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第八十五話

 紫が記憶を取り戻してから、瞬と紫は片時も離れず一緒に過ごした。

この日も海に沈む夕日を見ようと庭の草むらに座り、瞬の足の間に紫が逞しい胸へ寄りかかるように座っている。

瞬は紫の後ろから抱き締めている状態だ。


「私ね、何で海を見るのが好きなのか、不思議だったの。ずっと日本への望郷の思いだと思っていたんだけど……」

「違ったのか?」

「記憶を取り戻してから、瞬と歩いた海を思い出して……だから、夕日を見るのが好きだったんだろうなって思って。」


抱き締める腕にキュッと力が籠り、後ろから伸びたその腕が紫の首に掛けてあるピンク色の小さな勾玉を指先で弄ぶ。


「我がこの勾玉を送った時であるな。あの日の夕日は、今でも覚えておる。紫からの情熱的な口付けに、我は自分の想いを止める事が出来なかったのでな。」

「ま、まぁ……確かに自分からキスした……かも?」


恥ずかしそうに疑問符をつけて少し俯く紫を見て、瞬は微かに笑う。


「何故疑問系なのだ?」

「だって……」

「我はあれほど嬉しかった事は無いぞ。初めて紫から我を求めてきたのでな。」

「も、もう恥ずかしいから、この話は止めようよ……」

「ははっ!紫から話を始めた故、我がそれに応えただけであるぞ。」


その時、くしゅん!と紫が小さくくしゃみをした。あともう少しで陽が沈めば、もっと海風は冷えてくるだろう。

そう考えた瞬は、何か掛ける物を持って来ようと立ち上がる。


「今日はいつもより冷え込む故、掛ける物でも持って来よう。」

「あっ、私も一緒に……」


紫も立ち上がり、瞬の後を追う。


「ならば共に……」


振り向いて手を差し伸べた瞬が、はっと息を飲んだ。紫の身体に遮られている筈の陽の光が透き通って見えたからだ。

身体の一部が透けて見える事はあった。だけど全身が透けてきたのは、初めてだった。


ま、まさか、限界なのか……

再び会えて、やっと幸せになったばかりではないか……


よろよろと近付き、力の限り紫を抱き締める。少しでも長くこの世に紫を留めておくように。


「瞬、苦しいよ。どうし……」


言い掛けて、紫も言葉を詰まらせる。触れている筈の瞬の温もりが、段々と感じられなくなってきたからだ。


私、身体が透けてるんだ……だから瞬は……


少しすれば鈍くなった感覚も戻るかもしれない。今までがそうだったように。感覚が戻れば透明感も治っている筈だ。

そう思うものの、失った感覚は元に戻る気配が無い。


「……もう少し…………もう少しだけ我の傍に………」


少しずつ鈍っていく思考の中で、紫は気付いていた。


あぁ……さっきまで感じていた風が撫でる肌寒さも、抱き締めてくれる瞬の腕の温もりも……感じられなくなってきた……

もう……限界なんだ……


「瞬の顔が見たい……」


絞り出すような声に、瞬は腕の力を少し緩める。

紫の身体は更に透明感を増していた。


「紫……逝かないでくれ…………」


まだ……まだ一緒に居たい…………


懇願するよう伝える。紫はそれに答えず、透明感のある手を瞬の頬をに添える。


「瞬、ありがとう……瞬のおかげで、幸せだったよ……」

「まだ……まだ、足りぬ……もう少しだけ……」


紫は困ったように微笑んで、瞬の頬に伝う雫を拭おうとする。


「先に……待ってるね……」


溢れ落ちる涙も構わず、瞬は顔を小さく横に振る。


「もう少し……もう少しだけで構わぬ…………」

「瞬……愛してる…………」


紫の身体は既に向こう側の景色を写し出している。


「うっ…………紫……我も愛しておる…………愛しておる故……」


もう少しだけ……


瞬の願いも虚しく、紫は言葉を出せなくなっていた。すでに覚悟を決めたように、優しい笑みを浮かべている。


「嫌だ……嫌だ……」


瞬の頬に添えられていた紫の手が、サラッとした砂のように感じられた。そして、少しずつ触れている面積が狭まっていく。


「…………頼む……紫…………まだ逝かないでくれ…………」





  紫はにっこりと笑って………………

  さらさらとした砂に変わり、腕の中をすり抜けていった…………





 ……温もりが……消えた…………


ぽっかりと空いた腕をだらりと下ろし、瞬は膝をついて砂の山の中から勾玉を拾い上げた。

紫がかまいたちに襲われた時、瞬が背中に埋め込んだものだ。


「くっ……こんな物さえ無ければ!!」


瞬は力の限り、勾玉を地面に叩きつける。

何度も、何度も、言い表せない程の悲しみをぶつけるように、何度も叩きつける。勾玉を握る手に血が滲んでも、叩きつけ続ける。それでも勾玉が割れる事は無い。

その時、海風がさっと砂を舞い上がらせた。


「紫、待て!行くな!」


舞い上がった砂を必死にかき集める。それでも海風は容赦なく砂を拐っていく。


「行かないでくれ~~~!!!」


叫びながら、かき集めた砂の上に覆い被さる。


「……うっ………………もう二度と……紫を抱き締める事が出来ぬのか……」


応えてくれる愛しい人は、もう居ない。


「…………紫…………うぅ……紫………………」


もっと共に過ごしたかった……もっと抱き締めて、口付けをしたかった……

会えなかった二百五十年分、愛したかった……


もっとと願う想いは、涙となって止めどなく溢れていく。

どのくらいそうしていたのか、陽の光は海に沈みかけて綺麗な夕日に変わっていた。紫を初めて抱いた日に見た夕日と同じくらい綺麗な夕日だった。

瞬は涙を拭うと、ぐっと勾玉を握り締め、妖力を込める。

もののけは妖力が尽きた時に、寿命を迎える。まるでそれが望みかのように、強い妖力を勾玉に込める。


「くっ……も、う少し……」


瞬がより一層力を込めて残りの妖力を一気に使い果たすと、勾玉にピキッとひびが入り、砕け散った。


「紫……約束を果たしたぞ……」


すぐにそちらへ行くからな……




幸せそうに笑い…………


ふっと身体から力が抜け、その場に崩れ落ちていった…………




─────




 「御隠居様!紫!もう暗くなるのに、二人とも何処へ行ったんだろう……」


食事の用意をした美華は、二人の姿を探して家の中を探し回る。


「美華、どうしました?」

「あ、慧。御隠居様と紫を見かけなかった?」


美華の声を聞いて部屋から出てきた天鼠部長に、二人が居ない事を伝える。


「二人が…………まさか!」


紫の身体が初めて透明になってから、一週間は経っている。

その事に気づいた二人は、姿が見えない家の中から紫がいつも夕日を眺めていた庭へ飛び出した。


「紫さん!瞬さ……」


天鼠部長の言葉が止まる。庭を見て事態を察した美華は、その場に泣き崩れる。


「うっ……ゆ、かり……御隠居様……」


震える美華の肩を、天鼠部長はそっと抱き寄せた。


「二人は、やっと結ばれたのです……何のしがらみも無い世界で……永遠に…………」


そう言って、天鼠部長はもう一度薄暗くなってきた庭へ目を向ける。

その目に映るのは…………




さらさらとした砂の山を守るように覆い被さる、息絶えた銀色の仔狐だった。



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