2話 木蘭と竜舌
昭和の激動が吉原を侵食する中、「月下美人」の奥座敷だけは、時間の流れが淀んでいるかのように静まり返っていた。
木蘭にとって、竜舌はただの先輩遊女ではなかった。
五歳でこの門を叩き、両親の顔も忘れかけた幼い自分に「木蘭」という名を与え、泥の中から立ち上がる術を教えたのは、他でもない竜舌だった。
「男の言葉はね、小判より軽いんだよ。耳で聞かずに、その指先の震えで見なさい。欲に震えているのか、恐怖に震えているのかをね」
幼い頃、竜舌の膝の上で教わったのは、美しいお伽話ではなく、人を支配するための残酷な歴史と、金を転がすための冷徹な算術だった。竜舌は、男たちが束になってかかっても太刀打ちできないほどの知性と、決して誰にも触れさせない聖域のような気品を保ち続けていた。
実際、竜舌は「月下美人」一の稼ぎ頭でありながら、その身体は今なお誰にも「散らされて」いない。
身請けを願い出る大富豪や、権力に物を言わせて抱こうとする政治家もいたが、彼女はその圧倒的な「知」の暴力と、自称300年の重みで、男たちを精神的に去勢し、跪かせるだけだった。
一方、木蘭は違った。
彼女は竜舌からすべてを学びながらも、たった一つ、師が持たない「情」を捨てきれなかった。
「……竜舌。私は、真稜様に水揚げされて、それで良かったと思っているわ」
木蘭は、自らの白い手首を眺めながら呟いた。
祖月輪真稜。カラスバの若き獅子。彼に初めてを捧げた夜、木蘭は自分が「物」ではなく「女」になったのだと信じた。彼が語る新しい時代の夢に、自分の居場所があると信じてしまった。
「良かった、かね」
竜舌は、鏡の前で櫛を動かしながら、一度も振り返らずに言った。
彼女の黒髪は、夜の闇を溶かしたように深く、その肌は月下美人の花びらのように透き通っている。二十年前と、何一つ変わらない姿で。
「あんたは彼に身体を許し、心を許した。それはね、戦う武器を自分から捨てたのと同じことだよ、木蘭。男にとっての『落とした女』は、手に入れた後の帳簿の数字と変わらない」
「真稜様はそんな人じゃない! 彼は私を、この籠の中から連れ出すと……」
「連れ出すさ。ただし、それは『愛人』としてか、あるいは彼の事業の『飾り』としてだろうね。木蘭、あんたは私から歴史を学んだはずだ。権力を握ろうとする男が、最後に何を切り捨てるのかを」
竜舌の声は、冷たい刃のように鋭く、木蘭の胸を切り裂いた。
竜舌が誰にも身体を許さないのは、気難しいからではない。一度でも「散らされれば」、その瞬間に自分が積み上げてきた300年の均衡が崩れ、ただの「女」に成り下がってしまうことを知っているからだ。
「……あんたは、一生そうして一人で、誰にも触れられずに枯れていくのね」
木蘭の精一杯の反論に、竜舌は初めて小さく笑った。
それは慈悲のようでもあり、深い諦念のようでもあった。
「枯れる? 私は蜘蛛だよ、木蘭。蜘蛛はね、巣を張って待つのが仕事さ。男たちが勝手に絡め取られて、勝手に死んでいくのを、私はただ眺めているだけ。……真稜が来たようだ。あんたの『愛』が、いくらの値で取引されるのか、せいぜい見極めるんだね」
階下から、真稜の履く高級な革靴の音が響く。
その足音は、木蘭を救いに来た王子の足音か、それとも彼女を過去として踏みつける覇者の足音か。
木蘭は、冷たい視線を送る竜舌の前で、震える手で紅を引き直した。




