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第14話 焼いただけの肉がうまい

 翌朝、私は妙にすっきりした気分で目を覚ました。


 寂しさはある。


 分村するということは、この家を出るということだ。


 父と母のいる家。


 剛武が気を遣いながら距離を測ってくる家。


 蓮華が当たり前のように守ると言ってくる家。


 まずい飯と、無茶な鍛錬と、筋肉という言葉がやたら飛び交う家。


 その全部から離れることになる。


 そう考えると、胸の奥に少しだけ重いものがあった。


 だが、それ以上に道が開けたという感覚が強かった。


 蘭に勝てない。


 村長になれない。


 理知帝国に備えるための立場も得られない。


 そう詰まっていたものが、分村という形で抜けた。


 まだ決まったわけではない。


 今日の村会議で父が話を出すと言っていた。


 そこでどうなるかはわからない。


 それでも、何も見えなかった昨日までとは違う。


 進む方向がある。


 それだけで、頭の中がずいぶん静かだった。


 私は起き上がり、朝食のために移動した。


 そして、食卓を見て足を止めた。


 いつもの飯がない。


 魔物の血肉の匂いがしない。


 鉄臭さもない。


 苦さを予感させる嫌な刺激もない。


 目の前にあったのは、焼いた肉だった。


 ただ焼いただけに見える肉。


 それと、横に置かれた野菜。


 切られてもいない。


 飾られてもいない。


 ただそこに置かれているだけの野菜。


 私はしばらく無言でそれを見つめた。


 何だ、これは。


 いや、見ればわかる。


 肉と野菜だ。


 問題は、魔物の血肉が混ざっているように見えないことだ。


 匂いもしない。


 まさか、祝い事ということで、今日はうまい飯を食べろということなのか。


 分村の話が出るから。


 村長への道が見えたから。


 これまでの鍛錬をひとまず終え、今日だけは普通の飯を食べてもいいということなのか。


 そう考えて、私は食卓の周囲を見回した。


 いつもならいるはずの母がいなかった。


 雷華がいない。


 珍しい。


 その代わりに、父はいた。


 剛力羅はいつも通りの大きな体で座っている。


 ただし、右頬が大きく膨らんでいた。


 魔物の牙を肩で止める父の頬が、明らかに腫れていた。


 見たことのない光景だった。


「父様、その頬」


「気にするな」


 気にするなと言われて気にしない方が難しい。


 だが、父がそれ以上語る気配はなかった。


 私は母の姿がない理由を考える。


 村会議用に別の料理でも作っているのだろうか。


 いや、いつもの村会議では朝飯は普通に作ってくれていた気がする。


 では、なぜ今日はいない。


 なぜ父の頬が腫れている。


 なぜ朝食が普通の肉と野菜なのか。


 疑問はある。


 あるが、目の前には肉がある。


 魔物の血肉の匂いがしない肉が。


 私は席に着いた。


 もしかして、今日からまずい飯は卒業ということでいいのだろうか。


 分村するなら、自分で食事の比率も決められる。


 鍛錬も必要に応じて調整できる。


 村長として立つなら、もう子供の頃のように母に管理され続けるわけではない。


 そういう意味でも、今日の飯は区切りなのかもしれない。


 いつもであれば、飯は味を感じないようにして食べるものだった。


 噛む。


 飲み込む。


 水で押し流す。


 体が拒む前に処理する。


 それだけの作業。


 味わうなどという行為は、とうの昔に捨てた。


 だが、今日は違う。


 味を感じてもいい。


 感じられる。


 私は焼いた肉を口に運んだ。


 噛んだ。


 次の瞬間、視界がにじんだ。


 涙が出た。


 今までのまずい飯のせいで、味覚がおかしくなっているのだろう。


 ただ焼いただけの肉だ。


 調味も大したことはない。


 理知帝国なら、もっと手の込んだ料理はいくらでもある。


 前世で食べた高級料理の中には、香りも食感も計算されたものがあった。


 こんな、焼いただけの肉。


 こんなものに泣くはずがない。


 家族との別れを想像した涙だ。


 そう言いたかった。


 言いたかったが、違う。


 うまい。


 めちゃくちゃうまい。


 何だこれは。


 肉とは、こんな味だったのか。


 焼いただけの肉が、こんなにうまいものだったのか。


 噛むと肉の汁が出る。


 苦くない。


 鉄臭すぎない。


 舌が拒まない。


 喉が身構えない。


 胃が悲鳴を上げない。


 ただ、肉がうまい。


 それだけで、今までの思考が全部吹き飛んだ。


 理知帝国。


 分村。


 村長。


 蘭。


 家を出る寂しさ。


 どうでもいい。


 いや、どうでもよくはない。


 だが、今はどうでもいい。


 肉がうまい。


 私は次の一口を食べた。


 うまい。


 さらに食べた。


 うまい。


 何だ。


 私は何のためにあんなに頑張っていたんだ。


 いや、強くなるためだ。


 地位を得るためだ。


 理知帝国に備えるためだ。


 家族を守るためだ。


 わかっている。


 わかっているが、焼いただけの肉がうますぎて、理由が全部遠くなる。


 私は野菜にも手を伸ばした。


 切られていない。


 そのままの野菜だ。


 雑だ。


 料理と呼ぶのも怪しい。


 だが、口に入れる。


 甘い。


 野菜が甘い。


 苦くない。


 嫌な刺激がない。


 口が拒まない。


 噛むたびに、普通の食べ物の味がする。


「うまい」


 思わず声が漏れた。


 止まらなかった。


「うまい……うまい……」


 肉を食べる。


 野菜を食べる。


 水を飲む。


 また肉を食べる。


 涙が出る。


 止まらない。


 今までの苦行は何だったのか。


 魔物の血肉飯。


 痛い飯。


 口に入れるたびに体が危険信号を出す飯。


 あれを何年も食べ続けた果てに辿り着いたのが、ただ焼いただけの肉。


 報われた。


 私は報われた。


 村長になれるかどうかより先に、まず朝飯で報われた。


 この瞬間のために生きてきたと言われても、少し納得してしまいそうだった。


 剛武が少し引いたような顔で私を見ていた。


 蓮華は目を丸くしていた。


 父は頬を腫らしたまま、黙っていた。


 誰も何も言わない。


 私は構わず食べ続けた。


 食事とは、こんなに素晴らしいものだったのか。


 そう思っていた時、扉が開く音がした。


 私は涙目のまま顔を上げた。


 そこにいたのは、今朝から姿を見なかった母だった。


 雷華。


 そして、その隣に蘭がいた。


 こんな朝早くから蘭が来るのは珍しい。


 そう思った次の瞬間、蘭が私を見た。


 いつもの無表情ではなかった。


 顔が少し紅潮している。


 目が揺れている。


 口元も固い。


 私は初めて見る蘭の表情に、言葉を失った。


 蘭は一歩前に出た。


「私は分村は認めないわ!」


 声が大きかった。


 蘭がこんなに感情を荒げて、大きい声を出すところを初めて見た。


「もし分村するなら、あなたについていくから!」


 私は動けなかった。


 口の中にはまだ肉の味が残っている。


 頬には涙が残っている。


 頭は、うまい飯から急に現実へ引き戻されたばかりだった。


 分村。


 蘭。


 ついていく。


 情報がつながらない。


 蘭は私を見ている。


 まっすぐに。


 いつものように淡々としていない。


 初めて見るほど、感情が前に出ている。


 私はその姿から目を逸らせなかった。


 すぐに言葉が出ない。


 かろうじて出たのは、かすれた声だった。


「どうして、分村のことを」


 冷静に考えればわかる。


 横に母がいる。


 母が伝えに行ったのだろう。


 昨夜、父から分村の話を聞き、何かあったのだろう。


 父の頬が腫れている理由も、たぶんそこにある。


 だが、口から出た言葉はそれだった。


 蘭は短く答えた。


「母から聞いた」


 そりゃそうだろう。


 聞かなくてもわかる。


 母というのは雷華のことだろう。


 蘭の母ではない。


 そこまで考えて、ようやく頭が少しずつ回り始めた。


 母から聞いている。


 なら、母に伝えたのは父だ。


 今日の村会議で出すつもりなら、父は当然母に話したはずだ。


 つまり、蘭は分村の話だけでなく、私が村長になりたいということも聞いている可能性が高い。


 私がこの村を出ようとしていることも。


 私は匙を置いた。


 さっきまで世界の全てだった焼き肉の味が、急に遠くなる。


「俺は村長になりたいんだ」


 自分でも驚くほど平坦な声だった。


「ならないといけないんだ。邪魔をしないでくれ」


 冷静になったつもりだった。


 だが、声に感情が乗っていない。


 まだ整理しきれていないのだろう。


 蘭の表情。


 大きな声。


 分村を認めないという言葉。


 ついていくという言葉。


 それらが頭の中でうまく処理できていない。


 蘭の返答は短かった。


「嫌よ」


 だが、意思は強かった。


「絶対に嫌」


 私は眉を寄せた。


 ここまで頭が働かないのは、感情を露わにした蘭を見ているせいかもしれない。


 いつもの蘭なら、短く淡々と返してくる。


 勝っても笑わず、負けても騒がず、黙ってそこにいる。


 それが蘭だった。


 なのに、今の蘭は違う。


 まるで別人のように感情が前に出ている。


 だが、だからといって許せるわけではない。


 私は昨日、分村について考えた。


 この村を出ること。


 新しい村の長になること。


 理知帝国に備えること。


 家族と離れること。


 寂しさも含めて、進むと決めた。


 それを、ただの感情で邪魔されるいわれはない。


「蘭はいったい何がしたいんだよ!」


 声が強くなった。


 自分でも少し驚いた。


 蘭は逃げなかった。


 むしろ、さらに一歩前に出た。


 そして、叫ぶように言った。


「そんなの、剛理と結婚したいに決まってるじゃない!」


 時間が止まった。


 私は蘭が言った言葉を理解できなかった。


 結婚。


 誰と。


 私と。


 蘭が。


 なぜ。


 いや、剛力王国で結婚という言葉の意味は知っている。


 力のある者が相手を選ぶ。


 強い女が婿を選ぶこともある。


 弱い男は人気がない。


 蓮華にもそんなことを言われた。


 知っている。


 知っているが、今ここで蘭から出る言葉としては想定していなかった。


 私は固まったまま動けなかった。


 口の中に残った肉のうまさも、どこかへ消えた。


 母が静かに蘭の背中を押した。


 蘭は一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。


 私はまだ動けない。


 戦いなら反応できた。


 魔物の突進なら避けようとした。


 蘭の踏み込みなら、崩される前に対応しようとした。


 だが、これは無理だった。


 結婚したいと言われて近づいてくる蘭への対処法など、剛武にも父にも習っていない。


 蘭は私の前まで来た。


 そして、そっと私を抱きしめた。


 戦いの時のような力ではない。


 投げるためでも、崩すためでもない。


 力加減を確かめるような、けれど離したくないような抱き方だった。


「あなたは私のなんだから」


 耳元で聞こえた声は、いつもの平坦な声ではなかった。


 泣きそうだった。


「遠くに行かないでよ」


 私は何も言えなかった。


 蘭の体温が近い。


 声が近い。


 腕に込められた力が、強いのに震えている。


 私はそこで、ようやく思い出した。


 蘭は、いつも一人で広場を見ていた。


 私が挑むと断らなかった。


 私を気絶させると家まで運んだ。


 うちの食卓をじっと見ていた。


 私が気絶しなくなって運ぶ理由がなくなった後も、誘えば食事に来た。


 怪我をした時、見舞いに行くと追い返さなかった。


 私は全部、都合よく解釈していた。


 蘭は戦う相手が欲しいのだろう。


 飯が食いたいのだろう。


 暇なのだろう。


 倒すべき相手なのだろう。


 そう考えていた。


 だが、蘭の中では違っていたのかもしれない。


 私はまだ、彼女のことを何もわかっていなかった。


 食卓は静まり返っていた。


 父は腫れた頬のまま黙っている。


 剛武は目を見開いている。


 蓮華は口を押さえている。


 母だけが、静かにこちらを見ていた。


 私は蘭に抱きしめられたまま、ようやく息を吸った。


 焼いただけの肉で報われたと思った朝は、ほんの数口で終わった。


 その代わりに、もっと大きな問題が目の前に現れた。


 蘭が、私を離そうとしない。


 そして私は、何を言えばいいのか、まったくわからなかった。


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