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第15話 蘭への回答

 冷静になれ。


 私は自分にそう言い聞かせた。


 冷静になれないのはわかる。だが、こういう時こそ頭を回せ。考えるのは得意なはずだ。私はまだ筋肉に染まりきっていない。少なくとも、そう信じたい。


 目の前には蘭がいる。


 いや、目の前というより、私に抱きついている。


 両腕が背中に回され、体温が近い。近すぎる。これほど密着されたのは初めてかもしれない。


 そして、さっき蘭は言った。


 あなたは私のなんだから、遠くに行かないでよ。


 その「私の」という表現には若干異議があるが、ともかく蘭が私と結婚したいのは理解した。


 理解はした。


 だが、そこで別の疑問が浮かぶ。


 蘭は、私のことが好きだったのか?


 いつも無表情で、私を転がし、時々気絶させ、背負って家まで運び、飯を食い、家族を見ていた。あれは好意だったのか。


 いや、待て。


 今考えるべきはそこではない。


 村長だ。


 私は村長になりたい。ならなければならない。理知帝国に備えるために。発言権を得るために。この家と村を守れる立場になるために。


 蘭が結婚したいのはわかった。では、その場合村長はどうなる。


 父と母の結婚話は前に聞いたことがある。昔は母が村一番の強さで村長候補だったが、子を産むために結婚するとして村一番の男を募り、父がそれに勝った。あの「筋肉は全てを解決する」も、母を手に入れるために鍛えたからこそ言えるのだと、本人が無駄に自慢げに話していた。


 そして父は村長になった。


 その時点では、確か母の方が強かったはずだ。だが子を産む間は動けなくなる。だから結婚後は候補から外れる、そんな話だった気がする。


 つまり、蘭と結婚するなら――いや、待て。


 私はまだ成人していない。


 結婚自体は成人してからのはずだ。今この場でどういう扱いになる。婚約か。ただの口約束か。父も母もいるんだ、わからなければ聞けばいい。


「なぁ」


 私は蘭に抱きつかれたまま口を開いた。


「俺はまだ成人していないけど、この場合どうなるんだ? 結婚することになるのか? 村長の条件の方は?」


 言った瞬間、空気が重くなった。


 しまった。たぶん失敗した。


 母が静かに私を見た。笑っていない。


「……剛理」


「はい」


「蘭がここまで言っているのに、最初に出てきた言葉がそれ?」


 声は穏やかだったが、目は穏やかではない。


 私は背筋を伸ばした。蘭に抱きつかれているので、あまり動けなかったが。


 確かに、この状況で先に聞く内容ではなかったかもしれない。村長の条件も制度も大事だ。私にとってはかなり大事だ。だが蘭は今、そんな話をしてほしかったわけではないだろう。


 理屈ではわかる。


 わかるが、頭が勝手に制度面へ走った。前世ではその癖で生きていた。感情より先に条件を整理し、状況を把握し、損得を考える。それが当たり前だった。


 だが、今は違う。


 蘭はまだ私に静かに抱きついたままだ。腕に力が入っている。逃がさないための力に近い。だが、不思議と痛くはなかった。


 体温が伝わってくる。呼吸も近い。顔は見えない。ただ、離れる気がないことだけはわかる。


 私は何と返すべきなのだろう。


 そもそも、私は蘭のことをどう思っている。


 蘭はずっとライバルだった。壁だ。越えなければならない相手。村一番になるために倒すべき相手。年下の女の子に負けるという屈辱から始まり、何度も挑み、何度も転がされ、何年も追い続けた相手。


 気にはかけていた。怪我をすれば見舞いにも行った。食事に誘った。一緒にいる時間も長い。


 嫌いではない。


 むしろ、好ましくはある。


 ただ、結婚相手として考えたことはなかった。


 前世で私は、結婚について考える余裕がなかった。地位を確立する前に殺された。後援者に成果を奪われ、式典前夜に毒を盛られて死んだ。誰かと家庭を作る余裕などなかった。


 今世でもそうだ。強くなること。奪われない力を得ること。理知帝国に備えること。村長になること。そのために走ってきた。結婚は、もっと先のことだと思っていた。いや、考えてすらいなかった。


 では、結婚相手として蘭はどうか。


 蘭は強い。強すぎる。無表情で、感情表現が苦手で、距離感がおかしくて、私を自分のもの扱いしてくる。問題はある。かなりある。


 だが、嫌かと問われると、嫌ではない。


 蘭ならいいか。


 そう思った。


 ずいぶん雑な結論だ。だが何も知らない相手ではない。ずっと戦ってきた。飯も食った。家族とも関わっている。


 分村すれば村長への道は開ける。だが新しい村を作るには時間も手間もかかるし、この家を出ることにもなる。蘭と婚約し、いずれ結婚することで村長への道が開けるなら、それはそれで合理的だ。


 いや、結婚を合理性だけで決めていいのか。


 前世でも政略結婚などいくらでもあった。家柄、利益、派閥、地位。そういうもので婚姻は決まる。それに比べれば、蘭は私が知っている相手だ。嫌いではない。一緒にいるのも自然になっていた。


 なら、問題はない。


 ……本当にないのか。


 私が返事に困っていると、母が深く息を吐いた。


「剛理はまだ成人していないし、結婚はできないわ」


 先ほどの問いに答えてくれたらしい。ありがたい。ありがたいが、母の目はまだ少し冷たい。


「でも、婚約はできる。あと、村長の条件は変わらないわ」


「変わらない?」


「ええ。村長には村で一番強い者がなる。それは変わらない。ただ、蘭が将来、子を産むつもりで村長候補から外れるなら、その時点で村で一番強いのは剛理になるでしょう」


 なるほど。


 つまり、蘭と結婚すれば自動的に村長になるわけではない。村長はあくまで村で一番強い者。ただ、蘭が候補から外れるなら、次に強い私が村長になれる可能性が高い。


「もちろん、周囲の納得は必要よ。けれど、今の剛理なら大きな問題はないでしょうね」


「なるほど」


「そんなことを気にする前に、蘭に答えてあげてほしかったけれど」


「……はい」


 私は素直に頷いた。母に睨まれながら逆らうほど、私は愚かではない。


 横を見ると、父は黙っていた。いつもなら「いい筋肉だ」とか「結婚も筋肉だ」とか意味のわからないことを言いそうな場面である。だが何も言わない。右頬はまだ腫れている。いつ母にやられたのかは知らないが、少なくとも余計なことを言わない方がいいと学習したらしい。賢明な判断だ。


 剛武は口を開けてこちらを見ていた。蓮華はにこにこしながら頷いている。前からこうなると思っていた、とでも言いたげだ。そういえば蓮華は蘭と私の様子をよく見ていた。薄々何か気づいていたのかもしれない。


 私は蘭を見た。


 いや、蘭はまだ私に抱きついているので、正面からは見えない。ただ肩のあたりに顔が近い。蘭は何も言わない。私の答えを待っている。


 ここで長々と考えても、答えは変わらない。


 私は蘭を嫌っていない。一緒にいる時間も長い。強さも知っている。不器用なところも、少しは知っている。私から離れたくないと思っていることもわかる。


 結婚相手として考えたことはなかった。だが、蘭ならいいか。今の私に出せる答えは、それだった。


「蘭」


「……なに」


 近くで声がした。


「結婚するか?」


 言ってから、少しだけ言い直す。


「今は、婚約になるけど」


 蘭の腕に力が入った。ほんの少しではない。かなり入った。骨が軋むほどではないが、逃げられないくらいには強い。私は反射的に身構えた。


 蘭は短く答えた。


「する」


 それだけだった。だが、その声はいつもの平坦な声とは少し違った。小さく、けれど迷いがなかった。


 私の肩口に顔を寄せたまま、蘭はもう一度言った。


「これで剛理は私の」


 その表現は、やはり少し気になる。


「蘭」


「なに」


「俺は物じゃない」


「うん」


 本当にわかっているのか。返事だけは素直だが、抱きしめる腕の力はまったく緩まない。


 こうして、私と蘭の婚約は成立した。たぶん。


 少なくとも蘭はそう判断したし、母も止めない。父も黙っている。剛武はまだ驚いている。蓮華は嬉しそうに頷いている。


 母は私を見ていた。少し不満げだった。たぶん、私の答え方が気に入らないのだろう。もっと蘭の気持ちを受け止めろ、ということかもしれない。


 だが、私にはこれが限界だった。


 急に泣きそうな蘭に抱きつかれ、分村を止められ、結婚したいと言われ、所有宣言までされたのだ。その状態で返事をしただけ、かなり頑張った方だと思う。


 少なくとも、筋肉で解決しようとはしなかった。そこは評価してほしい。


 蘭はまだ離れない。


「蘭」


「なに」


「そろそろ離れるか?」


「嫌」


 嫌なのか。


 私は母を見た。母は少しだけ目を細めた後、苦笑した。


「蘭、少し苦しそうよ」


「苦しくしない」


 そう言って、蘭はほんの少しだけ腕の力を緩めた。だが、離れない。顔も上げない。私の肩口に額を押しつけるようにしたままだ。


 体温が近い。


 抱きついたままの蘭は、どこか満足しているように見えた。いや、顔は見えない。見えないのだが、腕の力や呼吸から何となく伝わってくる。


 今まで、蘭に何度も投げられた。掴まれたことも、背負われたこともある。だが、こうして抱きしめられたことはなかった。蘭にとっても、これは初めてに近いのかもしれない。


 婚約した。だから、もっと抱きしめていたい。おそらく、そういうことなのだろう。


 それにしても離れない。少しも顔を見せようとしない。蘭の耳が、少し赤い気がした。もしかして恥ずかしいのか。そう思ったが、口には出さなかった。今それを言うと、たぶんさらに離れなくなる。


 私は、抱きつかれたまま息を吐いた。


 婚約した。


 私は蘭と婚約した。


 村長への道は、分村ではなく別の形で開けるかもしれない。家を出ずに済むかもしれない。理知帝国への備えも、ここで進められるかもしれない。


 合理的だ。


 実に合理的だ。


 だが、胸の奥は合理性だけでは片づかない妙な重さと熱を持っていた。


 蘭の体温が近い。


 蘭は私を離す気がない。


 私は、そのことを嫌だとは思っていない。


 それが少しだけ、不思議だった。


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