し不安定だった。
だが、蘭は毎日少しずつうまくなった。
不器用なのに、丁寧だった。
表情は変わらないのに、私が食べる時だけ、少し緊張していた。
うまいと言うと、ほんの少し空気が柔らかくなる。
それがわかるようになっていった。
私は、その料理をご褒美にした。
今日も地獄を食った。
なら、帰れば蘭の飯がある。
そう思えば、危険地帯へ入る足が動いた。
もちろん、鍛錬だけではない。
私は村長だ。
村の仕事もある。
防人としての役割もある。
伝令兵としての訓練もある。
蘭に、鍛錬ばかり何年も付き合わせるわけにもいかない。
だから、週に一度、蘭に付き合う日を作った。
その日は魔物食いなし。
丸一日、蘭のやりたいことに付き合う。
最初、蘭は少し迷っていた。
やりたいことを聞いても、私を見るだけだった。
「蘭のやりたいことだ」
そう言うと、蘭はしばらく考えた。
そして、私の袖を掴んだ。
「一緒にいる」
「それはいつもだろう」
「もっと」
もっとらしい。
結局、その日は二人で過ごした。
鍛錬もする。
だが、地獄ではない。
ゆっくり歩く。
並んで飯を食べる。
蘭の料理を手伝う。
時々、抱きつかれる。
もう、あまり抵抗しなくなった。
蘭との触れ合いもまた、私の精神を癒してくれた。
そうやって、日々の形ができた。
地獄の鍛錬。
村長の仕事。
蘭の料理。
週に一度の休み。
その繰り返しができてから、鍛錬は順調に進んだ。
長会議は、緊急時を除けば半年に一度ほど開かれる。
そのたびに、私は長順を上げていった。
最初は十八。
そこから一つずつ。
時には二つ。
前より上の長に挑み、転がされ、食らいつき、また鍛え直す。
剛力王国らしい積み上げ方だった。
身体強化の魔法も鍛え続けている。
だが、これはあくまで切り札だ。
常時使える力ではない。
そして、身の丈に合わない力だけで長順十に届いたとしても、その後に死んでは意味がない。
長順十になれば、理知帝国の話を議題に上げられる。
王の伝令兵への道も見える。
だが、その立場で生き残れなければ何もできない。
だから私は、長順十に挑む時、身体強化を使わないと決めた。
素の肉体。
技。
積み上げた経験。
それで届かなければ、まだ足りない。
そう判断することにした。
前回の長会議では、長順十の長にかなり迫った。
もう少しだった。
本当に、もう少し。
倒せはしなかったが、手は届きかけた。
あの時の感覚は残っている。
この半年の鍛錬を考えれば、今回は越えられるはずだ。
そう思えるだけの積み重ねはある。
ただ、今回は蘭がいない。
蘭は毎回、長会議についてきていた。
私の隣に座り、私が戦えば見ていて、時には一緒に挑み、終われば当然のように隣へ戻ってくる。
もう長たちも慣れたものだった。
だが、今回は私一人だ。
蘭の興味が私から離れたわけではない。
怪我をしたわけでもない。
蘭のお腹に、子が宿ったからだ。
まだ生まれるのは先だ。
完全に動けないわけでもない。
蘭本人は、ついてくる気を見せていた。
というより、普通についてくるつもりだった。
だが、さすがに止めた。
母も止めた。
父も珍しく止めた。
剛力王国基準でも、そこは止めるらしい。
いや、止めてくれてよかった。
大事を取って、今回は村に残ってもらった。
出発の前、蘭は私の袖を掴んでいた。
「早く帰ってきて」
「ああ」
「長順十になって」
「なるつもりだ」
「お土産」
「長順十がお土産になるのか?」
「なる」
蘭は真顔で言った。
真顔というか、いつも通りの無表情だった。
だが、たぶん本気だ。
なら、私はそれを持って帰るしかない。
長会議のタイミングが良いのか悪いのかはわからない。
子ができた直後に家を空けるのは落ち着かない。
だが、今回こそ長順十になれば、理知帝国へ近づく大きな一歩になる。
蘭のためにも。
生まれてくる子のためにも。
家族のためにも。
村のためにも。
私は、越えなければならない。
そう思いながら、私は長会議の場に着いた。
半年ぶりの空気。
強者たちの気配。
かつては圧倒されるだけだった場所。
今も圧はある。
だが、以前ほど遠くはない。
目指す場所は一つ。
長順十。
蘭に持ち帰る土産としては、悪くない。




